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続き。何の続きか分からない人は分からないままで大丈夫。
まあ、それで、ワタクシ様の個人的な体験について語ろうと思うわけですが――脳内前衛ごっこを楽しめたのも十代の半ばまでであり、一体に成長というものがまるで見られなかった少年も自分自身の幼稚さにだけは敏感であったために、自分の選好や嗜好がそのまま正当性の根拠になるはずもないことは無論、それどころかあらゆる正しさについての判断が己自身の選好に過ぎないのではないかという疑問に出会わねばなりませんでした。それまでの反動がくるわけです。大衆運動とプロレタリアートの組織化こそが戦術の要諦であり、党と前衛は軍事的制圧を望む時には有効であっても、集団の統治の形式としては必ず専制を長期化し、かつ恒常的な体制に変化していく、とかね。
前衛とか後衛とか僕はどこのセクト活動家なん?つー。まあ、前衛党とか認めませんけどね。死んでしまえ。
その古典的な形態――少数精鋭の職業陰謀家によるクーデター紛いの武装蜂起――から、洗練された形態――大衆運動への沈潜と労働者の組織化を通じて中核となる労働者活動家を育て、その大衆組織に対して一定の影響力と指導の義務を負う職業活動家たちの前衛党を配置する――に至るまでの共通の根である代行主義的欲望が批判されなければならない。
中央集権的構造と下部大衆に対する絶対的な優位性という点で(あるいはその点のみを以て)組織論としての前衛主義を否定したとしても、まだ原理的な批判とはなりえていない。言いかえればそれは乗り越えられていない。さらにいえば、致命的な難問は、この前衛主義がある種の事態にあっては極めて合目的的で効率的であるという点にあるのではない。まさにそのような状況をこの前衛が予め勘定にいれ(己自身を状況に対して有効でない、いいかえれば十分に合理的でないものとして構想する組織がありうるだろうか?)、またそこに向かおうと全精力を集中するが故に、逆説的に前衛主義は機能するのである。ところで、目的に対する軍事的な合理性が解放の原則から著しく乖離し、かつ優先的な地位を与えられるのは革命状況が現に存在する限りであるが、このような革命に対する合理性を支持しうるのは偏に革命への確信に基づく、絶対的な依拠とそこから導かれる厳格な行動規範によってである。
革命に対する教条主義的熱狂、あるいはストイシズム(自己犠牲・献身・原理主義的・決断主義的、その他もろもろの絶対性を倫理的に要求するような態度)はその頼まれもしない「予めの決死の覚悟」という点で、革命的前衛の思想や軍事主義的な陰謀への親和性を持っており、それはテロルを主体的に引き受けると称しては、他人と自らを道具主義的にしか扱わないというヒロイズムの陥穽に嵌る危険性が極めて高い。
問題は他人たちを客体として扱うという点にあるのではない。最も悪質で欺瞞的な論理が暴露されるのは、彼らが自分自身をもまた党と主義にとっての客体として扱われるのを認めるときである。指示されたもの、指導されたものの内実を実質的に問うべき主体が存在しないという点で、この種のモラルは堕落したものとしてしかあり得ない。客観的な必然性(歴史であれ、教理であれ)への依拠を己自身の外部に投影するなら、彼ないし彼女は自分自身に責任がないと言っているのと同じである。暴力を引き受けるというその主体は、それが義務であると理解する限りで、己自身の責任を放棄しているのだ。理論的にいって当該のテロルが合理的かつ正当であるとみなされるのなら、その時には誰もテロルを引き受けてはいないということになる。テロルの正当性は、単にそれが大衆的な蜂起の中で起こる限りで、またそれがいかなる理由も事後的にしか付与し得ないという致命的な事態にあるが故にのみ、与えられるに過ぎない。前衛の、専制権力の行うテロルは代行主義であるがゆえに恣意的であり、恣意的なものであることを認めることができないために腐敗している。
