ちょっと息抜き
全然関係なくもなく、意外と大事なところで関係していないこともないのだけれども、それは意識の変遷において密接なつながりを持っているという限りでの必然的な重要性でしかないので、直接的な関連ということではまるでない、一つの付随的な出来事について。
昔、ある読書会の中で素朴実在論と懐疑論的独我論の二項対立的関係が語られ、まあ、お題がメルロ=ポンティだったので当然といえば当然ですが、その際に素朴実在論の自明性というか自然発生性というものへの言及があり、一人の発言者がこの自明さを指して「子供の頭の悪さ」と表現しました。
それに対して、別の参加者――女性の方でした――が意識にとっては、素朴実在論より懐疑論的なものの見方、もっといえば意識の絶対性以外の与件を確信できない独我論的偏見の方が自然なものではないかと述べ、また素朴実在論を確信できるような意識は「馬鹿」なのではなく「強い」のであると述べました。
なんでか知りませんが、この出来事はよく覚えています。勉強なぞまるでしなかったし、ほとんど講義にも顔を出さず、まじめに議論に参加することもなかった偽学生生活にあって、唯一といっていいくらい記憶に残っているエピソードなのですが、その理由は自分でもよくわかりません。しかし、お陰様で下らない現状追認と修正主義的欲望に飲み込まれず、今では立派な革命的ルンペンプロレタリアートとして一揆主義を肯定できたので、大変ありがたいことではあります。何故この発言がそのような帰結に繋がるのかはさっぱりわかりませんが。
哲学上の価値や意味は知りませんが、個人的にはこのエピソードは想像力に関する重要な提起として未だに思い出しては考える縁になっており、もはや名前はおろか顔すら覚えていない件の発言者の方には、まるでご本人と関係ない形でとはいえ、非常な感謝をしております。そして、ワタクシ様の記憶においてその方の有効な表象として残っているのがTシャツの上から見た胸の大きさのみという遺憾な事実は、真摯な自己批判を要求しているように思えてなりませんが、それはまた別の話です。