まあ、年も明けて新たな気持ちということらしいからいつもどおりのことを。


最近はどうにも寒くて仕方が無いので、考えるのすら面倒で出来れば布団から出たくないという感じですが、毎年晩秋から初春あたりまでの季節の方が好きなので割りに我慢は出来ます。暑いとやる気が出ませんが寒いと身が引き締まります。要するに硬直します。つまり家から出たくありません。そんな無限後退


ええとね、あれだよ。近頃、めっきり物事を分けて考えられなくなってきて、どんどん分散するか、集中するかで並列とか並置する概念図が描けない。ので、自由と平等のいずれか一方とかいう話もさっぱり理解できなくなりました。だって、平等じゃないということは要するに誰かが不自由だということではないですか。で、誰かが不自由であるということは、その社会が国家制とともにその不自由を肯定しているからでしょう。ということは、不自由であるのは特定の誰かであっても、似たような誰かでしかなくて、原理的に言えば住民はひとしくその危険にさらされる可能性が残されているわけですよね*1


でも、この不自由は正当なものとみなされるから、意味や価値という次元においても事実と同じように不平等があると。で、この不平等を管理維持して恒常性を持たせるのが当該社会の権威であり、実態的には権力関係の再生産でありましょう、と。これの現実的な利益は、不自由に晒される人間を限定して排除することで社会の構造それ自体を感覚的与件として把握しないでも済むことだろうし、また蓋然性という点で最も抑圧に晒される階層を固定化していく傾向を持つから、逆に言うと現に救われた人間は溺れない、という奇妙な信仰を人々にもたらすという点に絞られる、と思う。言うまでも無く、安全の話であり、治安の話であり、密接に結びついた強固な同一性のイデオロギーがそこにかかっている。このイデオロギーは人の自由を国家の温情や容認という形でしか表現しないし、住民はそれをよく知っている。結果として、権威に対する一方的な怯えと依存がかわるがわる姿を現す。


だからむしろ、相手の論理に従って、けれども逆に作用させることで、当該権威にとどまることの実質的な損害を事実において恒常的なものとしてやる方が余程マシなのではないかとか思わないでもない。何言ったって、開き直れるうちはいくらでも減らず口をたたくだろうし、かといって少しでも実人生や実存が通常性から逸脱してしまうなら途端に幼稚園児みたいな感情だけを前面に押しだしはじめるわけだから、そんなことならいっそ、ね。とか思ったりするよね!


まあ、そういう話はおいとくとして、tzetzeさんが言ってるように、天皇制を容認して議論を進められると考えてる人間は立派な天皇制支持者だよね。だって、いつだってそうだけど、自分たちの自明性を他人たちに対して合理化せずに押し切るのってのは本人がどう思っていようとも、その制度なり事実なりによって支えられるところの現在を他人に押し付けるってことでしょ。え?せんごみんしゅしゅぎ?なにそれ。笑わせんな、ボケ。そもそも戊辰戦争を内戦だと考えない人たちがたくさんいる社会のどこが民主制だ。あの時起こったのは、攘夷だか尊皇だか知らないけど、そういう価値に基づいた選択と決定を、つまりある人間たちの恣意としての神話を制度の根底に据えて、歴史を、あるいはその意味を他人たちに強制したということであって、事実それ自体でもなければ、客観的真理でもない。そうなったのは単に彼等が権力闘争に勝利したからであって、必然性はこの勝利によって可能となった。単にそれだけじゃないか。そもそも1945年に切断なんかあったのかね。君ら、相変わらず連中の夢を受け継いでうわごとのように自明な同一性を維持してるじゃないか。テラ一本線を描いて平然としていられるのも、それを当たり前のように感じられるのも、結局何一つ変わってないからだろ。ネジレとか抜かしてるのは、単に君らの覚えた他人の理屈と君らの感覚が食い違うからで、それは単に君らが自分で思い描いた人間ではないってだけじゃないか。天皇制は変わったって?それで?そのあとは?君らは何も手をつけなかったよね。自分たちで何一つ変えず、主人を戴いたままで他人にもそれを強制したわけだ。で、それをさも良いものであるかのように、現在の暮らしや生を可能にする根源だとまで言い始めるわけだ。これはなんだい?え?現在の生のまんざらでもない「幸福」を吹聴してまわるのは君らの勝手だかね、君らが好き好んでそれを選んでるからって他人までそれに従う必要がどこにあるんだ、間抜け。ああ、「日本人」のアイデンティファイだって?君らのいう「日本人」てな代物はそもそもナショナルアイデンティティーですらないじゃないか。そら、特殊で唯一のものにも思えるだろうさ。何一つまともに合理化せず、何一つ決定せず、その価値において責任を持ち、その意味において他人と対面する危機を回避して、事実において行っていることを誰でもないものに帰属させて、能天気に現実とやらを騙って平然としている連中のどこに「わたしたち」てな主語を使う資格があるのかしら。くだらないよ。