こうして前衛主義=労働者代行主義に対する抜きがたい警戒心と不信感は、テロルと急進的平等主義への活動家道徳を許しがたいものとみなす。事実として、この種のモラーリッシュな態度は最良の場合でもその選良的傾向と権力志向故に独裁的な統治に向かう。指導される革命、というのがこの場合の最大の問題点である。人間が自由であり、かつ他人たちの共同において等しく在る、ということは人民大衆の意識的かつ能動的な、そして直接的な審判を通じて常に緊張を抱えた状態で確保されるのでなければ意味をなさない。代表と委任による統治制度が大規模かつ全面的なものとみなされ容認されるのなら、従来の国家権力による抑圧と社会的不公平は別様の形態をとってはいても本質的には少しも変わらず再生産され続けることになるだろう。だからこそ、人民の一定の組織化とその運動によって広範な社会的圧力を惹起し、事実としての統治機構に対して急進的批判を続けなければならない。しかし、また、同時に中央集権的な前衛党が権力を掌握し、当該の権力機関――労働者評議会としてであれ、代議制議会であれ、あるいは官僚機構であれ――を運営し、かつ大衆組織を構成するとなると、今度はそのような社会的敵対が「上から」組織され指導されることになってしまう。社会的敵対の潜在的可能性、言いかえれば革命的急進主義的政治を志す人間にとっての意味とは、この種の敵対が、個別具体的で特殊な利害関心に基づいていながら(この要件を満たさないのなら、それは単なる代行主義の一種である)、と同時にそのような特殊利害関心を調停しえない全面的な不正という観念(これがなければ個々の利害関心は単なる社会的係争に回収される)に基づいて己自身を普遍的なものと看做すという逆説的な事態に由来する、絶対的な敵対――社会的関係それ自体の転覆と再編成を要求するような絶対的で破壊的な敵対を目的とする、という点にこそ求められねばならない。
こうした前衛批判は、しかしながら、実際のところ教理問答の域を超えていません。何故なら、革命に対する献身それ自体は危険性を承知でなお要求されなければならないものとして認識されているからです。大衆的なマステロルは無論のこと、組織的な暴力も時には辞さない態度の裏には革命の道徳があるのです。言いかえれば、それは活動家倫理とでもいえそうな代物です。
あらゆる熱狂や絶対的な確信=狂信がそうであるように、革命家の道徳とは先ず第一に絶対的であることそれ自体への依拠です。この絶対性が、善悪の判断を停止することを正当化し、状況への客観的分析と道具主義的なその利用を合理化します。いかなる手段を以てしても、己自身の活動と目的を必然的で合理的なものとする方向へと状況を導いていかねばなりません。ストイシズムは「自然な」道徳感情を感情的という理由で拒否します。どこかで聞いた話です。モラーリッシュな態度の徹底的な思考は、この種の粗悪な<現実主義>を呼び込みがちです。勝利は出来事を必然化する、という発想は凡庸な認識ですが、往々にして行動の規則として選択されます。
このような<現実主義>は選良主義、不可知主義=決断主義、悲観的懐疑主義、破滅=救済願望、死=否定的感情それ自体への誘惑、などといった様々なものと同居して現れうる一般的な認識に還元して考えることができます。何故そのような還元が必要かと言いますと、ここにこそ転向の問題が隠されていると思えるからです。
さて、一部の人の生ぬるい視線を浴びてやりにくいことこの上ないのですが、まあ、それはそれとして。革命的熱狂とその倫理的ストイシズムの二つは本来的には(原則的には)同じものではありませんし、いくらワタクシ様のお頭が緩々であったとしても、それらを違うものとして認識することくらいはできました。困ったのは、この合体が論理的には必然的でないにも関わらず、経験的には何時も同時的にしか発現しないという点にありました。そして、ある意味では、これらは同じものの違う側面と言えなくもありません。一方の出来事への信頼が他方の非人間的な態度を合理化するのです。
