文化的活動って憧れるよね!

それはそうと、暴動です。主にアナキズム誌最新号の特集が。まだ、買ってないので中身がどんなかは知りませんが理論や批評が強い印象の雑誌なので、われらが無為徒食の同胞諸君の期待するような具体的なやり方とかは載ってないと思います。まあ、そんなもの載せてもすぐ賞味期限切れだろうし、抽象的な原理だったら理論と変わらんし、あまり文章化する意味がないのかもね。特別、そういう気配を感じられないうちは。でも、世間は不況だ恐慌だ失業だって騒いでるし、煽るのは結構大切だと思います。

で、唐突に思い出したんだが、五月だかに

http://bunfree.net/

というイベントがあるのね。いけ好かないチェキストが去年も参加していたので、当然今回も申し込みをするのだろうと思ったら、「面倒だからどうかな」という返事。野郎の名前と住所で勝手に申し込もうかしら。特集は暴動一択で。もしくは一揆。あるいは焼き討ち。

米騒動とか血のメーデーとか、要は暴動と騒乱だよね!

2月8日に反政府デモ(笑)があるよ!

というか、これはアレだ。ビラまきが怖いとかそういう話ではまったくなくて、単に去年から続く労働運動への弾圧の一環なんではないのかしら。要するに世間の同情を集めてるうちはまだいいけど、それが消極的にであれ支持されている(ように見える)のなら、それは危険だという認識なのかな。つか、連中からみると不況というのはそれだけで「反社会的集団」*1が活躍しかねない状況なので、とりあえず最近のフリーハンドっぷりを利用して潰せるうちに潰しておきたいということなのかしらね。

で、下のイベント告知には「不満はなんでもいい」と書いてあるので、「合法マフィアはくたばれ」という理由で参加しようかな。

http://asou.taose.jp/article.php/20090129184637611#

*1:しかし、近頃目の敵にされてるフリーター労組とかってどこら辺が過激なのかしら。別に革命とか暴動とか言ってないし、目指しているようにも見えないんだけど。

ビラまきしてたら合法マフィアが不当介入@新宿駅



明治期かよ!とか、突っ込みをいれたくなる。平和の担保はオマワリの脅迫と拉致によって成立しています。すーてーきー。

死ね!

法的にグレーな部分に介入して、既成事実化することで白黒をつける力を権力といいます。法の独裁とかいうオモシロ観念が愉快な脳みその人たちの手によって、いつの間にか単なる権力の惰性と勘違いされているのがヤポネシア民共和国ですが、そもそもオマワリはどこに言ってもその実力行使によって自らの権力を基礎付けているのであって、法的根拠を有する命令という形で自らを法の代理人としていることからみても、法に規制されているというより(それは既に日常的慣例によって乗り越えられています)、国家に定義されている以上はそれを踏み越えることは出来ないというだけの極めてふざけた存在です。

法とか民主制とか護憲とかいった素敵フレーズを建前としてであれ、実質としてであれ維持したい人々は本来であれば、司法権力というものに極めて大きな注意を払うのが筋ですが、基本的に不作為の合理的根拠であるか、さもなければ国家意思との癒着という形でしか、自分を慰撫できないひとがたくさんいるので、そんなものは出てきません。

なんにせよムカつきます。不愉快です。気分の悪いものにはご退場願いたいと思うのが自然です。反警察リングでも作ろうかしら。

とか思ったけど、よく考えたら天皇制解体リングも参加しといて、まともに活動してないワタクシ様なので色々とアレだ。つか、俺以外に入るやつはいるんだろーか。そもそも、根拠とかどうでもいいというスタンスなのでもっとアレ。

だって、ポリ公の活動が違法か合法かなんて誰も気にしてないでしょ。違法だったら問題ですねで終わるのがオチだし、合法性のカケラでも見つかれば鬼の首をとったように騒ぐだけだし、そもそも何もなくてもオマワリが何かしたというその事実性のみに依拠して、その振る舞いを合理化するじゃん。そんな場所で(連中の行為が)合法とか違法とか、意味あんの?まあ、違法だったら効果的な嫌がらせが出来るとか言う話なら乗るけどね。

現状では単にポリ公が存在しているその時点で、非常に問題です。制約や規制がほとんど意味をなさないからです。ことに政治的活動に対する抑圧という面では、極めて異常なやり方がまかり通るわけですしね。

というか、法と国家を分離したことのない社会で法治とか笑わせんな*1

参考URL:
http://d.hatena.ne.jp/spiders_nest/20090129/1233163155
http://d.hatena.ne.jp/tzetze/20090130/1233250966
http://autonome.blog7.fc2.com/blog-entry-71.html

*1:まあ、個人的には法治の観念も大嫌いですけど。

正直、よく分からないけどな。


当分はメモしか書かないことにしよう。楽だし。


●人権とかいうと何か能天気というかオベンチャラに聞こえる、というのは結局、具体的な事物や出来事や経験と結びついた形で価値づけられることがなかったからなのかしら、とか思う。だから、人権の話はいつでも文字通り他人事であって、他人の困難や不幸に対する同情か道徳的定言命法としてしか現れないのかもしれない。そういう風に機能してしまうというのは、でもそれぞれの個人の意識にとってでしかないなら、大したことではないと思う。それを決めるのはその人間の意志だし、なによりそのように感じ、そのように思う以上、彼あるいは彼女にとっての正当性と動機は既に彼ら自身のものとなっているわけだし、それに逆らうのも、従うのも彼らの問題でしかない。