君らの手口はいつも同じだ。他人たちをオミットし、ネグレクトし、スポイルした挙句に、適当に飴玉をばら撒いて、抵抗や疑問を封じ込めて、挙句の果てには羊の自由を云々しはじめる。羊が平和で安全に暮らせるのは羊飼いが先回りして世話してやってるからだとでも言うのかね。で、羊飼いを失えば羊は群れを維持できず、互いに反目しあい、狼に襲われるてな妄想をご大層に語って回る、と。主人の意を汲んで仲間の羊を脅しまわるわけだ。失ったらひどいことになるぞ、てな。天皇制だけが問題じゃないとしても、天皇の名が常に回帰するのはこの構造――貧困の問題でもいいし、移民労働者のそれ、被差別部落や歴史的存在としての「在日」のそれ、あるいは社会的劣位や「弱者」として表象された人間たちへの扱いにおいて端的に現れるが、もっと一般的な意味における人間の自由と平等でも構わない――それが当然であり正当であるという意味における権利や個人を決して認めず、専ら温情として、あるいは恩恵として施してまわって、社会的権力とヒエラルヒーの根底にある自明なものとしての同一性には絶対に手を触れさせないところの、また同時に、現在の状況を容認された「自由」と寛大な「平等」として、いつでも制度の外部に想定された偽の「自然」(労働を生存と結びつけ、生を過酷な淘汰の過程とみなす)をちらつかせては道義的脅迫を行うところの、この構造――でしかない。天皇は言うまでもなくひとつの具体的な権威であり、また「象徴」であり、国家制と官僚制度の結節点であるわけだが、それ以上に、あるいはそれと同時に、問うことすら認めない無自覚な自明性に埋没することを可能にする装置だ。常に社会的なヒエラルヒーを傷つけないように、語られることのない同一性を維持できるように、社会的衝突を回避するとの名目で骨抜きにしてから事実としてのみ認めるこのありようこそが不平等と抑圧を認識させることなく温存する元凶じゃないか。そんなものを容認する連中がどうしてまともな人間であるといえるのかね。「うまくまわってるから問題はない」とか「みんな好きだし、だれもその所為で酷い目にあってない」とか、「廃止しなければいけない特別の理由がみあたらない」とか、そういう一々の発言に現れているこの「秩序」総体の、その維持の結節点であるからこそ、天皇制は廃止されるべきなんだよ。きみらがそう感じて、そういえばいうほどに、天皇制はきみらの露骨なまでの排除と抑圧の原理となる。


それに手をつければ混乱が起こるとか、平和が乱されるとか、そういう予測が成立すること自体、そしてそれを脅しの材料にできるということそれ自体が、つまるところ君らが事実においてそういう人間たちの集まりであって、不正と対決したことが一度たりともなかったということを意味している。君らが後生大事に抱え込んでる自明なものとしての「日本」だの「日本人」だのいう代物が胡散臭くて幼稚であることは言うまでも無いが、それ以前におおよそ考えられないくらい最低でゴミくず以下の価値しか持たないのは、君らが自分の名前を明かすことなく、他人たちの価値やアイデンティファイはいくらでも相対化しておいて、自分たちだけは絶対に相対化しないからだ。


したり顔で「現実」だの「世の中」だのを語らないでくれ。その所為で苦しめられているのも、またそれが瓦解してさらに苦しむのも、赤の他人であって君らじゃない。君らは自分たちの平穏無事な現在を保守するために、君らの意識における平静さを防衛するために、そのためだけに他人の現実における抑圧や不平等や差別を容認しろと言ってるだけだ。そんなもの、どうしたら認められるんだ、馬鹿。君らの平和なんか知ったことかね。偉そうに犠牲とやらを云々しないでくれ。君らは絶対に自分たちが犠牲にならないことを知っているからそうやって平然と犠牲やら必然やらを云々できるんだ。それに対してあたかも苦々しい思いでも抱いているかのような振りをするのはやめてくれ。君らの自慰的な自尊心に付き合う気はないんだ。選んでるのは君たちだが、そのために酷い目にあってるのは君たちじゃない。君らはただ自分の心の平和を維持したいという理由で他人を不自由なままにしておくことを正当化できると思ってるのかもしれないけど、そういうのが現実主義とか言われるなら、それは単に粗雑な力の論理を肯定しているに過ぎないし、そうであれば当然のことながらその「現実主義」の名において他人たちも君らに対処することになる。単にそれだけの話だ。うんざりだよ。

*1:自由と平等てな話になると権力と権威の問題を回避して、あらかじめ全員を無条件に同じものとして扱っておいて、平等は抑圧を必ず要求するから、自由と相反するとか言い出す人がいるわけですが、誰かを支配する自由なんてものは社会的目標としての自由の要件においては成立しないので、おかしな話です。

