まあ、両立するんだろうけど。


でも、原理主義云々より国家制一般の暴力として捉えるのが正道な気がするよね。ジェノサイドの論理ってナショナリズムとかその裏返しのレイシズムの論理として語られることが多いけど、国家制の役割というか、その関係みたいのはあまり表立っては目にしないね。なんでかしら。


色々あるけど、どうしてもうまい宣伝文を書けないので、メモだけ。適当。反セム主義とか言われちゃう!


ポグロムが計画的だったと言われるのには理由があるし、またそうみなし得る当然の前提がある。それは歴史的に継続し続ける恒常的な状況であって、蓋然性の一つであって、つまるところ政治上の、あるいは国家制の目的合理性における一つの予測可能性だったということである。虐殺とその予感が常にありうるものとして、行動が計画されるなら、蓋然性の予測はより緻密に行いうるし、また情勢に対する働きかけのより詳細で精確な効果の予測技術も蓄積されていく。だからこそ、単に組織的陰謀があったのではなく、意図的であろうがなかろうがある傾向と発現において互いに結び付いたネットワークが存在することができ、現象をより過酷なものとし、また、計画性と自発性の柔軟な相互補完的関係を維持できたのだろう。「彼らはユダヤ人だ」という言表が理由や根拠とみなされるのなら、虐殺は社会的な定数なのである。

こんにち、パレスチナ人に対して行われている大量殺戮が人種主義的な観点に結びついていないと考える根拠はない。それが治安回復を口実としていようが、あるいは単なるその場しのぎの議会政治上の技術としてであろうが、帝国主義的拡張政策の帰結であるところの実質的な武力占拠と住民に対する様々な抑圧・迫害・殺戮の数々の意味は見間違いようがないし、どこにもイスラエル国家がこうした虐殺を正当化できる余地などない。正当性の審級において、ハマスは「協定違反」によって自殺的なミスを犯したと考えるのは簡単であるけれども、そのことはイスラエルという強大な軍事力と恒常的な軍事行動に支えられた国家制がポグロムを正当化することにはならないし、治安上の必要な措置という論理は恒常的な軍事暴力とそれを前提とした植民政策を制度の根幹に置いている以上は当てはまらない。人命を数量化することに反対するのであれば、なおのこと今回の軍事行動は正当化できないだろうし、仮に彼らの論理の核となる「正当な」自衛措置としての「報復」という論理で考えるのなら、ハマスによる攻撃の被害状況は、今回の軍事行動によって引き起こされた被害総体と比較することができないくらい軽微なものに留まることになる。


連中は、馬鹿のひとつ覚えのように、ハマスは停戦協定を打ち破ったと喚く。けれども、ずっと以前から「停戦」や「小康状態」があるたびに、わざわざ挑発を繰り返してきたのは誰なのだろうか。一時的な撤退や休止における次の作戦準備と導火線としてあちこちにばら撒かれる挑発行為という繰り返しは、イスラエル国家自身が決して「平和」など望んでいないことを明瞭に物語っている。国際法上認められない前哨植民地や撤退予定地への継続的占拠の姿勢は、停戦や「平和」への侵害ではなかっただろうか。入植地を手放すという決定それ自体がイスラエルマジョリティーの猛反発を食らうという現実を前にすれば、彼らの望む「平和」とやらがどういう意味合いかはよくわかる。それどころか、ガザ撤退における傲慢な身振りは単に官僚的な建前上の措置というよりは、まさしく撤退を認めず勝利を諦めていないがゆえの態度だったのではないかと思われる。