ただ、動員の論理ということで考えると、もう少し浸透力のある言説があっても良いのではないか、とも思う。というより、もう少しだけ他人たちの利害関心と接続可能な形で提出できないかなという、単にそれだけの話。一般的に動員の論理というのはあまり良い目では見られないし、それが他人たちをそれ自体目的と見なすのではなく、専ら手段として利用するという点で、要するに意味や価値よりも技術の方に親和性が高いという理由で、真っ当さを自明なものとする人々には疎んじられる。でも、この論理はひとつだけ少なくとも、ほかのどんなものより「良い」ところがある。それは、およそどんな人間であっても、その論理の射程に持ち込めるなら、潜在的にであれ手を結ぶ可能性を提出できる、という点だ。要するに、連帯や共闘の前提を作り出すことができるのだ。たしかに、そのためには判断する主体が個人として前提される必要があるから*1、社会的な現実としての規範意識や心情的な親和性という壁を軽視する危険性もあるし、あるいは逆にそうした状況において、効果的であろうとすれば自らの道徳意識や正当性から逸脱する蓋然性もある。


でも、たとえ、強固な同一性や親和性が感情も言説も意識も支配しているとしても、なんらかの利害関心を喚起できるのなら、そのほうが好ましいことは目に見えている。というより、あえて効果的たろうとして、同一性や親和性を刺激する論理を持ち出すことは、短期的戦術以上のプランが見当たらない場合には大抵が単に迎合主義的でご都合主義的な、それこそ「おべんちゃら」にしかならない。そして、なによりも私はそうしたいとは思わないし、そうしない方がより好ましい。


これは弱い論理だろうか。でも、この弱い論理はいつでもヴァリアントを無数に増やしていける、という能力がある。


●具体的に、どうすればいいのか。さっぱり分からん。


●思いつきで言うなら、住宅問題とか雇用問題とかいった形で先鋭化する<貧困>の論理の延長線上に<外国人>の置かれた具体的状況を接続することかしら。でも、これはブーメランだといわれるかもしれない。すぐにそれと危惧されるのは、彼らの<権利>の無さは、国民たる<われわれ>の現在をよりいっそう<幸福>として認識するよう、抑圧的にしか機能しないのではないか、ということだ。


●ただ、意外と重要かもしれないと思うのは、そもそもこの社会が人間を人間とは扱わないという端的な事実の方で、実際、この社会は本当に個人というものを少しも認めていない。それはさまざまな制度とその認識が物語っている。住居がない人間、正確には住民票がない人間には行政サービスも受けるうえできわめて強固な障壁があるにも関わらず、住居それ自体がすでに何らかの<保障>を求める。保証人というのが典型的であるけれども、この観念は明らかに家族制を前提としているし、しかもその<家族>は既に労働によって社会的に安定した再生産のサイクルを持続的に維持している必要がある。あるいは、非正規労働の給与が正規労働の半分以下であったりすることは、要するに非正規労働によって人間が再生産することは前提とされていないということであるわけだから、そうした労働に生きる人間は独立した存在には現実的になれないし、またそう見なされないということになる。おまけにそうした人間たちが制度に手を触れようとすること、要するに何らかの社会的変化を求める行動を取ろうとすると、それは非現実的で非日常的な振る舞いとみなされる。彼らは日常においてより不遇で、不幸な状況にあるにも関わらず、そのことに真剣に取り組んでいないとみなされる。要するに彼らに許されるのは単に労働して、単に生活を維持し、なんとか体裁を取り繕うことだけなのだ。まともに働いたとしても、人並みの生活が送れるようになるわけでもないのに、働くことはむしろこの場合義務であるよりも、はるかに道義的な意味合いを担うようになってしまう。ほとんど、意味の無い無間地獄のような生を再生産し続ければ「まともにはたらいている」とみなされるのだろうか。しかし、そうなったからといって何が変わるのだろうか。構造的問題は個人の問題に摩り替えられ、ひどい場合には社会的諸制度が人間にとっての必然=自然とみなされ、粗雑な適者生存の論理が嘯かれる。あるいは、もっとなんでもないことでもかまわないけれども、国家が国民にのみなんらかの保障をして、それ以外の人間集団を省みないことが自然と見なされたとしても、現にこの社会はその国民とやらにマシなサービスのひとつも提供していないし、それが前提とした、あるいは未だにしている国民は明らかに多くの条件外とされた人間たちの労働によって養われている。この場合、条件から漏れた人間たちが<国籍>を保有しており、それゆえに法的には一定の有利な条件を備えているとみなされていたとしても、事実においてはあきらかに十分な生活を送るに足る保障を受けることができない以上、<国民>なる人間たちの仲間になれない。


●あー、つかさ、入管の強制収容所の劣悪な環境とかその暴力的な管理――監視して、追い回して、探りまわり、拉致する――って、単に外国人であるがゆえの権利の制限とかいう話以前に、ポリ公が何であれ逮捕しようと思えばいともたやすく裁判所から許可を得られるし、起訴すれば大抵有罪にできるし、容疑者をいつでも好きなように長期間拘留できるといったことや、そしてなによりこれらすべてを司法暴力は脅迫のタネに出来るということとパラレルな話であって、懲罰房みたいな狭い檻(窓もない!)に人間を閉じ込めることを大した問題ではないと思える人間たちがたくさんいる社会というのは、それが<仲間>であれ<よそ者>であれ、どっちにしろ人間を人間として尊重しないということだよね。


●オマワリとか司法の話をしても食いつかない人は大勢いるだろうし、それはそれで現実なわけだけれども、これが労働や住居やそのほかの生活コストをめぐる<貧困>と接続できるなら、一連の射程それ自体を人権概念の価値付けや基礎付けとすることもできるのではないかなー。


●とりあえず、ウサギ小屋に高い金払ってる身としては、人間にとっての最低限度の快適な空間性というものについての恐ろしく貧困な基準が、強制収容所の非人間的な環境をも基礎付けているのではないかとか考えてみることにします。


●だんだん、そのとおりなきがしてきたよ!


