つづきのつづき
何を書いているか自分でもわからなくなること、それが真の電波の条件です!
さて、極端な現実主義的――道徳的審級を括弧入れして目的への合理的効率的な解法を正当なものとみなす――原則を己に課すような真似に慣れていると、目的の正しさの検証と称されているものが手段への選好を基にして行われているという事実に目を背け、単に政治的立場を変えただけで終わることがあります。転向者のうち、いくらかはこうした人々です。
急進的な態度を是としてきた子どもが社会的な評価や利益を省みる時、言いかえれば彼が保守的な態度を好ましいと考えるようになる時には、未だ幾つかの転向の可能性があります。彼がとびきり冷笑的で、行為の決断主義=主意主義的な側面を強調し、自己犠牲や英雄的な冒険主義の凋落を認める(且つ保持しようとする)のなら、おそらくそれはファシズムへの接近を容易にするでしょう。選良志向や悲観的懐疑主義を取り上げて、他人たちの悪と不善を効率よく抑えることを妥当なものとみなすのなら、極めて保守的な政治的立場への親和性が明らかになります。彼、あるいは彼女が変わらず保持する態度の中には、暴力的な、あるいは破壊的な攻撃への親和性である場合もあります。それどころか以上の全てを保持したまま現実の政治的態度を180度旋回させることもできます。何れにせよ、彼の欺瞞は次の点にあります。つまり、彼は、自分自身の選好=主観性を排して客観的に、従って現実的な選択をなすことを理性的な態度と考えるがゆえに転向したのにもかかわらず、相変わらず<急進的な>=過激で冷淡な認識は保持し続けるのです。
とびきりストイックな教条主義者が現実を前にして修正主義的な改良主義に傾くのなら、その時捨て去られるのは意識に絶対的なものの存在を教えるところの、真実としての革命であり、その熱狂です。様々な策略や陰謀を好む姿勢、他人たちを対象化してモノとみなす傾向、状況への悲観的な認識――わけても暴力への信頼、こうした有り様それ自体は手を加えられることなくそのまま政治的立場を反転させるわけです。それが好きであるとか、より良いと見なすが故に立場を変えるのではなく、他人たち=客観的状況=現実へ屈伏する形でなされる転向は、マシなものを選ぶという消極的・否定的な態度でしかありません。しかも、これは今や欺瞞でしかないことが明らかです。というのも、現実的な立場が如何なるものであったとしても、その中の一つを最良のものとみなすのは彼自身であり、その選択に彼自身の欲望や選好が介在しないなどということはありえないからです。最悪の場合、彼は単に自分自身の意識を満足させるために(過激な姿勢そのものの保持による主観的な充足と、一定の社会的評価を獲得することによる間主観的な喜び)<現実的な>選択をとることすら考えられます。
これが滑稽なのは、その召還主義的・待機主義的な姿勢故に、彼が他人たちとの和解が初めからあり得ない地点に立ってしまい、その結果として今度は現実的なものの所在それ自体が不分明になってしまう点にあります。現実的なものとは他人たちがそれぞれの選好や嗜好に従って選んだ諸々の態度の交錯にあるわけですが、彼はそれを純粋な観察対象・操作対象としてしまうために、逆説的に自分自身を真に<現実的なもの>が生まれるところから排除してしまうのです。どれほどの誤謬や偏見が介在していたとしても他人たちの眼差しの中にしか<現実>なるものは存在しません。だからこそ、我々は複数の異論の余地ある<現実的なもの>を巡って争っているのです。
この滑稽さは、彼が己の立場を絶対的に正当化し、未だ急進的である人間たちを非難するときにより鮮明な形で現れます。彼は、これらの人々は感情的で幼稚で非合理的な存在とみなしたがります。しかしながら、道理をわきまえない人間の振る舞いは選好に基づく自然な態度です。それを抑圧することを正しいふるまいであるとしているのは、単なる主観的な判断――現実的な、実際的な、そしてまた公的な態度を佳しとする――に過ぎません。彼は他人の不善や無能力、欲得づくめの怯惰な意識をそれと認め容認するのですから、当然の如く人間たちの恣意的で「感情的」な態度をも許容すべきなのですが、かつて自分がそうであった時には許容していた急進性を、その情緒的な動機(彼には実に親しいものでしょう)故に性急に断罪します。現実的というのなら、他人の感情的な反応も現実の一部のはずなのにも関わらず、彼は敵対性だけは相変わらず頑固に保持し続けるのです。
