正直、よく分からないけどな。


当分はメモしか書かないことにしよう。楽だし。


●人権とかいうと何か能天気というかオベンチャラに聞こえる、というのは結局、具体的な事物や出来事や経験と結びついた形で価値づけられることがなかったからなのかしら、とか思う。だから、人権の話はいつでも文字通り他人事であって、他人の困難や不幸に対する同情か道徳的定言命法としてしか現れないのかもしれない。そういう風に機能してしまうというのは、でもそれぞれの個人の意識にとってでしかないなら、大したことではないと思う。それを決めるのはその人間の意志だし、なによりそのように感じ、そのように思う以上、彼あるいは彼女にとっての正当性と動機は既に彼ら自身のものとなっているわけだし、それに逆らうのも、従うのも彼らの問題でしかない。


ただ、動員の論理ということで考えると、もう少し浸透力のある言説があっても良いのではないか、とも思う。というより、もう少しだけ他人たちの利害関心と接続可能な形で提出できないかなという、単にそれだけの話。一般的に動員の論理というのはあまり良い目では見られないし、それが他人たちをそれ自体目的と見なすのではなく、専ら手段として利用するという点で、要するに意味や価値よりも技術の方に親和性が高いという理由で、真っ当さを自明なものとする人々には疎んじられる。でも、この論理はひとつだけ少なくとも、ほかのどんなものより「良い」ところがある。それは、およそどんな人間であっても、その論理の射程に持ち込めるなら、潜在的にであれ手を結ぶ可能性を提出できる、という点だ。要するに、連帯や共闘の前提を作り出すことができるのだ。たしかに、そのためには判断する主体が個人として前提される必要があるから*1、社会的な現実としての規範意識や心情的な親和性という壁を軽視する危険性もあるし、あるいは逆にそうした状況において、効果的であろうとすれば自らの道徳意識や正当性から逸脱する蓋然性もある。


でも、たとえ、強固な同一性や親和性が感情も言説も意識も支配しているとしても、なんらかの利害関心を喚起できるのなら、そのほうが好ましいことは目に見えている。というより、あえて効果的たろうとして、同一性や親和性を刺激する論理を持ち出すことは、短期的戦術以上のプランが見当たらない場合には大抵が単に迎合主義的でご都合主義的な、それこそ「おべんちゃら」にしかならない。そして、なによりも私はそうしたいとは思わないし、そうしない方がより好ましい。


これは弱い論理だろうか。でも、この弱い論理はいつでもヴァリアントを無数に増やしていける、という能力がある。


●具体的に、どうすればいいのか。さっぱり分からん。


●思いつきで言うなら、住宅問題とか雇用問題とかいった形で先鋭化する<貧困>の論理の延長線上に<外国人>の置かれた具体的状況を接続することかしら。でも、これはブーメランだといわれるかもしれない。すぐにそれと危惧されるのは、彼らの<権利>の無さは、国民たる<われわれ>の現在をよりいっそう<幸福>として認識するよう、抑圧的にしか機能しないのではないか、ということだ。