ハマスがかってファタハへの対抗軸として、またパレスチナ内部の政治空間に楔を打ち込むためにイスラエル情報機関によって支援されていたという簡単な事実を忘却していたとしても、イスラエル政府による挑発行為の数々はその量からも、またその常態と化した破滅的打撃という点からも、簡単に思い起こすことができるだろう。彼らはガザ撤退というパフォーマンスを国外向けに打ち出すと同時に、この行動の実質を完全に自分たちの論理に依拠して行った。つまり、彼らは一方的な入植地の「撤退」を行ったが、後に残ったものは単に「イスラエル軍収用地」であって、パレスチナ人の土地は帰ってきてなどいないし、彼らはその軍事的支配を解かず、あまつさえ分離壁の設置や検問による物的人的移動の支配を通じて「自治区」内の住民とその生活を以前と変わらぬ危機にとどめておくことを「自衛措置」と呼び、自らの軍事的圧力は維持したままで他人たちに対しては「非武装」を要求したのである。彼らの言う「和平」は単にイスラエルの「生存権」だとか「正当な自衛策」といったものを含んでいるから批判されているのではなく、そこで語られた「正当な権利」とやらの数々が、「平和」と正反対の「殺戮」か「封じ込め」のいずれか以外のどちらでもなく、その何れもが現状のヒエラルヒーを維持し続け、常に社会的に排除し抑圧し、可能であればその数を減らすことで、自分たちの優位を保とうとする露骨な主張でしかなかったからである。ついでながら、彼等が民族浄化を本気で考えているか否かはどうでもいい話だ。彼らは常にその蓋然性を手放そうとはしない、ということから考えてみても、答えは出ている。


というよりも、おそらくはイスラエル国家とは、如何にすればファシズム以降の世界で人種主義的な暴力を他人たちから阻止されることなく行いうるかの、具体的な回答なのだろう。いずれにせよ、イスラエルは「撤退」の最中も、またそれ以降も極度に強硬的な御馴染みの態度をただの一度もやめはしなかった。こうした「圧力」が何を意味するか、彼等が理解していなかったなどといえるだろうか。過去半世紀以上にわたって、彼らはこのプロセスを恒常化し続けてきたし、状況に適した形でこうした挑発と軍事行動の循環を利用しなかった試しはないのだから、今度の行動が単に日和見主義や融和主義的な政策の失敗であり、その政治的反動だとみなすのはあまりに事実を蔑ろにした能天気な認識でしかない。


あらゆる点において、パレスチナの現状にある否定的要因はすべてイスラエルの行動によって成立したものであり、実質的な意味において完全に責任があるのは彼らである。ハマスが何ものであったとしても、彼らの政治的志向性ならびに統治に対する反対や批判は、イスラエル国家の行動を合理化はしない。


イスラエル国家はこの暴力的統治(応酬や循環といった言葉を使うのは間違っている)を恒常化させることを狙っているし、それは具体的な戦術として一般化されている。パレスチナに対する物理的暴力としての軍事行動は住民の殺戮とその住居・インフラの破壊という形で社会それ自体を破産させ、非常事態に置き続けることを直接的な目的としている。彼らの公式の見解――ハマス指導者ならびに軍事要員の排除という目的がそこに含まれているということはそれ以外の、あるいはそれ以上の目的を持っていないなどということを意味しない。軍事行動の包括的な全体像(中・長期的な目標とそのプロセスを含む)は、停戦プロセスにおける不安定要因の排除であり、パレスチナへの実効支配を失うことなく、あらゆる過失やリスクを自治政府に押し付けて、パレスチナ人たちとその居住空間の正当性をイスラエル国家という正統性の下に置く形での「和平」であって、この「平和」は決して言葉が匂わせるような平穏無事なものではないし、道義的な正しさなど皆無である。この平和はこれまでもそうであったことの維持――不安定化と挑発、不意打ち――それらすべてを支える圧倒的な軍事的優位と実効支配の確保。そのための自治政府機能の弱体化・阻害・攻撃――でしかなく、その関係性を最終的に「合法」化し永続化することを目的としている。


●なるほど、ハマスはそれがたとえ願望でしかないとしても、世俗的な宗教の諸機能を政治空間において全面化させようとするという意味において確実に政治的反動である。と、同時に例えそれがある特定の理由にしか基づかないとしても、多くのパレスティナ人たちが彼らを選んだという事実も忘れられるべきではない。ハマスはテロリストだろうか?正確には彼らは自爆攻撃を含む非正規戦術を正当化するロジックを有している。と、同時に彼らは物質的な暴力や威嚇によってのみ今日知られるような政治的勢力となったわけではない。彼らがガザを実効支配できたのは彼ら自身の政治的能力ではなく、専らパレスチナ自治政府イスラエルアメリカならびに「国際」社会の手落ちやミスや失敗に由来している、と考えるのはかなり非合理的だ。消極的なものであったとしても、民衆からの支持基盤が確保されているからこそ、ハマスは正当性を持ってしまうのである。そして、彼らはイスラエルの宣伝とは裏腹に67年停戦ラインという妥協案を提出していた。彼らが政治的な立ち位置を巡って転向したのだとして、信用できないという謂れはない。


