タンパク質は燃えるけど、観念は燃えないので厄介

madashan2008-12-24




昨日は本当に一年でもまれに見るくらい最低な日だったので、うっかりエントリをアップし忘れました。というか、寝てました。そして、ようやく糞ファシストと糞国家主義の祝日が終わったかと思ったら、今度はなんですか、商業資本主義の祭典かよ。どんなだ。ほんとに最悪だね。大体、俺がなんでファシスト国家主義の親玉の生誕を祝わなきゃならんのかね。まあ、労働はしないけどな。祝日とか言われるとむかっ腹立つよね。つーことで、以下の文章は23日に書いたものですが、まあ一年中変わらないといえば変わらないのでアップしておきます。



本日は一年のうちでも最低な日なので、国家と天皇に関するテーゼを以って終了したいと思います。国家が無ければ天皇だということに如何ほどの値打ちがあるというのか。要するにこの一文に尽きます。国家があって天皇があるのであって、逆ではないという当たり前の話をつい最近まで気がつきませんで、国家に対する敵対と天皇に対する敵対の二つがあると理解しておりました。けれども、この国家が憲法に由来して発生したのだと主張しようとも、起源に関する神話という意味でなら明らかに天皇制の連続によってこそ成り立つ国家制のそれは内戦終結後の1869年か一年前の1868年くらいだろうし、あの国家――途中から大日本帝国と名乗っていた――をこの国家――外国の軍事力による占領下にあっても、同一性の保持に如何なる疑問も憶えることが無かった――とが異なるというのは、感覚的に言って奇妙な感じがするのです。もちろん、近代国家を唯一の国家制だと申し上げるつもりは毛頭ございませんけれども、現在の起源という意味ではやはり明治天皇から始まるのではないかと思います。ネジレを云々されてみても、それは元からネジレではなく単なる必然的な自己矛盾というやつなのではないかという気すらしてきます。45年が如何なる年であったとしても、その意味するところは占領であって革命ではなく、解放ですらありません。しかも、国家制は自らが虜囚となったことは理解しましたし、敗北も経験しましたが、けれども結局死は経験しませんでした。その連続を体現しているのが戦後天皇制だと言ってもよいかもしれませんが、そんな表現よりも単に天皇が国家と共にあるのはこの現体制が以前のそれと連続しているからだと理解するほうが自然だと思います。ネジレは解放が他人たちによって行われたということにかかっているのではなく、自分たちでしなかったということにかかっているのです。けれども、これだって随分奇妙な話です。なぜなら、その首を絞めるはずの自分たちこそが当の体=国家の一部だったのですから。変わったことは敗北と占領であって、トラウマかもしれませんが、人民を彼らは知りえないのであってみれば、我々に対してではなく、占領軍に対してのものでしかない、というのがワタクシ様の理解です。


かつてワタクシ様も近代史において、何でただの一人も玉を殺して首を挿げ替えようくらいのことを言い出さないのか凄く不思議だったのですけれども、よくよく考えてみれば国家の掟としての起源の法には天皇の名が刻まれているわけであってみれば、どう理屈をこねようとも思考と観念の世界においては天皇と国家を分離することができないのも当然といえば当然です。少なくとも、オーソドキシーという意味でいえば、国家が国家自身を否定するようなものです。まあ、今日は年にそう多くはないであろう最悪の日なので、最悪ついでに言わせていただきますと、米軍を解放軍規定する必要は意味合いから考えてもそれほど合理的ではないように思われます。