興味があり、また事実の中で必要ですらあると考えられていたのは圧倒的に前者についてでしたが、後者もまた、その子供っぽい冒険主義的ヒロイズムへの親和性から容易に獲得されうるものでした。そして、このような混同に基づいて正当化されたストイシズムは、子どもの自己犠牲的精神と呼応して己自身を恰も普遍的なものであるかのように振る舞うのでした。こうした態度、あるいは振る舞いというのは経験的に――というのもこれはワタクシ様の個人的な経験にすぎないのですから――いえば、多くの子どもがその成長過程で経験するであろう現実への挫折とそれへの乗り越えとして現れる諦念や反動的態度に由来していました。<残酷>な、或いは<不条理>な事実に出会った子どもは恐怖と悲しみを正面から受け取ることを回避しようとして、意識にある種の防衛機構を築きあげます。そうすることで心理的な負担を軽減し、自分自身の存在を意識においては優越させるのです。恐ろしいものが恐ろしいのは、未だ自らがそれと対峙しているためです。最も安全で最も確実なこれへの対処法とは一つ、自分自身をその恐ろしさに適合させること――いいかえれば自分自身の規則としてその恐ろしさを身につけることです。ところで、恐ろしさ(或いはおぞましさ――道義的感情にとっての危機)は<敵>に関係するものではなく、むしろ我々として一般的な形で表象されるところの革命的主体にこそありました。つまり、テロルは受け入れられ得るかという設問がそれでした。
暴力なしに物事を解決することを望むことは出来ません。自分たちの単なる現在や日常生活に依拠して(その延長として)、歴史的な出来事を裁断することは出来ない相談でした。こうしたやり方は躊躇いなしに行うことはできません。どんなに幼く、未熟な子どもであっても――あるいはまたそうであるが故に、この振る舞いの偽善性には気が付きます。
そして、革命への熱狂は観察や思索によって得られるものではなく、衝動的で無媒介的な即時の同意だけがその起源でした。人民の広範な蜂起の経験は、物事をひっくり返し初めからやり直そうとする決断的態度であり、隷属や抑圧から自由になるという意味での解放であり、他人たちとの不透明で嫌気のさす社会的関係の垣根が取り払われるという意味での平等の実現であるという点でまさに一つの出来事ではありますが、単一の統率や指導、そして何より単一の目的とそれへの意志という形で表れる通常の意味での集団行動とは全く異なる集団的現象であり、それを何らかの組織や人間に還元することのできない真の意味で社会的な爆発であるが故に、即時の同意が得られるのです。これなくしては、政治は単なる党派的な揉め事でしかなく、戦争は職業的専門技術によって為される単なる武力衝突でしかない、そのような根源的な人間の本性に属する連帯と解放のエンブレマとして革命は近代的な意識を屈伏させるのです。
こうして所与の目的として革命が据えられると、その歴史的な形態と過程が俄然意味をもってきます。というのも、これまでのどんな革命や蜂起も敵からの暴力的な攻撃に会わずにはいられませんでしたし、むしろ進んで自ら敵をせん滅しようとするものでしたし、そして何より憐憫と妥協故に敵の無慈悲な攻略にあって敗北するか裏切りと怠惰な欲望によって自滅するかのいずれかでした。これらの出来事全てを捨象することは出来るでしょうか。敗北は決して失望を意味しませんが、同時にそれと認めたとしても問題のあることではありません。言うまでもなく勝利して己自身を十全に発揮することが求められているのですから、諦めるなどということはあり得ませんでしたが、それでもこれまでの敗北を単なる数量的な力関係にまで落とし入れることが出来るのなら、その時は敗北は単なる技術的問題に過ぎない事実になるのです。しかし、それでは裏切りや怠惰な欲望の数々はどうなるでしょう。邪な人間たちや残忍な出来事抜きの革命などがこれまであったでしょうか。そして何より、邪悪さや残酷無情な出来事を司っているのは意志や人格ではなく、端的に人間たちの行為であり、その点で如何に道徳的潔癖の人であっても、あるいは高潔で人間的な徳目を備えた人物であっても、悪からは免れ得ないということは火を見るより明らかです。
事実への絶えまない注目は、裏切りと冷酷さを単なる意志や人品の問題には還元できないということに気づくのです。正しい目的への邪な手段は正当化されるべきでしょうか。或いは正しい状況の齎す破滅的な暴力は正当化されうるでしょうか。いかにして?
