仕方がないこと?

少し、まじめに取り組まないといけない*1厄介な話を考えていたら頭が痛くなりました。つまり、あれだ必然性というか客観的情勢がもたらす抑制や抑圧、あるいは行動の不自由をどの程度まで認めるのかに始まって、それを我慢とか忍耐とかいった形式のもとで了承し認識し行動するのか、それともそこに相対的にあれ十全性を見出すのかといった例のあれだ。分からないひとは分からなくていいと思うよ!

まあ、その抑圧それ自体への反対なり抵抗なりを目的とする運動を構成すれば、合理化はできるんだろうけどさ。

でも、それ以前の問題なんだろーなー。参加があって、固有の集団性があって、さらに対話とコンセンサスがあるみたいな順序正しく進んでいく過程というのは、有り体に言えばデマか欺瞞です。本当は一番最初に決定があって、意思が付随的に派生するだけだと思うので。さもなければ、それに適応しなければならない特別の事情というものがある場合だけでしょうけど、それって労働とか(外的な)義務とどう違うの、ていう。この辺りは自己批判になるけどなー。

*1:個人的に。