一刀両断天王首 落日光寒巴黎城


去年の暮れのエントリにはこれを乗せるべきだったかしら。挑発だったとか言われてるけど、結構いい文章だと思います。ちょっとロマンチックすぎるきらいもあるけど。

日本皇帝睦仁君に与う


  日本皇帝睦仁君足下、余等無政府主義者、革命党暗殺主義者は今足下に一言せんと欲す。


 抑(そもそも)天地間に存在せる総ての物体は一分時、一秒時と雖(いえども)静止の状態あることなし、人類界又然り、昨日の人類は今日の人類にあらず、今日の人類また明日の人類にあらず、或いは遥かに遡って人類の祖先を尋ねては猿類なりしを知るべく、猿類の祖先またそれ以下の動物たるや明也。之を精細に比較考究せば其間に進化律の存するありて斯の如く変化し、斯の如く進歩発達して殆ど以前の形骸をだに認めざるに至る。足下知るや、足下の祖先なりと称する神武天皇は何者なるかを。日本の史学者は彼を神の子孫なりといえども、そは足下に阿諛(あゆ)を呈するの言にして虚構なり。自然法の許さざれる所なり。故に事実上彼また吾人(ごじん)と等しく猿類より進化せる者にして特別なる権能を有せざること今更余等の喋々を待たざる也。彼は何処に生まれたるやに関しては今日確実なる論拠なしと雖、恐らくは土人にあらずんば支那或いは馬来半島辺りより漂流せる人ならん。遮莫(さもあらばあれ)、彼は其付近を掠奪して多くの奴隷を作り、大いに暴威を揮(ふる)いたること今日足下が吾人に向かってなしつつあることと敢えて異ならざるべし。


 其の当時に於て最も残忍刻薄なる彼れ神武は、自ら主権者なり、統治者也てふ名目の下に罪悪汚行を専らにし、其子また父にならい、其子また父にならって遂に百二十代の足下に至れり、噫二千五百有余年!


 此間足下及び足下の祖先は足下等の権力を維持せんがために、足下等の虚栄心に満足を与えんがために、如何に多く吾人を苦しめたるよ。如何に多く吾人を屠りたるよ。如何に多く吾人の富を奪いたるよ。吾人は之を思う時に当たり、足下等の首を斬り、足下等の肉を炙りても猶あきたらざる心地す。敢えて問う、足下等は何処より権力を得たる、若し足下等が生まれながらにして得たりとせば、足下等に迫害され蹂躙せられつつある吾人もまた得ざるべからず。然るに事実はこれに反せり、余等の足下等を目して残忍刻薄なりと云うは実にこれが為なり。


 権力は暴威也。暴威を以て他を圧するの力也。故に暴威益々盛なれば権力益々盛也。足下の祖先の或者がたまたま他より権力を害せられたる時は、暴威を他より害せられたる時なりき。今日足下は足下の権力を他より害せられざらんがために、而して其権力を絶大無限ならしめんがために、其機関として政府を作り法律を発し、軍隊を集め、警察を組織し、而して他の一方には人民をして足下に従順ならしめんがために奴隷道徳、即ち、忠君愛国主義を土台とせる教育を以てす。またつとめたりと云うべし。而してその必然的結果として生じたるは貴族也。資本家也。官吏也。此等の輩は常に足下の威をかりて暴逆無道、人民を苦しむる恰(あたか)も木偶漢を遇するが如し。如斯にして日本人民は奴隷となりたる也。自由は絶対的に与えられざる也。足下は神聖にして侵すべからざる者となり、紳士閥は泰平楽をならべて人民はいよいよ苦境におちいれり。睦仁君足下。足下よく自由なくして「人」たるを得るか。思うに得ざるべし。足下の人たるを得ざる如く吾人もまた得ざる也。如何となれば人は「人」にして初めて人なれば也。


 鳴呼、誰か人の如く生まれて「人」たるを欲せざらんや。吾人は実に人たらんと欲する也。故に奴隷の位置を棄て自由の位置を得ざるべからず。今日学者能く人生の意義を語る、然れども彼等の語る処は人生の意義にあらずや、現在所謂「人間」の意義にあらずや。自由なくして何の人生ぞ。人は自由にして生き、自由にして初めて進歩発達す。然るに足下の権力及び其機関は常に生を害し、進歩発達をさまたげつつあるにあらずや。