大体、この手のまがい物のジレンマはかなり以前からお馴染みのしろものだ。ブッシュの父親の湾岸戦争の頃からしてそうだったように、イラク戦争は「フセインかブッシュか」という選択肢に還元されることで一定の「道義的」な根拠を捏造した。心理的抑圧、と言ってもいいかもしれないが、この手の行為は本来「威嚇」とか「脅迫」とみなされるべきだ。一方に反対するものは他方の賛同者である、というのは実に幼稚で素朴なものの見方であるが、事実においては単なる同意が共犯関係の有責性をも負わせるのと同様に反対は敵対関係の他方を結果的にであれ助ける。したがって、アメリカの軍事行動ならびに国際社会の暗黙の了承を批判する人間は事実においてもイラク国家の味方をするのであり、フセイン独裁制を延命させることに加担する「自由の敵」である。こうした論理は正確に把握されようとされまいと、すぐに分かる感覚的与件としてメディアを通してばら撒かれる。


国家以外のアクターによる軍事行動への嫌悪感を別とすれば、一般的に軍事的暴力を正当な手段として認める人間は大勢いるけれども、先ず以って手段としての暴力は目的としての合理性とその正当性を所持していなければならないと理解されるからこそ、彼らは国家が「悪」を暴力によって制裁しようとする行動に対して何の抵抗も持たない。独裁やテロを行う連中は犯罪者であって、権力の行動が自己利益に結びついてたとしても、それを理由にならず者どもを擁護することは気が引けるというわけだ。少なくとも手段の正当性は正統性にかかっており、権力はその意思と行動において自由であり、かつまた己自身の自由な行動を道徳的な制裁を加える権利として合理化することの出来る主体であると理解するなら、実質的にどんな狙いがあろうと軍事暴力を行使する主権者はいかなる批判も予め封じ込めることができるようになる。その行使の事実によって正当化するとは、何も彼等が積極的な意味合いで「正しい」と看做されることを意味しない。むしろ、彼等が「過って」いようとも、その敵の道義的質を低下させ、その大儀を損なわせ、あまつさえ安全と平和に対する侵害者として表象できるなら、そのときには「必然性」――そうするだけの「合理的」根拠を国家制は手にすることができるし、それさえあればあとは彼らの武力による殲滅行動は許容可能な「行き過ぎ」として表現されることになる。


けれども、目的合理性という側面から見て「悪党」を「制裁」するはずの軍事行動は民間人を殺傷し、またその生活を破壊する。そして、彼らを物理的にも精神的にも追い詰めていく。ハマスを完全に排除できたとして――そんなことは不可能だし、それを承知で行っていることは火を見るより明らかであるが――抵抗がなくなることなど想像できるだろうか。抵抗は未知数でもなければ、予想外の出来事でもない単なる蓋然的な与件であって、むしろこの抵抗が組織化されず、社会的な基盤を築きえず、政治的な権力が発生しえないような状況こそがイスラエルにとって尤も都合が良い事態であろうことは容易に想像がつく。彼らはパレスチナ人の物理的殲滅を直接的な短期目標とはしていないだろう。けれども、彼らは少なくともパレスチナ人を、邪魔であれば除去していい「虫けら」程度の存在として扱っているし、基本的にはどんな些細な理由でも可能な限り力を行使する必要のある存在とみなしているし、軍事行動における行動基準が自明なものと化したレイシズムに基づく判断に支えられていないという証拠はどこにもない。その行動の合理的目標は中長期的なロードマップ上にある「ユダヤ人」の絶対的優越の確保であって、パレスチナ人の「独立」が如何なるものであったとしても、決して「ユダヤ人」社会との共存や公平な相互関係などというものが築けないよう、引き続いてゲットー化した劣悪な生活状況を維持し、可能な限り弱体化(分断、監視、抑圧、挑発、大殺戮といったパターンはすでに確立されている)させ続けるだろう。