●ただ、意外と重要かもしれないと思うのは、そもそもこの社会が人間を人間とは扱わないという端的な事実の方で、実際、この社会は本当に個人というものを少しも認めていない。それはさまざまな制度とその認識が物語っている。住居がない人間、正確には住民票がない人間には行政サービスも受けるうえできわめて強固な障壁があるにも関わらず、住居それ自体がすでに何らかの<保障>を求める。保証人というのが典型的であるけれども、この観念は明らかに家族制を前提としているし、しかもその<家族>は既に労働によって社会的に安定した再生産のサイクルを持続的に維持している必要がある。あるいは、非正規労働の給与が正規労働の半分以下であったりすることは、要するに非正規労働によって人間が再生産することは前提とされていないということであるわけだから、そうした労働に生きる人間は独立した存在には現実的になれないし、またそう見なされないということになる。おまけにそうした人間たちが制度に手を触れようとすること、要するに何らかの社会的変化を求める行動を取ろうとすると、それは非現実的で非日常的な振る舞いとみなされる。彼らは日常においてより不遇で、不幸な状況にあるにも関わらず、そのことに真剣に取り組んでいないとみなされる。要するに彼らに許されるのは単に労働して、単に生活を維持し、なんとか体裁を取り繕うことだけなのだ。まともに働いたとしても、人並みの生活が送れるようになるわけでもないのに、働くことはむしろこの場合義務であるよりも、はるかに道義的な意味合いを担うようになってしまう。ほとんど、意味の無い無間地獄のような生を再生産し続ければ「まともにはたらいている」とみなされるのだろうか。しかし、そうなったからといって何が変わるのだろうか。構造的問題は個人の問題に摩り替えられ、ひどい場合には社会的諸制度が人間にとっての必然=自然とみなされ、粗雑な適者生存の論理が嘯かれる。あるいは、もっとなんでもないことでもかまわないけれども、国家が国民にのみなんらかの保障をして、それ以外の人間集団を省みないことが自然と見なされたとしても、現にこの社会はその国民とやらにマシなサービスのひとつも提供していないし、それが前提とした、あるいは未だにしている国民は明らかに多くの条件外とされた人間たちの労働によって養われている。この場合、条件から漏れた人間たちが<国籍>を保有しており、それゆえに法的には一定の有利な条件を備えているとみなされていたとしても、事実においてはあきらかに十分な生活を送るに足る保障を受けることができない以上、<国民>なる人間たちの仲間になれない。


●あー、つかさ、入管の強制収容所の劣悪な環境とかその暴力的な管理――監視して、追い回して、探りまわり、拉致する――って、単に外国人であるがゆえの権利の制限とかいう話以前に、ポリ公が何であれ逮捕しようと思えばいともたやすく裁判所から許可を得られるし、起訴すれば大抵有罪にできるし、容疑者をいつでも好きなように長期間拘留できるといったことや、そしてなによりこれらすべてを司法暴力は脅迫のタネに出来るということとパラレルな話であって、懲罰房みたいな狭い檻(窓もない!)に人間を閉じ込めることを大した問題ではないと思える人間たちがたくさんいる社会というのは、それが<仲間>であれ<よそ者>であれ、どっちにしろ人間を人間として尊重しないということだよね。


●オマワリとか司法の話をしても食いつかない人は大勢いるだろうし、それはそれで現実なわけだけれども、これが労働や住居やそのほかの生活コストをめぐる<貧困>と接続できるなら、一連の射程それ自体を人権概念の価値付けや基礎付けとすることもできるのではないかなー。


●とりあえず、ウサギ小屋に高い金払ってる身としては、人間にとっての最低限度の快適な空間性というものについての恐ろしく貧困な基準が、強制収容所の非人間的な環境をも基礎付けているのではないかとか考えてみることにします。


●だんだん、そのとおりなきがしてきたよ!


そこで暴動です。とりあえず、なにはなくとも暴動です。

*1:さすがに端折りすぎな気がするから説明してみるよ。あれだよ、なんだよ、なにかだよ。「動員」とか聞くと本能的に警戒するけど、よくよく考えてみると、動員されるとか動員するとかいう権力関係よりも動員それ自体が根ざしている人間の傾向をきちんと検討する方が先で、なにより動員の問題はしたりしなかったりできるような類の代物ではないわけですし、集団性一般の持つ宿痾みたいなものなわけだから、使えるなら使えばいいじゃない――というスタンスでしか臨めないのは堪忍な。手段は手段です。それでなー、動員とくると、大抵は集団としての人間を行動に駆り立てるロジックと思われがちですが、そういうのは当該の集団性が行動にインセンティブを与えている場合であって、必ずしも絶対的な要件ではないと思います。むしろ、ある集団性が行動を自粛する方向で組織化されるなら、行為は自分の社会的規範価値と敵対する形になり、おのずと個人たらざるをえなくなるということの方が一般的であって、消費の論理が客観的には集団的蓋然性に従うにも関わらず、主観的には己自身を商品の従属物ではなく選び手であると認識する<個人>を必要とするように、動員の論理も動員される<個人>を前提としているのではないでしょうか。大体において、自分をオミットする形で従うことは出来ても、自発的な意思で集団行動を組織することはできないんだから、そもそも動員の集団的論理なんて成立するわけないじゃないか。動員が集団的なものとしての機能を前面化させるためには、必然性とか宿命的なものが必要でしょうに。