だって、連中は解放させなかったんだよ。単に王様ではなく政体を破壊して、国家ではなく戦争を終わらせ、彼らが勝利するために来たのであって、解放しに来たわけじゃない。結果としての、事実としての、だって?その結果が何であれ、現在に至るまで彼らの間接統治は終わっていない、という単にそれだけの話であって、彼らの理念や正義が彼らだけではなく君たちにも合理的かつ一般性を備えた真実であると仮定したとしても、一体にその観念が何時どこで事実になったというのかね。変わりはするよ。変わらないなんてものの方が珍しいくらいだ。でも、中身が変わっても自分たちが同じだと思っている以上、<同じもの>であり続けてしまうという平凡な話と同様、意識において決定的な分断と敵対を経験したことの無い、あるいは忘却してしまった存在は結局前と変わらず自分が同じものだと思うだろうし、あるいは手をつないで歩いている赤の他人も区別されない永遠の現在に落ち込んでしまうだろう。そんな整理の仕方なら何でもこの中に入れることができるという声もあるかと思う。それこそ資本制と国家と天皇と米軍と多国籍企業という具合に何でもかんでも突っ込んで分け隔てなく扱う左翼主義、というのは確かにある。けれども、それを現在に至るまで同じ同一の平面に置いたままにしているのは君であり私であるところのこの社会の住人だ。意識的か無意識的かを除けばこれをボイコットし、あるいはあからさまに敵対している人たちはいる。けれども、国家の歴史がその意識において分断されたことがないという見間違えようのない事実の前には未だ脆弱な基盤しか社会において築けていない。彼らはあるいはあからさまによそ者扱いされている人たちかもしれないし、その意識においても他人として存在している人々かもしれない。


<我々>という主語を国家=国民の文脈と一致させることの出来る人間たち自身が、この永遠の現在における平面的な同一性に腰まで浸かっているわけであるし、同じもの、というならこの<我々>自体の国家制も問われざるをえないのが確かだとしても、それ以前の問題としてただの一度も政体を終わらせたことのない人間たちがどうして自分を国家と分けていられるだろうか。右翼の古典的な命題である、国家あっての国民というのはある意味で実に正当な表現なのだ。国家が宣言をして始めて国民が生まれるとの理解は権力が永遠の現在であって、起源を忘却することなくしては正当性を打ち立てることができないという事実の裏返しであって、国家は己自身の歴史しか持たないし、人民の宣言としての国民=国家は発生すると同時に本来性の定義を自分自身に由来させることは権力というものを知っている人間なら誰でも容易に想像がつくし、もっと具体的な意味においても、この<国>であるところのこの社会が記憶する<我ら>の歴史は国家の歴史であって、人民の歴史ですらない。この国家制は終わっていないあの国家制の続きでしかない。45年から52年までの占領統治が、さらに上位の権力構造の中にそれを組み込んだのが事実だとしても、そのことは主権が変わらずあることと共存できる。少なくとも歴史的事実としてはそうだ。本質的に同じだ、とは言ってないよ。それらは互いに食い違う蓋然性を様々な偏差で持った異なるものだ、ということは正しい。けれども植民統治国の知識階級が思考と観念の規則において西洋覇権主義服従しているのと同様の文脈*1で、当該国家の政治権力は宗主国権力の相対的下位構造とならざるをえないという簡単な事実を認めるなら、単純に解放政治のプログラムが如何なるもので、あるいは自由主義であれ社民主義であれ社会主義であれ民主主義であれなんであれ凡そ人間と人間の関係における不平等と抑圧を解決したり調停したりする現実的なプログラムだと言い張る思想がなにものであったとしても、そのいずれかに該当する人間たちは自分たちがそう理解するとおりの人間たちであるなら、この永遠の現在としての国家制と敵対せざるをえないだろうし、それは天皇制との敵対となるだろうし、また幾分かはアメリカからの影響力からの自律性を確保しようとこれまた敵対するだろうことも合理的観点から認められるはずだ。そうしないのはそもそも君たちの信念とやらが単に現在流通している耳障りの良い世間一般の良識的観念の体現でしかないからか、さもなければ単に権威主義者であるかのいずれかだからだ。君たちが左翼――左翼/右翼といった単なる対概念であるよりは遥かに固定的で強いニュアンスの――の代わりとして持ち出すリベラルという代物が昨日の自由主義者たちとどう違うのか、ちっとも分からない。