そこで暴動です。とりあえず、なにはなくとも暴動です。

*1:さすがに端折りすぎな気がするから説明してみるよ。あれだよ、なんだよ、なにかだよ。「動員」とか聞くと本能的に警戒するけど、よくよく考えてみると、動員されるとか動員するとかいう権力関係よりも動員それ自体が根ざしている人間の傾向をきちんと検討する方が先で、なにより動員の問題はしたりしなかったりできるような類の代物ではないわけですし、集団性一般の持つ宿痾みたいなものなわけだから、使えるなら使えばいいじゃない――というスタンスでしか臨めないのは堪忍な。手段は手段です。それでなー、動員とくると、大抵は集団としての人間を行動に駆り立てるロジックと思われがちですが、そういうのは当該の集団性が行動にインセンティブを与えている場合であって、必ずしも絶対的な要件ではないと思います。むしろ、ある集団性が行動を自粛する方向で組織化されるなら、行為は自分の社会的規範価値と敵対する形になり、おのずと個人たらざるをえなくなるということの方が一般的であって、消費の論理が客観的には集団的蓋然性に従うにも関わらず、主観的には己自身を商品の従属物ではなく選び手であると認識する<個人>を必要とするように、動員の論理も動員される<個人>を前提としているのではないでしょうか。大体において、自分をオミットする形で従うことは出来ても、自発的な意思で集団行動を組織することはできないんだから、そもそも動員の集団的論理なんて成立するわけないじゃないか。動員が集団的なものとしての機能を前面化させるためには、必然性とか宿命的なものが必要でしょうに。

ついでにいうと政治的価値とかいうのもどうでもいい

万引きを煽る反資本主義運動、世界各国に飛び火
http://wiredvision.jp/archives/200508/2005083002.html


ブクマの反応:
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://wiredvision.jp/archives/200508/2005083002.html



引用だけでお茶を濁すよ。ピロオとオオタキたんの両方にケチをつけられたことで有名な某書から。

いま私たちは徐々に機械と同化、融合しつつあり、作家は、誰かにコンセントを抜かれてタイプライターが使えなくなったためでなく、誰かが作家自身からコンセントを抜いたために書くのをやめる時代がおそらく来ます。しかし、そうではない若者が現れています。なぜなら、その若者の電気コードは外部のどんな動力源ともつながっていないからです。彼の心臓は自ら鼓動しており、彼のエネルギーは「欺かれる」のをおろかなほど頑固に拒否する姿勢から発しているのです。つまり、スローガン、イデオロギーといった抽象的な大儀の走狗にさせるような、いかなるものにも取り込まれるのを拒否する姿勢から発しています。カリフォルニアで、わたしはそんな若者たちと生活をともにし、自分なりに彼らの世界に参加してきました。私は彼らの世界について語りたいのです。なぜかといえば、もし幸運にめぐまれるなら、その世界の何かが、価値観が、ライフスタイルが、私たち全社会の未来を作り上げるように思われるからです。私はSF作家として、つねに未来を見つめていなければなりません。私には希望があります。途方もない楽天的な気持ちであなたちにこれを伝えたいのです。その希望というのは、私たちの全未来は若者たちの頭の中に、いや心の中に芽ばえつつあるということです。彼らは若くて、まだ政治的にも社会的にも無力で、カリフォルニアの法律ではビールやたばこさえ買えず、投票権もありません。


すごい褒め称えかた。さぞかし徳の高い子どもたちにちがいない。

レイ・ブラッドベリの名作にこういうのがあります。恐怖にとりつかれたロサンゼルスのある市民が、自分のあとをつけてくるパトカーに人が誰も乗っていないのを発見します。私にとって恐ろしいのは、パトカーが主人公を追跡することではなく、車の内部に満たされない空白の部分があることです。何か決定的なものが不在なのです。これは悪夢と化した未来の黙示録的ビジョンとなっています。とはいえ、私自身はもっと楽観的な見方をしています。私がその小説を書いたとすれば、運転席にティーンエイジャーを乗せたでしょう。彼は警官が昼食時にコーヒーショップに入っている間に車を盗み、ばらばらに解体した部品を売りさばきます。いささかシニカルですが、このほうがいいのではないでしょうか。私の住んでいるカリフォルニアでは、警官が家宅捜索をしている間に誰かがパトカーのタイヤ、エンジン、トランスミッションをはぎ取っています。ですから、警官は署までヒッチハイクせざるをえなくなるはめになります。体制側の人たちにはゆゆしきことでも、私にとっては愉快です。人間の卑しさのほうが機械の優秀な働きより好ましいのです。若者たちはこのことを良く知っています。パトカーだっていつかは廃車となります。車なんてどれも似たり寄ったりで、消えてなくなれば、それだけのことです。とりかえがきかないのは車の中の人間です。たとえその人間が嫌いでも、その人間がいなければどうしようもないのです。いったん消えてしまえば、けっして戻ってはこないのですから。アンドロイドでも同じです。
 子供たちは新しい個性をはぐくみ、人々が依拠している真理を傲然と見下しているので、彼らは私たちにとって――トラブルの源になっています。必ずしも政治活動に携わっている若者ばかりではありません。政治スローガンがどんなに革命的なものであっても、それは過去への回帰です。私は「自分のやりたいこと」をやる、自立した若者のことをいっているのです。彼は軍の輸送車両の前に座り込むようようなまねはせず、車のトランクに四人の仲間を押し込んで入場料を払わずにドライブインの映画館に乗り入れる程度です。前者には意義があると賞賛され、後者は無責任なだけだと言われるかもしれません。しかし、後者にこそ、より幸福な未来図が見えるのです。歴史にはつねに、支配勢力に反対して結集する人びとの運動がありました。つまり、外部対内部の戦いです。これまでユートピアが作れなかったのはそのためです。これからもずっとそうでしょう。
 