 茲(ここ)に於いてか知る、足下及び足下の機関の存在は、吾人五千万の日本人をして「人」たらしめざるなり、如斯にして吾人猶足下に向かって敬意を表し、陛下よといわざるべからざるや。睦仁君足下、足下はさきに足下の暴威の範囲を拡張せんために隣邦支那と戦えり、近くは露国と戦いたり。此時に於いて足下の幇間は挙国一致を説き、忠君愛国を語りつつ殺戮を奨励したり。鳴呼、日本の平民に何等の怨恨かある、彼等の多くは日本人を知らざるが如く、日本人も亦彼等を知らざる也。故に其間に何等の利害得失あるべき筈なし。況や剣を抜き砲を取りて戦うに於ておや。然るに足下の奴隷道徳に養成されたる或者は「国家」のためと呼び、或者は足下の法律の強制にかりて戦場に走りぬ。斯くして彼等は足下の名によりて数百万の富を強奪し、強奪され、或いは消費し了わんぬ。彼等の多くは何のために戦いしかを能く解せざれ共、其結果は能く吾人に何の為なるかを語る也。戦後の足下は一等国の君主となりしにあらずや。貴族は爵位を得しにあらずや。而して自ら銃砲をとりて戦いし平民の子は戦場の露と消え、或いは捕虜となり、幸にして帰りし者は重税を課せられ十億の国債を荷って猶飢餓と戦いつつにあらずや、君よ、足下及び足下の周囲なる権力階級は失うことなくして得る処大なるを。君よ、平民階級は失う処大にして得る処一つもなきを。


 人は生を欲す、これ足下と吾人と等しく欲するところ也。人は生を愛す、これ足下と吾人と等しく愛するところ也。総ての動物は生の自由を有す。鳥の生存するは鳥の自由也。人の生存するは人の自由也。此自由ありて人は初めて幸福に、鳥は初めて幸福也。故に吾人の生存は吾人自身の幸福のために生存するものにして、足下に束縛せられ蹂躙せられんがために生存するにあらず。足下の権力は常に此生存の自由を無視しつつあり、足下の命令に依りて殺戮せられたるは足下の自ら手を下して殺戮したるに等しき也。足下重税を課して飢餓せしめたると足下自らとを下して飢餓せしめたるとは等しき也。此意味に於て足下は謀殺者也。虐殺者也。如此にして猶吾人は足下に向かって忠実なる奉仕をなすの義務ありと云うか。


 睦仁君足下、足下は只足下の権力を維持せんがために斯くまでも大なる犠牲を作りて敢えて顧みるところなきか。而して日本の自由論者は足下に何を語り、何を要求しつつあるかに耳をかたむけざるか。余等は知る。足下は只単に耳をかたむけることさえなさずして、却って彼等を迫害し、圧制しつつあるを。自由を叫びたる新聞雑誌は発行を禁止され、罰金を課せられたるにあらずや。自由を叫びたる新聞雑誌記者は入獄を命ぜられたるにあらずや。自由を要求したる労働者の一群は軍隊に射殺され、投獄されたるにあらずや。ここに於て、吾人は断言す。足下は吾人の敵なるを。自由の敵なるを。而して足下が自由論者に向かってなしたる行動は、自由論者に向かって挑戦したる行動なりと。よし然らば、吾人もまた吾人の覚悟あり、吾人も徒に暴を好むものにあらず、然れども暴を以て圧制する時には暴を以て反抗すべし。然り、吾人は最後の血液までをそそがんまでも足下に反抗し、現在の秩序に反抗すべし。遊説や扇動の如き緩慢なる手段を止めて須く暗殺を実行し間諜者圧制者は総て其人の如何なる地位にあるを問わず尽(ことごと)くそを謀殺すべし。


 足下の政府は意のままに余等を絞殺し、又或一部の革命団体を圧伏撲滅するを得ん。余等はまた足下の政府が革命の肝要なる機関を打破するに於て成功し得べきを認めん。然れども、そは到底事物の有様を変更するの力を有せざること明らか也。


 春来りて花咲くは何の為ぞ。そは自然の力也。夏来たりて実を結ぶは何の為ぞ、そは自然の力也。夫れ革命の起るや起らんとして起るにあらずして自然に、起るもの也。革命は決して個人に関係せし事にあらずして、むしろ、社会有機体の進行也。国民の不平は不平として生ずるにあらで、自然淘汰の作用によりて生出したる也。而して其作用の最後に起りたるは余等の暗殺主義その其者也。


 それ等を単純なる紙上の空論と誤認する勿れ、暗殺主義は今や露国に於て最も成功しつつあり、仏に於てまた成功したり、余等の暗殺主義はこれ等の先進者の成敗に鑑みて一層秘細なる研究をつみて生まれたるもの也。足下には実に怖るべく驚くべきものにあらずや、然り、これ実に怨むべきものの最也。然れどもこは足下自ら作りしものなり、又如何ともすべからざるもの也。睦仁君足下、憐れなる睦仁君足下、足下の命や旦夕(たんせき)に迫れり。爆裂弾は足下の周囲にありて将に破裂せんとしつつあり、さらば足下よ、


1907年11月3日、足下の誕生日
                    無政府党・暗殺主義者

http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/takeuchi.html

ぼくらのうた



Lyric:

One two three four,
Yes, we are the unemployed!
Since months we haven't heard
the sound of tools in the factory,
they lie cold and forgotten,
the rost eats them alive.
So we roam along the streets,
like the rich doing nothing
like the rich doing nothing


One two three four
Yes, we are the unemployed!
Without cloths, without home
our bed consists of soil
if someone has a meal
we do share everything
we drink water like the rich do wine
we down it
we down it


One two three four
Yes, we are the unemployed!
For years we have worked so hard!
and created more and more
Houses, Palaces, Cities and Countries
for a bunch of wastrel
What is our reward for this?
Hunger, misery and unemployment
Hunger, misery and unemployment


One two three four
so now we do march!
Unemployed, step by step
and sing our song
the song of a new world
where free people are living freely
unemployed is not a single hand
in this new free country
in this new free country.