革命が真実の出来事であるなら、要するに至上の価値を持つ絶対的なものであるなら、その時は人間のあらゆる愚かさや不道徳、欲望や怠惰が問題になってきます。革命には常に集団による集団への攻撃があり、それどころか大抵の場合は無数の絶えまない暴力的状況の爆発的連鎖が見られるものです。暴力がその本性なのです。何を以てして暴力となすかについての設問があり、つまりは闘争の手段としてどこまでが許容されうるのかについての審級が問われていたのでした。
賢明な皆様がお気づきのように、こうした問いを抱えた子どもは他の子どもたちとある点で決定的に異なっています。伝聞や想像という形式で認識されるあらゆる出来事のフィクショナルな性格故に、通常の子どもたちはその出来事を物語化し、それのもたらす興奮や諸々の感情、そしてその意味といったものを観念的で抽象的なものにとどめたままで、この物語の可否を問うことができます。けれども、そこで結果として得られた疑問や反発といった感情的な躓きを真正な問いとして――つまり頭から離れず、それと気づくことなく過ごしていても付きまとう――心惑わされ悩むということは、先ずありません。大抵の物事はその「あるがまま」の状態で承認され、認知され、許容されるのです。要するに我々は事物に関する諸々の知識を深刻なものとは受け止めません。けれども、こうした態度は自然に成長するにあたっては屡躓き、危機にさらされます。人間は老い衰え、やがて死ぬ運命にあるわけですが、これらの未来の必然性はある種の子どもを魅了して離しません。子どもはこれらが現在の内にも潜在的に含み持たれている真正の=真実なものとして、深刻に受け取るのです。起こり得る可能性は飽くまで可能性に過ぎず、どんな確定的で必然的な未来もその意味では真理の瞬間たりえないわけですが、我々が物事を深刻に受け止めその意味を徹底して考え抜こうとするような場合には、出来事や必然的な状況は真実の次元で認識されているのです。
現在のうちに様々な形で感じ取られる世の不条理や残酷さは、子どもにとっては先ず不快なもの・怯えさせるものとして現れ、ついでその意識における受容と乗り越えによって単なる所与の前提であるにすぎなくなります。しかし、この状態では真に乗り越えられたとは言えません。というのも、このような中途半端な意識にとっての問題は状況への対峙や解決それ自体への意志ではなく、端的に己自身の臆病さや恐怖でしかないために、それを受け止めかつ気にしないという消極的な対処法を身につけることで事足れりとしているからです。目的に対する合理的な判断が現実的なものを蓋然性の中で取捨選択することで行われるからといって、現実的なもの=正当なものではないわけですが、自分の感情的な弱さに怯えているような愚昧な意識にとっては全てが一つの真理として機能します。蓋然的なものは必然的なものであり、予測は最小限度の善性をも期待できない悲観的な条件の下で建てられねばならならないと考えるわけです。しかしながら、元々が自分自身の感情への恐怖からの乗り越えでしかないために、このような乗り越えは単なる防衛機構に過ぎなくなってしまいます。
必然性や合理性が彼の武器となりますが、それ自体が有効に機能するためには人間たちは合理的な仮想的主体として考えられる必要があり、その結果、彼は人間たちの感情的な反応を許すことができなくなります。自分自身の未熟さを棚に上げて他人たちを罵るわけです。しかしながら、彼はいつまでもこの態度を保持することはできません。目的を真正なものとして設定するなら必ず他人たちとの共同が問題となり、他人たちの否応なしの地獄が我々の所与の前提である限り、他人たちの道徳的質や知的質は如何にも問題にならないからです。
必要もないのに禁欲的かつ悲観的な認識を敷衍して物事の有り様を観察するような人間、さらにそこから行為と結果のみを、つまり事実のみを、有意義なものとして認めるような人間――こうした人間たちは意識に対して、他人の、あるいは自らも含めた人間一般の不善と怠惰を勘定に入れた上で行動するよう規制をかけます。そして、彼は現実的になるべきだとの理性の声に従い、その現実性の内実を問わずに、単に他人たちの行為の蓋然性を予測して、それに妥協する道を合理的なものと考え始めます。この一見すると成長にも見間違えられる認識上の変化は、しかしながら、自分自身で考えるより遥かに退行的なものですし、悪くすれば反動的ですらあります。と、いうのも、彼が他人たちに妥協すべきであると考えるのは、他人たちを一つの自然とみなし、その有り様を静的と言わないまでも、意識にとって外的であるような所与の条件とみなすためですが、そのような認識それ自体が既にして己自身を状況から召還して物事を静観する姿勢にもつながるからです。たとえば、このように。
柄谷行人は、他にも「入れ札と籤引き」(『日本精神分析』、所収)で、〈無駄な抵抗〉をしないことをすすめている。