ジョージ・オーウェルが想像した全体主義社会はすでに到来しているのでしょう。政府はオーウェルが予測したことをまさに実行しようとしています。かくて権力が存在し、動機が存在し、電子工学のハードウェアが存在していますが、それだけでは意味をなしません。なぜなら、誰も耳を傾けようとはしないからです。現代の若者は本は読まないし、落ち着きもなく、ぼけっとしていて、もの覚えも悪い。権力者の号令も彼には空しく響くだけです。彼は反抗しますが、理論やイデオロギーからではなく、利己主義から反抗するのです。それに加えて、服従しないと権力者が必ずもたらす恐ろしい結果には、関心を払いません。買収もできません。欲しいものがあったら盗むかして手に入れることができるからです。威すこともできません。街頭や自分の家で暴力行為を見たり、行ったりしてきたからです。暴力がこわくなった場合には逃げ出します。逃げられなかったら反撃します。警察のワゴン車がある若者を強制収容所に連れていこうとしている間、同じようなどうしようもない若者がタイヤを切り裂いていることに見張りの警官は気づきません。タイヤを替えていると、またほかの若者が自分の改造シボレーに、ガソリンを全部移しかえ、スピードをあげて走り去ってしまうのです。


わかもの、かっこいー。余談だけど、昔、高校のころ、何かの用事でやってきた白バイ警官のメットが消えるという出来事がありました。そいつがバイクを校門に停めて校舎に入っていった数分の間に。まあ、路駐してメット置いてく方が、頭が悪いんですが。それから三日後、ちかくの大学構内のゴミ箱から落書きだらけのメットが発見されましたとさ。あと、ヤクルトおばさんも鍵失くしてたな。某クラスメートの人の言葉がすべてを言い表しています。「これでヤクルトが飲み放題だ!!」いや、だったらバイクごとガメてこいよ。まあ、誰がやったのかは大体想像がついていたらしく、ヤクルトおばさんのキーは無事手元に返り、配達を続けることができました。労働地獄へようこそ。

SF的には、無政府状態におちいっている未来の全体主義国家の有様は次のようなものです。いまから十年後にテレビのレポーターが街頭で若者に、アメリカの大統領は誰かとたずねると、若者は知らないと答える。「だけど、大統領はあなたを処刑できるんですよ」とリポーターは抗議します。「あなたは刑務所にぶち込まれるか、権利を奪われ、財産が没収されます、何もかもね」。すると若者は答えます。「心不全になっちまったおやじが、先月まで同じようなことを言ってたな」。インタビューが終わり、レポーターが持ってきたものを取りにいくと、カラー3Dステレオ、マイク、ビデオレンズの一部がなくなっている。レポーターがしゃべっている間にこの若者がかっぱらっていったのです。
 全知全能の全体主義国家で、個人が人間として生き残るには、欺き、虚言を弄し、文書を偽造することが必要です。そして官憲当局の装置以上の、改良した装置をガレージで作ることです。テレビのスクリーンに監視されていれば、スイッチを切るのが許されている深夜に配線を替えたらいいのです。あなたの家の居間からの送信をモニターしている警察の連中の家の内部を映し出したらいい。でっちあげられた供述書にサインを求められたら、あなたが会員になっている模型飛行機ファンクラブに侵入してきた政府のスパイの名前を書きなさい。罰金は、にせ金か、不渡り小切手か、盗んだクレジットカードで払うといい。うその住所を告げること。盗難車に乗って裁判所へ行きなさい。裁判官が判決を下すさいは、彼の娘の避妊用ピルにアスピリンを入れとくと言いなさい。ポルノ雑誌の郵送者リストに彼の名前を載せるのもいい。それでも駄目なら、彼のクレジットカード番号を利用して、ほかの星の都市へ長距離電話をかけると威すといい。もう裁判所の建物を爆破する必要などなくなります。裁判官の名誉を失墜させる方法を見つければいいからです。たとえば、彼はある夜、車のヘッドライトを消し、ハンドルの前にシーグラムVOが五分の一入ったボトルを置き、車道以外を突っ走っており、バンパーには「アメリカの同性愛者に人権を」というステッカーが貼られている。彼はもちろんそのステッカーをはがすが、その姿をあなたと何人かの友だちが目撃する。そして、みんな一斉に公衆電話のところへ行ってこの情報を地元の新聞社も通報する。それでも彼がおろかにもあなたに判決をくだそうというのなら、あなたがうっかり彼の部屋に置き忘れた小型テープレコーダを返してほしいと頼むがいい。スイッチがこわれていて、十日間分が録音されているはずだとかいって。

私の住む郡に、できのわるいSF映画まがいのプラスチックとクロム合金でできた、バック・ロジャースが出てくるような郡庁舎がありますが、ここに入るときは電磁波のループを通らなければならないのです。鍵や腕時計、ハサミ、爆弾だろうが、三・〇八口径のウィンチェスター銃だろうが、金属類を持っていると警報が鳴ります。ピーッと鳴ったら、制服姿の警官にただちに調べられます。一年ほど前にあった悲劇的な銃撃戦のせいです。武器の探知についてはわかりますが、麻薬所持についても調べられるのです。エレクトロニクス装置をそなえた検問所が、爆発物や武器が郡庁舎内に持ち込まれるのを阻止するために設けられ、法律違反という共通の糸を張ることで警察機能を増大させています。郡庁舎内の郡立図書館に入るときも同様です。ドラッグを所持していないかどうか調べられるのです。私自身も図書館の入り口で制服姿の警官に、私が持っていた書物や書類を調べられたこともあります。次の段階には、交通量の多い交差点や銀行を含めたすべての公共の建物に強制検問所が設置されるでしょう。こういった制度がいったん確立されたら、専制政治がどこへ行き着くか諸君もおわかりでしょう。鍵、つめきり、コインのようなものまで探知する電磁波のループを国家は手にしています。ピーッと鳴る奇妙な小さな音は郡立図書館へではなく、おそらく牢獄へ入る扉に通じているのです。
 でも私が楽観しているのは、今日の若者は、邪悪がはびこる社会に生きているので、そうした装置のことは精通していて慣れっこになっているということです。私はある日の午後、雑貨店の前に車を停めて、後部座席に置いた包みを盗まれないようドアをロックしようとしました。すると連れの女性が、「その必要はないわ。ここの駐車場はいつも監視装置が見張ってるから。だから、大丈夫」かくして、ふたりはドアをロックしないで店内に入りました。むろん、彼女の言うとおりでした。