正月が晴れたと言っている人がいた


元号が平成になってから晴天の記憶よりもガスってたり雲ってたりしてた印象が強いんだとさ。そんなこと毎年覚えてないから事実関係なんて知らないけど、これはあれだよね、嵐の前のなんとやら。もしくは大乱の予感。

景気悪化→停滞の長期化の見通しがどこかで誤魔化されなければ、まあ、いろいろあるのが当然だろうけど。


正月くらい暗い話はやめてくれとか言われたけど、なんか良いことあったっけ?そもそも良いこと探ししなければいけない状況自体が既にあれだしさ。


年末に駆け込みでやってきたのは例のガザ空爆でしょう。「ミサイル攻撃」とやらに対抗して日に何十回もインフラを含むガザ市内への空爆を実行した揚句に、地上軍を南部に結集させて、脅しなのか実行するつもりなのかもよく分からないし。

ところで、ハマスイスラム原理主義って記載の仕方するならイスラエルシオニズム原理主義って表記すればいいのにね。国内差別も酷そうだし、いろいろ複雑とはいえ、それを一つの方向にまとめるための「インディアン」に囲まれた「騎兵隊」ごっこなら、そんなものにどんな正当性があるのかしら。


大体、「報復」てなんだ。死者数一桁に対して三桁なのに誰もそれをまともに論じないのは当たり前だからか、それとも国家暴力とそれ以外の非国家エージェントによる暴力を排他的に峻別しているためなのか。セキュリティーとやらがよくお似合いの価値観だからなのか。一番ありそうなのが政治的パフォーマンスという最低の話だけど、軍事行動なんて政治的でなかった試しはないしね。政権運営がそのまま軍事行動というやつなのかしらね。くだらない。


そんな新年。あ、ついでだけど日本の報道ってこの件に関して完全に西側と国家エージェントにしか関心を絞ってないのが明らかだよね。事態の分析もしないし。ブル新にもいろいろあるとはいえ、ほんとに二流三流どころしかそろってないのね。すてきー。

タンパク質は燃えるけど、観念は燃えないので厄介

madashan2008-12-24




昨日は本当に一年でもまれに見るくらい最低な日だったので、うっかりエントリをアップし忘れました。というか、寝てました。そして、ようやく糞ファシストと糞国家主義の祝日が終わったかと思ったら、今度はなんですか、商業資本主義の祭典かよ。どんなだ。ほんとに最悪だね。大体、俺がなんでファシスト国家主義の親玉の生誕を祝わなきゃならんのかね。まあ、労働はしないけどな。祝日とか言われるとむかっ腹立つよね。つーことで、以下の文章は23日に書いたものですが、まあ一年中変わらないといえば変わらないのでアップしておきます。



本日は一年のうちでも最低な日なので、国家と天皇に関するテーゼを以って終了したいと思います。国家が無ければ天皇だということに如何ほどの値打ちがあるというのか。要するにこの一文に尽きます。国家があって天皇があるのであって、逆ではないという当たり前の話をつい最近まで気がつきませんで、国家に対する敵対と天皇に対する敵対の二つがあると理解しておりました。けれども、この国家が憲法に由来して発生したのだと主張しようとも、起源に関する神話という意味でなら明らかに天皇制の連続によってこそ成り立つ国家制のそれは内戦終結後の1869年か一年前の1868年くらいだろうし、あの国家――途中から大日本帝国と名乗っていた――をこの国家――外国の軍事力による占領下にあっても、同一性の保持に如何なる疑問も憶えることが無かった――とが異なるというのは、感覚的に言って奇妙な感じがするのです。もちろん、近代国家を唯一の国家制だと申し上げるつもりは毛頭ございませんけれども、現在の起源という意味ではやはり明治天皇から始まるのではないかと思います。ネジレを云々されてみても、それは元からネジレではなく単なる必然的な自己矛盾というやつなのではないかという気すらしてきます。45年が如何なる年であったとしても、その意味するところは占領であって革命ではなく、解放ですらありません。しかも、国家制は自らが虜囚となったことは理解しましたし、敗北も経験しましたが、けれども結局死は経験しませんでした。その連続を体現しているのが戦後天皇制だと言ってもよいかもしれませんが、そんな表現よりも単に天皇が国家と共にあるのはこの現体制が以前のそれと連続しているからだと理解するほうが自然だと思います。ネジレは解放が他人たちによって行われたということにかかっているのではなく、自分たちでしなかったということにかかっているのです。けれども、これだって随分奇妙な話です。なぜなら、その首を絞めるはずの自分たちこそが当の体=国家の一部だったのですから。変わったことは敗北と占領であって、トラウマかもしれませんが、人民を彼らは知りえないのであってみれば、我々に対してではなく、占領軍に対してのものでしかない、というのがワタクシ様の理解です。