なるほど、現在の国家制に天皇は本質的な要因とは最早いえないのではないかという憶測は成り立つ。けれども、仮にこの官僚制と政府の統治機構が自律性を確保すべく歴史の中で徐々に分離独立を図ったとしても、なお定義の上ではやはり天皇制と共にしかなかったし、また現在もない。この天皇制は、確かにあの天皇制の初期の頃にあったような天皇となった人間の人格であるとか意志であるとかいった部分に依存しないだろう。とはいえ、それは戦前も国家機能という意味では既にそうだったろうし、戦前の体制がほとんど天皇制と分離できないくらいに一緒くたになっていたことから変化したのは国家ではなく天皇制の方なのであって、いずれにしても国家は相変わらず自らを参照するにあたっては必ず天皇を経由せざるをえない。誰も気にしない、というのは当人が自らの立場を明かさない限りは意味をなさない。誰でもないものとして語られた言説が支配的な価値や権威に由来することでしか成立しないのは当然といえば当然の話であるけれども、そもそも国家と天皇を分離する主張や方向性に対して一般的な意味での抵抗があると予想がつく以上、気にしていないのではなく、それを気に入っているというだけの話なのではないかとの疑いが必然的に生じるのである。ほとんど無意識のうちに国家と天皇が不可分のものとして現れるなら、本来的には<国民>は未だいないということだし、いわんや人民などという表象もまた生まれるはずがない。


テラ一本線を誇る感情がどの国の人間にもあるとしても、それは単に本質的に国家がみずからを表象するにあたっては、テラ一本線としてしかできないというだけの話である。第一、ちょっと考えてみれば幼稚園児でも分かるように、この国家が歴史上<同じもの>であったとの認識は事実ではない。制度として以上に認識においても<日本>などというものは随分最近の話だし、その原像を求めていってもあいまいな期待を抱けるのは精々が江戸末期だろうし、それ以前ともなるとそもそも<我ら>なる同一性の担保をしてくれる集団的表象自体がごく限られた人間たちにとってしか有効でなかったろう。有体にいえば、好き勝手に<われわれ>の歴史と称しているだけで、その歴史時代の人間たちが果たして同一性を支持するかは非常に疑わしい。それにこの国家制はつい50年前にも歴史における同一性の定義を覆したばかりだ。<われら>の歴史というなら、なぜ、国家の歴史において一時的にであれ所有した領土の歴史を描かないのか。そして、国家制がその臣民として定義していた人間たちを表象するための言葉も観念もないのは一体何故なのか。一体、いつから唯ひとつの民族の物語があって、唯一つの国家の歴史があるなどといわれるようになったのだろう。必然性としての、変えることの出来ない過去としての<歴史>に国家制の歴史はないけれども、ただひとつの<われら>の歴史などというものは疑いようも無く国家の歴史であり、本質でもなければ必然でもない。仮に歴史が過去に先駆者を見出していく過程であって、何時でも遡行的であるより他ないとしても、それは自分たちが変わらず常にひとつのものを形成してきたと事実において主張することとは、全く異なる。


結局、天皇制が、天皇家とも、天皇の肉体的人格とも相対的にであれ分離された時から、国家理性のための同一性を担保する役割にシフトせざるをえなくなったのだろうし、その意味するところは、単に国家制が一度も自分の死を認めたことが無いがゆえに永遠の現在を生きており、その現在の同質性を時間軸に沿って引き伸ばしたうえで、ただひとつの歴史があると主張しているに過ぎない、ということだ。要するに我々は相変わらず天皇制の神話を生きているということであって、これを前提として、またこれを許容して、国家を語るものは例え本人がなんと言おうと、何れせよ天皇制の支持者であるに過ぎないし、その限りで如何なる意味でも他の政治思想を選択しているわけではない。そしてまた、国家主義者が何であれ、現下の情勢で国家に抗する者は天皇制とも関係を問わざるを得ない。


天皇も国家も要らない!

*1:近代化と西洋化を合理性の唯一の基準にすえると、近代の終わりが世界の終わりのように思えてくるものです。終わってるのかどうなのかすら知りませんが、どちらにせよ具体的な意味合いで西洋的な価値がみずからの普遍性を事実と歩調を合わせて実現させていく過程としての<世界史>てなものは終わったでしょうし、そもそもそんなものは実に局地的で時限的なものでしかなかったし、その中で合言葉のようにして互いに了解しあっていた意味合いやニュアンスを含む観念が破産したからといって、別に人間の歴史が終わったわけではないので、日常的に人間が他人と話して言葉が通じる/通じないという程度の<意味>なら永遠であるように、解放や自由や平等は恒常的ですし、それ以外に何か大切なものってありましたでしょうかしら?