教訓:監視カメラのある場所では盗みをしない。コストとしての時間――カメラを潰し、盗み、逃げるまでの時間を考慮に入れること。
教訓の教訓:監視カメラは隠されている場合もあるから、常に注意を怠らない。

(…)アンドロイドは、私の知り合いの純真で利発な少女がやったようなことをやろうとは思いつかないでしょう。いささか常軌を逸し、いくつかの面で少なくとも伝統的な意味で道徳心も欠いてはいるが、陽気な反抗心、精神的ではないが生き生きした勇敢さとユニークさをかねそなえた人間的な行為を、アンドロイドは行えないのです。
 ある日のこと、彼女は自分の車を走らせていたのですが、コカ・コーラの瓶の詰まった箱をたくさん積んだトラックが前を走っているのに気がつきました。トラックが止まると、彼女は自分の車に詰め込めるだけのコーラの箱を積み込んだのです。その後何週間か、彼女とその友人たちはコーラをただで飲むことができました。空瓶は収集所に持っていき、瓶代を払い戻してもらいました。
 この少女に神のご加護を。永遠の命を給わらんことを。赤外線スキャナー、暗視スコープといったたぐいの仕掛けをそなえたコカ・コーラ社や電話会社など、さっさと消えてほしい。金属、石、針金、糸は生命を持っていませんが、彼女とその友人たち、そして私たち人間の未来はささやかな希望の歌をかなでています。「人間の魂は天へと昇り、けだものの命は地の下へ堕ちるのを誰が知ろう?」と聖書は問います。いつの日か聖書の改訂版は、「人間の魂は天へと昇り、アンドロイドの命は地の下へと堕ちるのを誰が知ろう?」と問うでしょう。アンドロイドが死んだ後、その魂はどこへ行くのでしょう?しかし、アンドロイドが生きていないとしたら、死ぬこともありません。死ぬことがなければ、いつも私たちとともにいることになるでしょう。アンドロイドは魂を持っているのでしょうか?私たちは魂を持っているのでしょうか?
 聖書が言うように、私たちは最後にはみな共通の場所へ行きます。しかし、そこは墓場ではありません。はるか彼方にある生命の中、未来世界の中へと行くのです。
 


併せて読みたい:
http://d.hatena.ne.jp/tzetze/20090114/1231957941

まあ、両立するんだろうけど。


でも、原理主義云々より国家制一般の暴力として捉えるのが正道な気がするよね。ジェノサイドの論理ってナショナリズムとかその裏返しのレイシズムの論理として語られることが多いけど、国家制の役割というか、その関係みたいのはあまり表立っては目にしないね。なんでかしら。


色々あるけど、どうしてもうまい宣伝文を書けないので、メモだけ。適当。反セム主義とか言われちゃう!


ポグロムが計画的だったと言われるのには理由があるし、またそうみなし得る当然の前提がある。それは歴史的に継続し続ける恒常的な状況であって、蓋然性の一つであって、つまるところ政治上の、あるいは国家制の目的合理性における一つの予測可能性だったということである。虐殺とその予感が常にありうるものとして、行動が計画されるなら、蓋然性の予測はより緻密に行いうるし、また情勢に対する働きかけのより詳細で精確な効果の予測技術も蓄積されていく。だからこそ、単に組織的陰謀があったのではなく、意図的であろうがなかろうがある傾向と発現において互いに結び付いたネットワークが存在することができ、現象をより過酷なものとし、また、計画性と自発性の柔軟な相互補完的関係を維持できたのだろう。「彼らはユダヤ人だ」という言表が理由や根拠とみなされるのなら、虐殺は社会的な定数なのである。

こんにち、パレスチナ人に対して行われている大量殺戮が人種主義的な観点に結びついていないと考える根拠はない。それが治安回復を口実としていようが、あるいは単なるその場しのぎの議会政治上の技術としてであろうが、帝国主義的拡張政策の帰結であるところの実質的な武力占拠と住民に対する様々な抑圧・迫害・殺戮の数々の意味は見間違いようがないし、どこにもイスラエル国家がこうした虐殺を正当化できる余地などない。正当性の審級において、ハマスは「協定違反」によって自殺的なミスを犯したと考えるのは簡単であるけれども、そのことはイスラエルという強大な軍事力と恒常的な軍事行動に支えられた国家制がポグロムを正当化することにはならないし、治安上の必要な措置という論理は恒常的な軍事暴力とそれを前提とした植民政策を制度の根幹に置いている以上は当てはまらない。人命を数量化することに反対するのであれば、なおのこと今回の軍事行動は正当化できないだろうし、仮に彼らの論理の核となる「正当な」自衛措置としての「報復」という論理で考えるのなら、ハマスによる攻撃の被害状況は、今回の軍事行動によって引き起こされた被害総体と比較することができないくらい軽微なものに留まることになる。


連中は、馬鹿のひとつ覚えのように、ハマスは停戦協定を打ち破ったと喚く。けれども、ずっと以前から「停戦」や「小康状態」があるたびに、わざわざ挑発を繰り返してきたのは誰なのだろうか。一時的な撤退や休止における次の作戦準備と導火線としてあちこちにばら撒かれる挑発行為という繰り返しは、イスラエル国家自身が決して「平和」など望んでいないことを明瞭に物語っている。国際法上認められない前哨植民地や撤退予定地への継続的占拠の姿勢は、停戦や「平和」への侵害ではなかっただろうか。入植地を手放すという決定それ自体がイスラエルマジョリティーの猛反発を食らうという現実を前にすれば、彼らの望む「平和」とやらがどういう意味合いかはよくわかる。それどころか、ガザ撤退における傲慢な身振りは単に官僚的な建前上の措置というよりは、まさしく撤退を認めず勝利を諦めていないがゆえの態度だったのではないかと思われる。