かつてワタクシ様も近代史において、何でただの一人も玉を殺して首を挿げ替えようくらいのことを言い出さないのか凄く不思議だったのですけれども、よくよく考えてみれば国家の掟としての起源の法には天皇の名が刻まれているわけであってみれば、どう理屈をこねようとも思考と観念の世界においては天皇と国家を分離することができないのも当然といえば当然です。少なくとも、オーソドキシーという意味でいえば、国家が国家自身を否定するようなものです。まあ、今日は年にそう多くはないであろう最悪の日なので、最悪ついでに言わせていただきますと、米軍を解放軍規定する必要は意味合いから考えてもそれほど合理的ではないように思われます。


だって、連中は解放させなかったんだよ。単に王様ではなく政体を破壊して、国家ではなく戦争を終わらせ、彼らが勝利するために来たのであって、解放しに来たわけじゃない。結果としての、事実としての、だって?その結果が何であれ、現在に至るまで彼らの間接統治は終わっていない、という単にそれだけの話であって、彼らの理念や正義が彼らだけではなく君たちにも合理的かつ一般性を備えた真実であると仮定したとしても、一体にその観念が何時どこで事実になったというのかね。変わりはするよ。変わらないなんてものの方が珍しいくらいだ。でも、中身が変わっても自分たちが同じだと思っている以上、<同じもの>であり続けてしまうという平凡な話と同様、意識において決定的な分断と敵対を経験したことの無い、あるいは忘却してしまった存在は結局前と変わらず自分が同じものだと思うだろうし、あるいは手をつないで歩いている赤の他人も区別されない永遠の現在に落ち込んでしまうだろう。そんな整理の仕方なら何でもこの中に入れることができるという声もあるかと思う。それこそ資本制と国家と天皇と米軍と多国籍企業という具合に何でもかんでも突っ込んで分け隔てなく扱う左翼主義、というのは確かにある。けれども、それを現在に至るまで同じ同一の平面に置いたままにしているのは君であり私であるところのこの社会の住人だ。意識的か無意識的かを除けばこれをボイコットし、あるいはあからさまに敵対している人たちはいる。けれども、国家の歴史がその意識において分断されたことがないという見間違えようのない事実の前には未だ脆弱な基盤しか社会において築けていない。彼らはあるいはあからさまによそ者扱いされている人たちかもしれないし、その意識においても他人として存在している人々かもしれない。


<我々>という主語を国家=国民の文脈と一致させることの出来る人間たち自身が、この永遠の現在における平面的な同一性に腰まで浸かっているわけであるし、同じもの、というならこの<我々>自体の国家制も問われざるをえないのが確かだとしても、それ以前の問題としてただの一度も政体を終わらせたことのない人間たちがどうして自分を国家と分けていられるだろうか。右翼の古典的な命題である、国家あっての国民というのはある意味で実に正当な表現なのだ。国家が宣言をして始めて国民が生まれるとの理解は権力が永遠の現在であって、起源を忘却することなくしては正当性を打ち立てることができないという事実の裏返しであって、国家は己自身の歴史しか持たないし、人民の宣言としての国民=国家は発生すると同時に本来性の定義を自分自身に由来させることは権力というものを知っている人間なら誰でも容易に想像がつくし、もっと具体的な意味においても、この<国>であるところのこの社会が記憶する<我ら>の歴史は国家の歴史であって、人民の歴史ですらない。この国家制は終わっていないあの国家制の続きでしかない。45年から52年までの占領統治が、さらに上位の権力構造の中にそれを組み込んだのが事実だとしても、そのことは主権が変わらずあることと共存できる。少なくとも歴史的事実としてはそうだ。本質的に同じだ、とは言ってないよ。それらは互いに食い違う蓋然性を様々な偏差で持った異なるものだ、ということは正しい。けれども植民統治国の知識階級が思考と観念の規則において西洋覇権主義服従しているのと同様の文脈*1で、当該国家の政治権力は宗主国権力の相対的下位構造とならざるをえないという簡単な事実を認めるなら、単純に解放政治のプログラムが如何なるもので、あるいは自由主義であれ社民主義であれ社会主義であれ民主主義であれなんであれ凡そ人間と人間の関係における不平等と抑圧を解決したり調停したりする現実的なプログラムだと言い張る思想がなにものであったとしても、そのいずれかに該当する人間たちは自分たちがそう理解するとおりの人間たちであるなら、この永遠の現在としての国家制と敵対せざるをえないだろうし、それは天皇制との敵対となるだろうし、また幾分かはアメリカからの影響力からの自律性を確保しようとこれまた敵対するだろうことも合理的観点から認められるはずだ。そうしないのはそもそも君たちの信念とやらが単に現在流通している耳障りの良い世間一般の良識的観念の体現でしかないからか、さもなければ単に権威主義者であるかのいずれかだからだ。君たちが左翼――左翼/右翼といった単なる対概念であるよりは遥かに固定的で強いニュアンスの――の代わりとして持ち出すリベラルという代物が昨日の自由主義者たちとどう違うのか、ちっとも分からない。


