まあ、年も明けて新たな気持ちということらしいからいつもどおりのことを。


最近はどうにも寒くて仕方が無いので、考えるのすら面倒で出来れば布団から出たくないという感じですが、毎年晩秋から初春あたりまでの季節の方が好きなので割りに我慢は出来ます。暑いとやる気が出ませんが寒いと身が引き締まります。要するに硬直します。つまり家から出たくありません。そんな無限後退


ええとね、あれだよ。近頃、めっきり物事を分けて考えられなくなってきて、どんどん分散するか、集中するかで並列とか並置する概念図が描けない。ので、自由と平等のいずれか一方とかいう話もさっぱり理解できなくなりました。だって、平等じゃないということは要するに誰かが不自由だということではないですか。で、誰かが不自由であるということは、その社会が国家制とともにその不自由を肯定しているからでしょう。ということは、不自由であるのは特定の誰かであっても、似たような誰かでしかなくて、原理的に言えば住民はひとしくその危険にさらされる可能性が残されているわけですよね*1


でも、この不自由は正当なものとみなされるから、意味や価値という次元においても事実と同じように不平等があると。で、この不平等を管理維持して恒常性を持たせるのが当該社会の権威であり、実態的には権力関係の再生産でありましょう、と。これの現実的な利益は、不自由に晒される人間を限定して排除することで社会の構造それ自体を感覚的与件として把握しないでも済むことだろうし、また蓋然性という点で最も抑圧に晒される階層を固定化していく傾向を持つから、逆に言うと現に救われた人間は溺れない、という奇妙な信仰を人々にもたらすという点に絞られる、と思う。言うまでも無く、安全の話であり、治安の話であり、密接に結びついた強固な同一性のイデオロギーがそこにかかっている。このイデオロギーは人の自由を国家の温情や容認という形でしか表現しないし、住民はそれをよく知っている。結果として、権威に対する一方的な怯えと依存がかわるがわる姿を現す。


だからむしろ、相手の論理に従って、けれども逆に作用させることで、当該権威にとどまることの実質的な損害を事実において恒常的なものとしてやる方が余程マシなのではないかとか思わないでもない。何言ったって、開き直れるうちはいくらでも減らず口をたたくだろうし、かといって少しでも実人生や実存が通常性から逸脱してしまうなら途端に幼稚園児みたいな感情だけを前面に押しだしはじめるわけだから、そんなことならいっそ、ね。とか思ったりするよね!


まあ、そういう話はおいとくとして、tzetzeさんが言ってるように、天皇制を容認して議論を進められると考えてる人間は立派な天皇制支持者だよね。だって、いつだってそうだけど、自分たちの自明性を他人たちに対して合理化せずに押し切るのってのは本人がどう思っていようとも、その制度なり事実なりによって支えられるところの現在を他人に押し付けるってことでしょ。え?せんごみんしゅしゅぎ?なにそれ。笑わせんな、ボケ。そもそも戊辰戦争を内戦だと考えない人たちがたくさんいる社会のどこが民主制だ。あの時起こったのは、攘夷だか尊皇だか知らないけど、そういう価値に基づいた選択と決定を、つまりある人間たちの恣意としての神話を制度の根底に据えて、歴史を、あるいはその意味を他人たちに強制したということであって、事実それ自体でもなければ、客観的真理でもない。そうなったのは単に彼等が権力闘争に勝利したからであって、必然性はこの勝利によって可能となった。単にそれだけじゃないか。そもそも1945年に切断なんかあったのかね。君ら、相変わらず連中の夢を受け継いでうわごとのように自明な同一性を維持してるじゃないか。テラ一本線を描いて平然としていられるのも、それを当たり前のように感じられるのも、結局何一つ変わってないからだろ。ネジレとか抜かしてるのは、単に君らの覚えた他人の理屈と君らの感覚が食い違うからで、それは単に君らが自分で思い描いた人間ではないってだけじゃないか。天皇制は変わったって?それで?そのあとは?君らは何も手をつけなかったよね。自分たちで何一つ変えず、主人を戴いたままで他人にもそれを強制したわけだ。で、それをさも良いものであるかのように、現在の暮らしや生を可能にする根源だとまで言い始めるわけだ。これはなんだい?え?現在の生のまんざらでもない「幸福」を吹聴してまわるのは君らの勝手だかね、君らが好き好んでそれを選んでるからって他人までそれに従う必要がどこにあるんだ、間抜け。ああ、「日本人」のアイデンティファイだって?君らのいう「日本人」てな代物はそもそもナショナルアイデンティティーですらないじゃないか。そら、特殊で唯一のものにも思えるだろうさ。何一つまともに合理化せず、何一つ決定せず、その価値において責任を持ち、その意味において他人と対面する危機を回避して、事実において行っていることを誰でもないものに帰属させて、能天気に現実とやらを騙って平然としている連中のどこに「わたしたち」てな主語を使う資格があるのかしら。くだらないよ。