ハマスがかってファタハへの対抗軸として、またパレスチナ内部の政治空間に楔を打ち込むためにイスラエル情報機関によって支援されていたという簡単な事実を忘却していたとしても、イスラエル政府による挑発行為の数々はその量からも、またその常態と化した破滅的打撃という点からも、簡単に思い起こすことができるだろう。彼らはガザ撤退というパフォーマンスを国外向けに打ち出すと同時に、この行動の実質を完全に自分たちの論理に依拠して行った。つまり、彼らは一方的な入植地の「撤退」を行ったが、後に残ったものは単に「イスラエル軍収用地」であって、パレスチナ人の土地は帰ってきてなどいないし、彼らはその軍事的支配を解かず、あまつさえ分離壁の設置や検問による物的人的移動の支配を通じて「自治区」内の住民とその生活を以前と変わらぬ危機にとどめておくことを「自衛措置」と呼び、自らの軍事的圧力は維持したままで他人たちに対しては「非武装」を要求したのである。彼らの言う「和平」は単にイスラエルの「生存権」だとか「正当な自衛策」といったものを含んでいるから批判されているのではなく、そこで語られた「正当な権利」とやらの数々が、「平和」と正反対の「殺戮」か「封じ込め」のいずれか以外のどちらでもなく、その何れもが現状のヒエラルヒーを維持し続け、常に社会的に排除し抑圧し、可能であればその数を減らすことで、自分たちの優位を保とうとする露骨な主張でしかなかったからである。ついでながら、彼等が民族浄化を本気で考えているか否かはどうでもいい話だ。彼らは常にその蓋然性を手放そうとはしない、ということから考えてみても、答えは出ている。


というよりも、おそらくはイスラエル国家とは、如何にすればファシズム以降の世界で人種主義的な暴力を他人たちから阻止されることなく行いうるかの、具体的な回答なのだろう。いずれにせよ、イスラエルは「撤退」の最中も、またそれ以降も極度に強硬的な御馴染みの態度をただの一度もやめはしなかった。こうした「圧力」が何を意味するか、彼等が理解していなかったなどといえるだろうか。過去半世紀以上にわたって、彼らはこのプロセスを恒常化し続けてきたし、状況に適した形でこうした挑発と軍事行動の循環を利用しなかった試しはないのだから、今度の行動が単に日和見主義や融和主義的な政策の失敗であり、その政治的反動だとみなすのはあまりに事実を蔑ろにした能天気な認識でしかない。


あらゆる点において、パレスチナの現状にある否定的要因はすべてイスラエルの行動によって成立したものであり、実質的な意味において完全に責任があるのは彼らである。ハマスが何ものであったとしても、彼らの政治的志向性ならびに統治に対する反対や批判は、イスラエル国家の行動を合理化はしない。


イスラエル国家はこの暴力的統治(応酬や循環といった言葉を使うのは間違っている)を恒常化させることを狙っているし、それは具体的な戦術として一般化されている。パレスチナに対する物理的暴力としての軍事行動は住民の殺戮とその住居・インフラの破壊という形で社会それ自体を破産させ、非常事態に置き続けることを直接的な目的としている。彼らの公式の見解――ハマス指導者ならびに軍事要員の排除という目的がそこに含まれているということはそれ以外の、あるいはそれ以上の目的を持っていないなどということを意味しない。軍事行動の包括的な全体像(中・長期的な目標とそのプロセスを含む)は、停戦プロセスにおける不安定要因の排除であり、パレスチナへの実効支配を失うことなく、あらゆる過失やリスクを自治政府に押し付けて、パレスチナ人たちとその居住空間の正当性をイスラエル国家という正統性の下に置く形での「和平」であって、この「平和」は決して言葉が匂わせるような平穏無事なものではないし、道義的な正しさなど皆無である。この平和はこれまでもそうであったことの維持――不安定化と挑発、不意打ち――それらすべてを支える圧倒的な軍事的優位と実効支配の確保。そのための自治政府機能の弱体化・阻害・攻撃――でしかなく、その関係性を最終的に「合法」化し永続化することを目的としている。


●なるほど、ハマスはそれがたとえ願望でしかないとしても、世俗的な宗教の諸機能を政治空間において全面化させようとするという意味において確実に政治的反動である。と、同時に例えそれがある特定の理由にしか基づかないとしても、多くのパレスティナ人たちが彼らを選んだという事実も忘れられるべきではない。ハマスはテロリストだろうか?正確には彼らは自爆攻撃を含む非正規戦術を正当化するロジックを有している。と、同時に彼らは物質的な暴力や威嚇によってのみ今日知られるような政治的勢力となったわけではない。彼らがガザを実効支配できたのは彼ら自身の政治的能力ではなく、専らパレスチナ自治政府イスラエルアメリカならびに「国際」社会の手落ちやミスや失敗に由来している、と考えるのはかなり非合理的だ。消極的なものであったとしても、民衆からの支持基盤が確保されているからこそ、ハマスは正当性を持ってしまうのである。そして、彼らはイスラエルの宣伝とは裏腹に67年停戦ラインという妥協案を提出していた。彼らが政治的な立ち位置を巡って転向したのだとして、信用できないという謂れはない。