なるほど、現在の国家制に天皇は本質的な要因とは最早いえないのではないかという憶測は成り立つ。けれども、仮にこの官僚制と政府の統治機構が自律性を確保すべく歴史の中で徐々に分離独立を図ったとしても、なお定義の上ではやはり天皇制と共にしかなかったし、また現在もない。この天皇制は、確かにあの天皇制の初期の頃にあったような天皇となった人間の人格であるとか意志であるとかいった部分に依存しないだろう。とはいえ、それは戦前も国家機能という意味では既にそうだったろうし、戦前の体制がほとんど天皇制と分離できないくらいに一緒くたになっていたことから変化したのは国家ではなく天皇制の方なのであって、いずれにしても国家は相変わらず自らを参照するにあたっては必ず天皇を経由せざるをえない。誰も気にしない、というのは当人が自らの立場を明かさない限りは意味をなさない。誰でもないものとして語られた言説が支配的な価値や権威に由来することでしか成立しないのは当然といえば当然の話であるけれども、そもそも国家と天皇を分離する主張や方向性に対して一般的な意味での抵抗があると予想がつく以上、気にしていないのではなく、それを気に入っているというだけの話なのではないかとの疑いが必然的に生じるのである。ほとんど無意識のうちに国家と天皇が不可分のものとして現れるなら、本来的には<国民>は未だいないということだし、いわんや人民などという表象もまた生まれるはずがない。


テラ一本線を誇る感情がどの国の人間にもあるとしても、それは単に本質的に国家がみずからを表象するにあたっては、テラ一本線としてしかできないというだけの話である。第一、ちょっと考えてみれば幼稚園児でも分かるように、この国家が歴史上<同じもの>であったとの認識は事実ではない。制度として以上に認識においても<日本>などというものは随分最近の話だし、その原像を求めていってもあいまいな期待を抱けるのは精々が江戸末期だろうし、それ以前ともなるとそもそも<我ら>なる同一性の担保をしてくれる集団的表象自体がごく限られた人間たちにとってしか有効でなかったろう。有体にいえば、好き勝手に<われわれ>の歴史と称しているだけで、その歴史時代の人間たちが果たして同一性を支持するかは非常に疑わしい。それにこの国家制はつい50年前にも歴史における同一性の定義を覆したばかりだ。<われら>の歴史というなら、なぜ、国家の歴史において一時的にであれ所有した領土の歴史を描かないのか。そして、国家制がその臣民として定義していた人間たちを表象するための言葉も観念もないのは一体何故なのか。一体、いつから唯ひとつの民族の物語があって、唯一つの国家の歴史があるなどといわれるようになったのだろう。必然性としての、変えることの出来ない過去としての<歴史>に国家制の歴史はないけれども、ただひとつの<われら>の歴史などというものは疑いようも無く国家の歴史であり、本質でもなければ必然でもない。仮に歴史が過去に先駆者を見出していく過程であって、何時でも遡行的であるより他ないとしても、それは自分たちが変わらず常にひとつのものを形成してきたと事実において主張することとは、全く異なる。


結局、天皇制が、天皇家とも、天皇の肉体的人格とも相対的にであれ分離された時から、国家理性のための同一性を担保する役割にシフトせざるをえなくなったのだろうし、その意味するところは、単に国家制が一度も自分の死を認めたことが無いがゆえに永遠の現在を生きており、その現在の同質性を時間軸に沿って引き伸ばしたうえで、ただひとつの歴史があると主張しているに過ぎない、ということだ。要するに我々は相変わらず天皇制の神話を生きているということであって、これを前提として、またこれを許容して、国家を語るものは例え本人がなんと言おうと、何れせよ天皇制の支持者であるに過ぎないし、その限りで如何なる意味でも他の政治思想を選択しているわけではない。そしてまた、国家主義者が何であれ、現下の情勢で国家に抗する者は天皇制とも関係を問わざるを得ない。


天皇も国家も要らない!

*1:近代化と西洋化を合理性の唯一の基準にすえると、近代の終わりが世界の終わりのように思えてくるものです。終わってるのかどうなのかすら知りませんが、どちらにせよ具体的な意味合いで西洋的な価値がみずからの普遍性を事実と歩調を合わせて実現させていく過程としての<世界史>てなものは終わったでしょうし、そもそもそんなものは実に局地的で時限的なものでしかなかったし、その中で合言葉のようにして互いに了解しあっていた意味合いやニュアンスを含む観念が破産したからといって、別に人間の歴史が終わったわけではないので、日常的に人間が他人と話して言葉が通じる/通じないという程度の<意味>なら永遠であるように、解放や自由や平等は恒常的ですし、それ以外に何か大切なものってありましたでしょうかしら?