●確かに、こうした目論見がうまく行く保証はないし、抵抗は消えはしないだろう。それにそもそも、もしそんなことが可能だとすれば、イスラエルはかつて「彼ら」自身が味わったと主張している状況にパレスチナ人を置くことを目的としている、と看做されざるを得なくなるだろう。とはいえ、現下の圧倒的な軍事力の差は、パレスチナ人の生存を完全に危うくしているし、このことはどのような正当性より以前に確保されるべき前提としての人間――敵であれ味方であれ、あるいは単なる他人であれ――の存在を危機に追い込んでいる。そして、もっと困難なことは前提とされる正当な目的が「平和」に賭けられている以上、パレスチナ側の抵抗の実質が「暴力」として表象され続けることであり、イスラエルが「正義」を失ったあとでも、その力は存在し続ける、ということだ。この力は、暴力への一般的な嫌悪が現実の判断においては少しも客観性を持たないし、むしろ依存的な性格を持っていることを証明して見せるけれども、権力関係と秩序への嗜好だけは認めたがらない平和主義として現れる。


イスラエルは元から「国際社会」の介入と停戦交渉を予測しているだろうから、軍事行動をその許されるぎりぎりまで続けようとするだろう。だからこそ、大規模な反対が必要なのであるし、この反対は彼等が孤立しているということを理解させるだけの持続性を持たなければならない。とりあえずの軍事行動が停止され、イスラエル軍が仮に「撤退」したとしても、状況は変わらない。「停戦」と部隊の「撤退」が当然なのは言うまでもなく、実質的な平等や公平性を確保する制度的枠組みを持った実効的な「和平」が要求されるべきなのであり、それが長期的――ことによると極端に長いものになるかもしれない――な目的としてしか思い描けないとしても、単に「平和」をといい、イスラエルの軍事行動が停止しさえすれば思考を停止し、行動から立ち去るようでは何もならない。理想的な解決は恐ろしく実現が難しいものとなっている。「平和」が可能であるとすれば、イスラエル国家が計画を変更する必要があり、そのためにはイスラエル社会が変わらなければならず、おそらく彼ら自身に内在する社会闘争の条件にしたがってしかそうしたことは実現できないだろう。



●とか、書いてたら気分が滅入ってきた。まー、でも色々ありますよ。行動の仕方なんて。無意味とかいわれてるけど、ボイコットだって立派な行動です。問題は行動をただ一人の良心の選択にしてしまうことです。宣伝すること、説得し、誘惑し、煽り立てること――周りを巻き込んで一つの集団的な価値判断にすること、こうしたことが欠けていた場合、行動はあまり有効な手段にはなりません。働きかけることを一般に他人に対する強制と考える人は、他人を説得することに極端なくらい臆病ですし、下手をするとそれを倫理的態度と考えてることすらありますが、この場合、特別の理由なんて必要でしょうか?正当性だけでなく、紛れもない不正がそこにある、という事実を前にして?それに利害を問題にされたいのなら、パレスチナへの行動はイスラム社会に直接影響力を持つ、という事実ひとつとってもその意味は明らかじゃございませんこと?


●ふざけんな、ばか。ばかばかばか。しんじゃえ。


●弁明する気も、筋道をつける気もない説明。まるで、そうする必要すらないというかのように!ほんとに同じ説明なのがすごい。学校に過激派がいたといっては建物ごと破壊→ばれると、付近にいたので「誤って」学校を攻撃した→自分たちの目的合理性は「武装勢力」の排除であって、人種主義的な闘争ではない→軍事行動に犠牲はつきもの→悠長なことをいってる間に連中はテロを起こす→以下、循環。やってることは徹底したシニシズムなわけだが、これがワルシャワ・ゲットーの英雄の名を入植地のひとつに付けて平然としていられる精神というやつなのかしら。すごい侮辱だよね。ナチと戦った人間をナチ紛いの国家の暴力のエンブレムにするなんて。