大体、この手のまがい物のジレンマはかなり以前からお馴染みのしろものだ。ブッシュの父親の湾岸戦争の頃からしてそうだったように、イラク戦争は「フセインかブッシュか」という選択肢に還元されることで一定の「道義的」な根拠を捏造した。心理的抑圧、と言ってもいいかもしれないが、この手の行為は本来「威嚇」とか「脅迫」とみなされるべきだ。一方に反対するものは他方の賛同者である、というのは実に幼稚で素朴なものの見方であるが、事実においては単なる同意が共犯関係の有責性をも負わせるのと同様に反対は敵対関係の他方を結果的にであれ助ける。したがって、アメリカの軍事行動ならびに国際社会の暗黙の了承を批判する人間は事実においてもイラク国家の味方をするのであり、フセイン独裁制を延命させることに加担する「自由の敵」である。こうした論理は正確に把握されようとされまいと、すぐに分かる感覚的与件としてメディアを通してばら撒かれる。


国家以外のアクターによる軍事行動への嫌悪感を別とすれば、一般的に軍事的暴力を正当な手段として認める人間は大勢いるけれども、先ず以って手段としての暴力は目的としての合理性とその正当性を所持していなければならないと理解されるからこそ、彼らは国家が「悪」を暴力によって制裁しようとする行動に対して何の抵抗も持たない。独裁やテロを行う連中は犯罪者であって、権力の行動が自己利益に結びついてたとしても、それを理由にならず者どもを擁護することは気が引けるというわけだ。少なくとも手段の正当性は正統性にかかっており、権力はその意思と行動において自由であり、かつまた己自身の自由な行動を道徳的な制裁を加える権利として合理化することの出来る主体であると理解するなら、実質的にどんな狙いがあろうと軍事暴力を行使する主権者はいかなる批判も予め封じ込めることができるようになる。その行使の事実によって正当化するとは、何も彼等が積極的な意味合いで「正しい」と看做されることを意味しない。むしろ、彼等が「過って」いようとも、その敵の道義的質を低下させ、その大儀を損なわせ、あまつさえ安全と平和に対する侵害者として表象できるなら、そのときには「必然性」――そうするだけの「合理的」根拠を国家制は手にすることができるし、それさえあればあとは彼らの武力による殲滅行動は許容可能な「行き過ぎ」として表現されることになる。


けれども、目的合理性という側面から見て「悪党」を「制裁」するはずの軍事行動は民間人を殺傷し、またその生活を破壊する。そして、彼らを物理的にも精神的にも追い詰めていく。ハマスを完全に排除できたとして――そんなことは不可能だし、それを承知で行っていることは火を見るより明らかであるが――抵抗がなくなることなど想像できるだろうか。抵抗は未知数でもなければ、予想外の出来事でもない単なる蓋然的な与件であって、むしろこの抵抗が組織化されず、社会的な基盤を築きえず、政治的な権力が発生しえないような状況こそがイスラエルにとって尤も都合が良い事態であろうことは容易に想像がつく。彼らはパレスチナ人の物理的殲滅を直接的な短期目標とはしていないだろう。けれども、彼らは少なくともパレスチナ人を、邪魔であれば除去していい「虫けら」程度の存在として扱っているし、基本的にはどんな些細な理由でも可能な限り力を行使する必要のある存在とみなしているし、軍事行動における行動基準が自明なものと化したレイシズムに基づく判断に支えられていないという証拠はどこにもない。その行動の合理的目標は中長期的なロードマップ上にある「ユダヤ人」の絶対的優越の確保であって、パレスチナ人の「独立」が如何なるものであったとしても、決して「ユダヤ人」社会との共存や公平な相互関係などというものが築けないよう、引き続いてゲットー化した劣悪な生活状況を維持し、可能な限り弱体化(分断、監視、抑圧、挑発、大殺戮といったパターンはすでに確立されている)させ続けるだろう。



●確かに、こうした目論見がうまく行く保証はないし、抵抗は消えはしないだろう。それにそもそも、もしそんなことが可能だとすれば、イスラエルはかつて「彼ら」自身が味わったと主張している状況にパレスチナ人を置くことを目的としている、と看做されざるを得なくなるだろう。とはいえ、現下の圧倒的な軍事力の差は、パレスチナ人の生存を完全に危うくしているし、このことはどのような正当性より以前に確保されるべき前提としての人間――敵であれ味方であれ、あるいは単なる他人であれ――の存在を危機に追い込んでいる。そして、もっと困難なことは前提とされる正当な目的が「平和」に賭けられている以上、パレスチナ側の抵抗の実質が「暴力」として表象され続けることであり、イスラエルが「正義」を失ったあとでも、その力は存在し続ける、ということだ。この力は、暴力への一般的な嫌悪が現実の判断においては少しも客観性を持たないし、むしろ依存的な性格を持っていることを証明して見せるけれども、権力関係と秩序への嗜好だけは認めたがらない平和主義として現れる。


イスラエルは元から「国際社会」の介入と停戦交渉を予測しているだろうから、軍事行動をその許されるぎりぎりまで続けようとするだろう。だからこそ、大規模な反対が必要なのであるし、この反対は彼等が孤立しているということを理解させるだけの持続性を持たなければならない。とりあえずの軍事行動が停止され、イスラエル軍が仮に「撤退」したとしても、状況は変わらない。「停戦」と部隊の「撤退」が当然なのは言うまでもなく、実質的な平等や公平性を確保する制度的枠組みを持った実効的な「和平」が要求されるべきなのであり、それが長期的――ことによると極端に長いものになるかもしれない――な目的としてしか思い描けないとしても、単に「平和」をといい、イスラエルの軍事行動が停止しさえすれば思考を停止し、行動から立ち去るようでは何もならない。理想的な解決は恐ろしく実現が難しいものとなっている。「平和」が可能であるとすれば、イスラエル国家が計画を変更する必要があり、そのためにはイスラエル社会が変わらなければならず、おそらく彼ら自身に内在する社会闘争の条件にしたがってしかそうしたことは実現できないだろう。



●とか、書いてたら気分が滅入ってきた。まー、でも色々ありますよ。行動の仕方なんて。無意味とかいわれてるけど、ボイコットだって立派な行動です。問題は行動をただ一人の良心の選択にしてしまうことです。宣伝すること、説得し、誘惑し、煽り立てること――周りを巻き込んで一つの集団的な価値判断にすること、こうしたことが欠けていた場合、行動はあまり有効な手段にはなりません。働きかけることを一般に他人に対する強制と考える人は、他人を説得することに極端なくらい臆病ですし、下手をするとそれを倫理的態度と考えてることすらありますが、この場合、特別の理由なんて必要でしょうか?正当性だけでなく、紛れもない不正がそこにある、という事実を前にして?それに利害を問題にされたいのなら、パレスチナへの行動はイスラム社会に直接影響力を持つ、という事実ひとつとってもその意味は明らかじゃございませんこと?