長いよ!えーとね、以上見てきたことがらはワタクシ様の個人的な経験に基づく飽くまで個人的なお話に過ぎないので、当てはまりそうな事柄を自分の中に見出したからと言ってそれはワタクシ様の意図ではございませんし、以上のような認識と経験に基づく人格を一般化して、皆さま方を揶揄するつもりはまるでないのですけれども、まあ、とはいってもこの種のモラーリッシュな態度というものはそれなりに多くの――特に男?――人が経験するものではないでしょうか。
ある種の男の子というものは小さなころから意味もなく自己犠牲的な戦いや崇高な死というものに憧れますが、遠からず世の中というのが存外につまらないし、自分が無力であるということに気づきます。広義のヒロイズムというものがここでの主題なわけですが、しかしながら、この手の欲望が現実への挫折(とその防衛機構)としか理解されないなら致命的な誤りを犯すことになります。単なる冒険的な英雄願望は成程幼少期の早い段階で放棄されますし、少なからぬ子どもがこの手の直情的な英雄への感情移入に失敗してそれを忌避するようになります。しかし、まさにこの失敗あるいは敗北において、正当化され必然化されるような態度にこそ、ヒロイズムの凋落した形態があるのです。あるいは、その時にこそ楽観的な冒険主義が挫折を経験し、そこからなおも生き抜くためにシニカルな態度を合理的で現実的なものと取り違えはじめるのです。この種の変化の過程に限って言えば、それは単に世の残酷さに出会った多くの子どもたちがとる防衛反応にも似ているのです。大抵の人は半意識的にその種の<残酷さ>を合理化し、かつ無頓着になることで他人たちと折り合いをつけていくものですが、こじらせると何にでも<残酷さ>を見出し、かつまたその手の悲惨なものばかりを見ようとします。中二病というやつです。革命的ヒロイズムの下品な形態はこの種の病を通じても接近可能だと思います。というより、極めて親和性が高いように思われます。自己犠牲の悲壮感に没入したいというバカバカしい欲望の危険性が付きまとうわけです。それが起原に置かれようが、付随的に派生しようが同じです。ストイックな態度というのはそれ自体で十二分に欺瞞的で、ほんの少しの後押しで保守的な諦念に変わることができるものですし、どれほど誠実であってもその攻撃的で制裁的な本質は変わりませんから、他人の悪や欲望――欠陥を赦す代わりに自分をモノと見なす態度を合理化するのです。誠実であれば誠実であるほどに己自身と他人の存在を客体に還元し、偏狭な理論的枠組みや必然性に回収することに満足感を見出すようになります。
十代のワタクシ様に固有な経験として現れた革命への熱狂的道徳感情というものは、よくよく考えれば何のことはない、ネット上でもちらほら見かける頭の悪いホモソーシャルな欲望に駆動された神経症に過ぎなかったわけですな。
(有り体に言うとですね、皆様方が女子のスカートの下が覗きたくて仕方がない時期に、ワタクシ様は革命と革命家の神話をその代わりにしていたのです。ひどい青春時代ですね!君らがグラビアアイドルの胸の谷間に悶えている時に、ワタクシ様は「都市ゲリラ教程」とか「国家と革命」とかに萌え転げていたということです。きもいよ!まあ、今でも大好きだけどな!)
それはそれとして、二十歳を当に過ぎて人生のうちで最も美しい季節とやらを経験しないまま大人になったワタクシ様はいい加減うんざりしてきたわけです。だって、革命が起こっても独裁とテロルしか期待できないなら無駄じゃないですか。しかも、革命とか起こりそうな気配もないし。
で、じゃあ、まあ社会運動は社会運動として、その急進的批判性を以て社会に一定の活力と緊張を与えることで絶えざる改良への道を開くという辺りで折り合いをつけて(修正主義的欲望!)、それはそれとして人類の理念としての革命と現実のものとなった諸々の歴史的諸事件を突き合わせて、そこから尚も一定の価値を見出し得るか、またその価値とは何であるかとか、そおゆう似非知性主義に走ろうかとも思ったのですが、そこでまた新たな問題が!ワタクシ様は勉強が大嫌いだったのでした!
あー…なんか単なる個人史になっちゃった。まあ、ストイシズムなんて英雄主義的冒険への自己満足的な凭れかかりによるものだし、自己犠牲の精神って悲壮感への自家撞着を生むよね、つー話がしたかったんだけど。それで、その手の悲壮感への愛着は<残酷さ>を現実主義と取り違える頭の悪さと親和性があるよね、という。
疲れたから、続く。というか、長すぎ。