君らの手口はいつも同じだ。他人たちをオミットし、ネグレクトし、スポイルした挙句に、適当に飴玉をばら撒いて、抵抗や疑問を封じ込めて、挙句の果てには羊の自由を云々しはじめる。羊が平和で安全に暮らせるのは羊飼いが先回りして世話してやってるからだとでも言うのかね。で、羊飼いを失えば羊は群れを維持できず、互いに反目しあい、狼に襲われるてな妄想をご大層に語って回る、と。主人の意を汲んで仲間の羊を脅しまわるわけだ。失ったらひどいことになるぞ、てな。天皇制だけが問題じゃないとしても、天皇の名が常に回帰するのはこの構造――貧困の問題でもいいし、移民労働者のそれ、被差別部落や歴史的存在としての「在日」のそれ、あるいは社会的劣位や「弱者」として表象された人間たちへの扱いにおいて端的に現れるが、もっと一般的な意味における人間の自由と平等でも構わない――それが当然であり正当であるという意味における権利や個人を決して認めず、専ら温情として、あるいは恩恵として施してまわって、社会的権力とヒエラルヒーの根底にある自明なものとしての同一性には絶対に手を触れさせないところの、また同時に、現在の状況を容認された「自由」と寛大な「平等」として、いつでも制度の外部に想定された偽の「自然」(労働を生存と結びつけ、生を過酷な淘汰の過程とみなす)をちらつかせては道義的脅迫を行うところの、この構造――でしかない。天皇は言うまでもなくひとつの具体的な権威であり、また「象徴」であり、国家制と官僚制度の結節点であるわけだが、それ以上に、あるいはそれと同時に、問うことすら認めない無自覚な自明性に埋没することを可能にする装置だ。常に社会的なヒエラルヒーを傷つけないように、語られることのない同一性を維持できるように、社会的衝突を回避するとの名目で骨抜きにしてから事実としてのみ認めるこのありようこそが不平等と抑圧を認識させることなく温存する元凶じゃないか。そんなものを容認する連中がどうしてまともな人間であるといえるのかね。「うまくまわってるから問題はない」とか「みんな好きだし、だれもその所為で酷い目にあってない」とか、「廃止しなければいけない特別の理由がみあたらない」とか、そういう一々の発言に現れているこの「秩序」総体の、その維持の結節点であるからこそ、天皇制は廃止されるべきなんだよ。きみらがそう感じて、そういえばいうほどに、天皇制はきみらの露骨なまでの排除と抑圧の原理となる。


それに手をつければ混乱が起こるとか、平和が乱されるとか、そういう予測が成立すること自体、そしてそれを脅しの材料にできるということそれ自体が、つまるところ君らが事実においてそういう人間たちの集まりであって、不正と対決したことが一度たりともなかったということを意味している。君らが後生大事に抱え込んでる自明なものとしての「日本」だの「日本人」だのいう代物が胡散臭くて幼稚であることは言うまでも無いが、それ以前におおよそ考えられないくらい最低でゴミくず以下の価値しか持たないのは、君らが自分の名前を明かすことなく、他人たちの価値やアイデンティファイはいくらでも相対化しておいて、自分たちだけは絶対に相対化しないからだ。


したり顔で「現実」だの「世の中」だのを語らないでくれ。その所為で苦しめられているのも、またそれが瓦解してさらに苦しむのも、赤の他人であって君らじゃない。君らは自分たちの平穏無事な現在を保守するために、君らの意識における平静さを防衛するために、そのためだけに他人の現実における抑圧や不平等や差別を容認しろと言ってるだけだ。そんなもの、どうしたら認められるんだ、馬鹿。君らの平和なんか知ったことかね。偉そうに犠牲とやらを云々しないでくれ。君らは絶対に自分たちが犠牲にならないことを知っているからそうやって平然と犠牲やら必然やらを云々できるんだ。それに対してあたかも苦々しい思いでも抱いているかのような振りをするのはやめてくれ。君らの自慰的な自尊心に付き合う気はないんだ。選んでるのは君たちだが、そのために酷い目にあってるのは君たちじゃない。君らはただ自分の心の平和を維持したいという理由で他人を不自由なままにしておくことを正当化できると思ってるのかもしれないけど、そういうのが現実主義とか言われるなら、それは単に粗雑な力の論理を肯定しているに過ぎないし、そうであれば当然のことながらその「現実主義」の名において他人たちも君らに対処することになる。単にそれだけの話だ。うんざりだよ。

*1:自由と平等てな話になると権力と権威の問題を回避して、あらかじめ全員を無条件に同じものとして扱っておいて、平等は抑圧を必ず要求するから、自由と相反するとか言い出す人がいるわけですが、誰かを支配する自由なんてものは社会的目標としての自由の要件においては成立しないので、おかしな話です。