●ふざけんな、ばか。ばかばかばか。しんじゃえ。


●弁明する気も、筋道をつける気もない説明。まるで、そうする必要すらないというかのように!ほんとに同じ説明なのがすごい。学校に過激派がいたといっては建物ごと破壊→ばれると、付近にいたので「誤って」学校を攻撃した→自分たちの目的合理性は「武装勢力」の排除であって、人種主義的な闘争ではない→軍事行動に犠牲はつきもの→悠長なことをいってる間に連中はテロを起こす→以下、循環。やってることは徹底したシニシズムなわけだが、これがワルシャワ・ゲットーの英雄の名を入植地のひとつに付けて平然としていられる精神というやつなのかしら。すごい侮辱だよね。ナチと戦った人間をナチ紛いの国家の暴力のエンブレムにするなんて。

越冬関連

(1225追加・修正。このエントリは年明け5日までトップに来るように未来の日付になっています。)

http://etto.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-59f6.html

via回虫。これは凄く大事。


第1 こう言われたら、こう答えよう&利用できる制度


1、契約中途解除/契約更新拒絶と退寮勧告に対して


「○月○日で解雇です」「契約終了です」「契約を短縮します」と言われたら
 →「解雇は認めません。働き続けます」と答えよう。


「解雇と同時に寮も退去してください」と言われたら
 →「寮は出ません。ここに住み続けます」と答えよう。(根拠:借地借家法 6ヶ月の猶予)


「家賃は払えるのか」と言われたら
 →「家賃は払います。今まで通り給与から天引きしてください」と答えよう。


「解雇だから給与は払えないよ」と言われたら
 →「解雇は認めません。今まで通り給与を払ってください」と答えよう。


2、解雇通知・短縮契約に同意のサインをしていたら


 →次のような文面で、サインの無効を主張する。


株式会社○○ 代表取締役○○様
 「解雇予告通知書」(または「雇用契約期間を一方的に短縮する派遣雇用契約書」)へのサインは、文面を読む余裕も与えられず、わけもわからないままにサインさせられたものですので、無効です。○年○月○日付解雇は不当ですので認められません。○年○月○日以降も引き続き働き続けます。
 また、寮を退去するつもりもありません。今後も寮に住み続けます。家賃は、今までどおり給与から天引きしてください。 以上
 ○○○○年○月○日  氏名     印


(略) 


フリーター全般労働組合に相談を!
 TEL03−3373−0180
 union@freeter-union.org


途中の部分カットしてあるけど、他にも色々実用的な知識が書いてあるのでリンク先を読んでください。しどろもどろで、足元見られそうでも、とにかく追い出しには抵抗して、居座り続けてください。冬場に外に放り出そうなんてまねは、明らかに暴力です。人間の生活を破壊して、死に追いやろうとするほうが間違っているのであって、この場合、理非はもちろん、正当性は明らかに自分たちの生存を確保しようとする側にあります。たとえ、向こうに何を言われても、脅されても、責められても、そのことを恥じる必要もなければ、後ろめたく思う必要もありません。


今年の冬は色んな意味で冷え込みそうです。今のところ路頭に迷ってない人も、鬱で労働自体から文字通り疎外されている人も、財布の中身的に今そこにある危機を生きている人も最後の保険は持っておくべきです。生きていないと何も出来ないので、生き残ることは十二分に正当化されてしかるべきです。というか、どうしようもなくなって野宿するなら炊き出しやってるところに行こう。どこでもいいから近場で最悪の場合、他人に頼れる場所にいることが肝要です。他人の世話になることの心理的負担や疎外感というものが障壁になっていたとしても、他人たちが信用できないとしても、また自分自身うまく折り合うことが出来そうになかったとしても、のたれ死にしかねない状況にあるなら迷わず頼りましょう。


派遣で首を切られて寮も出て行くよう言われている人でも、強制追い出しに応じる筋合いはありません。法的にいっても、居住し続ける正当性はあります。(賃貸アパートでも確かそう。手続き的には強制的な排除にはいくつか段階があって、勝手に出来るものではないです。家賃払ってないとかそういうのは理由になりません)、出て行かずに頑張れるなら頑張ったほうがいいです。行くあてがあるなら別ですが、住む場所もないしお金もないのに出て行ってはだめです。


とはいえ、現実的にはもう既に出てしまったとか、相手の嫌がらせや恫喝に耐えられないということもあるでしょうし――でも、こんなことは無責任だとは思うけれども、紛いなりにも一定の壁と屋根のある空間に居たほうが圧倒的に身体には優しいですし、なるべくなら居座り続けるべきだと思います――、事情は人それぞれです。もし、どうしても野宿を覚悟しなければならないとしたら、前もって駆け込み先や緊急的な避難場所を考えておくのが良いと思いますし、その宛てすらない場合にはなおのこと、炊き出しやその他の支援をしている場所の近くに行くのがベターです。



各地の越冬情報は以下から。

http://d.hatena.ne.jp/gnarly/

http://d.hatena.ne.jp/tzetze/20081211/1228974608

http://d.hatena.ne.jp/tzetze/20081203/1228289130