突撃!お宅拝見

http://d.hatena.ne.jp/spiders_nest/20081212

伏字だから誰の家かは知らないけど、きっと悪い人です。奴隷労働で利益を上げたり、監獄労働で財を成したりしないと一等地にお家を構えるなんて無理だよね!

あさっての火曜日は労働がお休みという人も幾分かはいるだろうから、みんなで見学するといいよ。かやき☆たんと会えるかもね!!

■□■□ リアリティツアー  □■□■CommentsAdd Star

  1. ver 2.5:62億ってどんなだよ。渋谷ミステリーツアーのご案内 ---

RTBが呼びかけた第2回リアリティツアー、「62億ってどんなだよ。麻生首相のお宅拝見」は、不測の事態により不本意ながら中止を余儀なくされました。荒天でもなく、事故でもなく、「ユデダコ巡査長」改め、警視庁公安部公安二課長・栢木國廣(かやき・くにひろ)警視(ほぼ確定!)による予想外の襲撃が原因でした。

そこで今回は、厳重なタコ避けを施し、前回の有無を言わさぬ踏襲はご遠慮願ったうえでのツアー2.5をご提案します。今回の目的地は??? いまや未曾有の危機にある内××理×臣・×××郎さんのお宅。××年間にわたり一着30万円の×××を年間10着仕立てる××××な××。たった×日で大卒初任給の2倍の×を撃ちまくって鍛えた××は××××××級の腕前。敷地だけでx,xxx,xxx,xxx円。×××利通、牧野××、×田×に連なる「華麗なる一族」の東京宅です。詳細は来てのお楽しみ。支持率の低迷が伝えられる今日この頃。×××郎さんが「かしこくも」内××理×臣であるうちに、ぜひいっしょに見に行きましょう。

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日時:12月23日(火) 正午から

集合:渋谷駅ハチ公前広場

主催: RTB(Reality Tour Bureau)

連絡先:03-3373-0180

○地図○

http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=113693097359521632284.000459084216c0d2d2138&ll=35.662248,139.695346&spn=0.007601,0.015192&z=16

系図

http://episode.kingendaikeizu.net/image141.gif

JUST DO IT

http://minnanokouenn.blogspot.com/2008/12/blog-post_17.html

12月22日(月)ということで近々ですが、一応ね。同時多発的なのが今世紀のトレンドです。知らないけど、脳内人民評議会でそう決まりました。公園はだらだらする場所であって、商品を購入しなければならない商活動の空間ではありません。なんでも金で済むと思うなよ。

宮下公園はナイキの商品じゃない!世界同時行動!12/22/08

 現在、東京渋谷区ではナイキジャパン社が、公共地である宮下公園を事実上買いとり有料化する計画が進められています。私たち、みんなの宮下公園をナイキ化計画から守る会は、この計画に反対しています。住民や公園の利用者には告知されておらず、渋谷区議会の審議を経ないまま、区長と一部の議員によって水面下で進められています。


 マスコミ報道によれば、ナイキジャパン社は数億と言われる公園の改修費を全額出し、スケートボード場、ロッククライミング場などの施設をつくるそうです。また公園のネーミングライツを渋谷区から購入し(10年間2億円で調整中)名称もナイキパークに変えるとのこと。宮下公園は駅から徒歩5分という一等地に1万?というまとまった土地を有しており、同等の土地の賃貸料は年間5000万といわれています。低価格で抜群の宣伝効果をえるはらづもりです。


 グローバル企業であるナイキはアジア諸国での過酷な労働環境で知られる世界有数のスウェットショップです。92年にインドネシアの工場で支払った給与総額は、マイケルジョーダンに支払ったCM料2000万ドルにも達しないとのことです。また経営者による虐待や性的暴行も報じられています(BBC,2/22/01)

 
 公園は多様な意見をもつ人が共存し、一人ひとりが楽しみ方を創り出すことができる場所だと思います。私たちは多様な意見を排除するナイキ公園計画はではなく、宮下公園を存続させたいと思います。


 08年12月22日、このナイキパーク計画の問題を訴えるために、各国同時にナイキ社前で様々な行動を予定しています。ナイキ社前でのチラシまきやアーティストによるパフォーマンスなど参加の仕方はさまざまです。ぜひあなたも一緒に声をあげていきましょう!


●世界同時行動参加国
 フランス、マリ、トルコ、ポルトガルなど。
 
●東京行動
08年12月22日(月)
12時 ナイキジャパン本社前でチラシまきと抗議集会
    天王洲公園集合(天王洲アイル駅B出口)
18時 ナイキ本社前で、パフォーマンス。
    スケボー、Yuzo、いちむらみさこ小川てつオ、抵抗食の会(仮)他。
    ナイキジャパン本社のビルへ、公園のナイキ化反対デモの映像を投影。

●鹿児島行動
 08年12月22日(月)???