戸坂潤が小林秀雄を攻撃したのは、革命的なふりをしたがる左翼の虚勢にすぎません。しかも、最も理解してくれている者に八つ当たりしているだけです。戸坂は優秀な哲学者でしたが、このような愚かさのために、戦争が終る直前に、獄死する目にあったというべきでしょう。小林は「腹も立たぬ」と言いますが、こうしたことが続くたびに熱意を失ったことは疑いがありません。彼は、日中事変の勃発に対して、「国民は黙つて事変に処した」と書きました。つまり、その時点から、「人民戦線」的な抵抗を放棄してしまうのです。なぜ突然、そうなったのかわかりません。しかし、こうした小林秀雄の態度の背後に、菊池寛がいたということに注意すべきでしょう。菊池寛さえ諦めてしまったということが、小林秀雄に、それ以上の抵抗を断念させたように思われるのです。
ここで柄谷は、「抵抗」を諦めることを正当化していく。現状を読めない愚かしい「左翼」がいるから、「抵抗」を断念することはしかたがない、というのである。また、戸坂が「獄死」したのは、彼が「虚勢」を張る「愚か」な「左翼」だったからだとすることにより、戸坂潤を「獄死」させた者の責任は決して問われず、「日本文学報国会」の創立総会議長を務めた菊池寛のあり方も、しょうがなかったこととされてしまうのである。
http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-2.html
ここに引用された柄谷行人の愚昧さはすぐにでもおわかりになるはずです。現在の情勢への屈服をして現実主義と称すると、戦時中の自由主義者の有り様を正当化することができるのです。
<国民>はラディカルな反戦運動に同意しないだろうし、それは広範な支持を獲得できないだろう。その点でそれは単なる道徳的な判断になっている。現実的――しかし、一体誰の?――な判断とは政局に一程度の同意を示し、その中で最も悪しきものを排除していくよう他人たちに働きかけることである――最良の場合ですら、戦時下の妥協はこのようなものとしてしか現れません。彼らの欺瞞的な態度は、自分自身の行為それ自体が有効性の観点から選び取られたものであり、まさに行うのは自らであるにも関わらず、その直接的な正当性を他人たちの蓋然性に置く点にあります。単なる現状の追認は、恣意的な判断や主知主義的な態度の反対ではあっても、決して批判的で現実的な選択ではありません。主知主義的な決断主義的な蛮勇は悪しき振る舞いです。しかし、それを乗り越えると称して単に現在と事実を正当性の根拠に据えるのなら、そのような現実主義はただの状況の追認に過ぎません。いずれの場合も忘れ去られていることがあり、それは人間は状況から切り離されることはなく、同意は条件付きであったとしても一方の側への明確な加担であり、他人たちの振る舞いの蓋然性に彼が賭けたとしても、その結果としてこの行為を目的へ有効な形で結びつけることができないのであれば、それは敗北であり、その責任はすべて彼自身のものでしかありえない、ということです。
状況が急進的態度を現実的なものとしていないと見なすのは彼あるいは彼女であり、その認識を合理化するのは行為であり、行為を絶対的な形で正当化するのは結果であり、結果は事実という形で物事の過程を必然的なものとします。大日本帝国が敗北するのなら、同意を示した人間たちもまた敗者であり、有責なのです。ワタクシ様は残念ながら日本近現代史は疎いものですから、戦後にあって自由主義者たちが戦中の振る舞いを総括し自己批判したのか否かは知りませんが、彼らが状況の蓋然性を根拠に己の行動を戦後にあっても正当化しうると考えるのなら、その時は彼らは歴史から何も学ばなかったということになるでしょう。
人品の高潔さやその意図や目的の善性はそれ自体では何の価値を持たないと認めるのなら、どれほど非現実的で、どれほど馬鹿げた人物であっても、物事の流れの中では正しい振る舞いをなしうる存在であることを認めないわけにはいきません。同様に、当時にあってその絶対的で頑な反対が観念的で凡そ道徳的反応としか思えなかったとしても、戦争の敗北は彼らに正当性を付与するということを認めねばなりません。
状況の単なる追認と蓋然性に基づく戦術としての一定の同意の間には、それ自体では差異は認められません。彼が己自身の態度を正当化する唯一の道は結果であり、勝利によってです。もちろん、主観的な意識にとっては抜け道があります。決して敗北を認めない、というのがそれです。しかしながら、敗北を認めないのは目的が明確であり、あらゆる行動がその目的を目指して持続的になされる限りでしかあり得ません。そして、なるほど闘争は生きている限り継続することができますが、現実的であるためには何れにせよ現在の状況を勘定に入れ、その中で短期的で実際的な目標を定め、それへの接近と獲得を通じてさらに中長期的な目的へ前進することが要請されます。
他人たちの非合理性を認め、他人たちの怠惰を許容し、寛容の精神の下に現実的で妥当な判断を為そうとする<実際的な>人間は、往々にして以上のような欠点――他人たちを対象化することで状況から自分自身を外的なものとして引き離してしまうこと、状況に加担する諸々の主体の織りなす交錯が政治的生活の基調であるにも関わらず己自身と他人たち=世界を対峙させることで自分の意識=目的の自律性を保持してしまうこと。その結果として己自身の行為に対する責任を理解できなくなってしまうこと――を抱えています。