暴力?

しかし、暴力とは何なのか。抗議の声を遮断し、応答しようとしない警官たちに怒りを爆発することが暴力だろうか。集まった抗議者たちを無理やり解散させるために機動隊を投入することは事実としての暴力ではないというのだろうか。挟撃してくる機動隊の楯の列に向かって投石すること、消火器や自転車による攻撃が抵抗の実力行使として認められないのだとすれば、それは抵抗それ自体を認めていないということになりはしないだろうか。酷きに至っては集団がそこに居ること、道路を占拠し街頭で声を上げることそれ自体を否定しているが、もしそうであれば一体、彼らの言う正当な抗議とは何なのか。暴力に対して抗議の声を上げることは当然のことながら官憲の実力行使に対して、断固たる態度で応答することが含まれていないのだとすれば、どうして我々は正当な抗議だの正当な抵抗だのを考えることができるというのだろうか。


彼らは私有・公共を問わず近隣の施設を襲っているわけでもないし、無原則的に単なる破壊活動を繰り広げているわけでもない。最も過酷で最も深甚な破壊を齎すような、本当の意味での「暴動」を起こしているわけでもない。単に日常的に彼らを抑圧し、文字通り暴力的に叩きのめしてきた連中に対して、当り前の怒りを発しているに過ぎない。


共感を呼ばないし、何も解決はしないという言説はそれが起こる前であれば意味のあることであったかもしれないけれども、いったん出来事が起こってしまった後では無力であるし、そればかりか反動的ですらありうる。もし、本当にこのような対応が解決を遠ざけると考えるのなら、出来事が終わった後で漸く始まる長い弾圧の中で逮捕者たちへの援助と支持をすることで事実に介入し、その上で彼らに問わねばならないだろうし、そうであれば当然にも自分を一つの立場に置かざるをえず、その立場の制限の中で物事を判断し、行動していかなければならないだろう。


http://d.hatena.ne.jp/spiders_nest/20080620


ここに書かれてあることに全く異議はないし、もちろん同意するのだけれども、ところで、言われるほどの暴力など今回の出来事にあっただろうかという疑問も浮かぶ。耐えがたいほどの、容認することもできないし、そうするべきでもないような余りに凄惨な実力行使(数々の政治的テロリズムは分かりやすい一例だ)があの現場にあっただろうか。それを前にして、あらためて正当性を与えるための論理を構築しなければならないほどの、圧倒的な破壊が一欠片でものその片鱗を見せていただろうか。暴力をふるった警官たちに抗議すること、それに対する実力排除に抵抗すること、圧力には自然発生的に直接的な反応を返すこと――――これらの最小限度の抵抗すらも拒否するなら、どうして人は抵抗の権利を云々することができるだろうか。非暴力は非抵抗を意味しないし、純粋な自衛のみを力の行使として認めたとしても、抗議ということそれ自体を否定するのでなければ、状況において両者の曖昧な緊張関係の推移は直接的な力による対峙へと移行し得るということは理解されてしかるべきだし、純粋に客観的で不偏不党な自衛と攻撃の線引きが出来ると思っている人間たちは一体に抗議や集団によるデモンストレーションということを何だと思っているのだろうか。しかも、赦しがたいのは暴力に対する否定的態度をして、既に起こってしまった現場にあてはめようとする姿勢だ。そんなことでは労働者は救われないし、誰の共感も呼ばない――そう言いつつ、そこに滲み出ているのは騒ぎを立てた社会の屑という視線であるし、それに対する感情的な嫌悪である。一体、なぜ抵抗を認めてはいけないのか。お望みならどんな力の行使であっても、けっきょく他人たちに対する暴力としてしか現れ得ないし、暴力はそれ自体で容認されざる悪であって最小限度の力の行使であっても慎重に正当化されなければならないと認めてもいい。けれども、それでは正しい者とは虐げられた者でしかなく、しかも虐げらた者は哀れに頭を垂れ、ひたすら従順に苦しみに耐えるべきだとでもいうのだろうか。純粋な被害者性を現すケチくさい諸々の徴――まったく一方的な立ち場の表象。か弱く、痛ましく、無力で、絶対的な悪による有形無形の暴力に耐えるその有り様の諸々――が備わっていなければ、言いかえれば、現実の生活に含まれるだらしない悪徳が少しでも見え隠れするなら、その時は彼らは支持されないし、されるべきではないし、誰も助けないとでも言うのだろうか。でも、誰が助けてくれと言ったのだろうか。誰が同情してくれなんて頼んだのだろうか。道徳的義務のような憐れみと施しなど、誰も望まなかっただろうし、誰だって他人たちの代行で物事を行うことなど許されはしない。


彼らにはそうする当り前の権利があるし、それが当然であるなら、その行動は支持されなければならない、というだけの話だったはずだ。


教えてほしいのだけれども、一体に警察署の前に集まって抗議活動をすることのどこが拙いというのだろうか。法律違反だと呟く人がいるけれども、法が定めていることそれ事態の可謬性を認めたのはブルジョワ法だし、それに抵抗しなければ法文の変更すらあり得ないということがすっかり忘れ去られている。しかし、問題はそんなことではない。違反は単なる違反だし、それは技術的な問題であっても、正当性に関わる問題の主眼ではありえない。正当性は道徳ではなく、また法文の解釈でもなく、現実の行為の位置で考えられねばならない。イデオロギー上のあれこれを措くとすれば、一体に釜ヶ埼の人間たちが警察署に抗議することに何の問題が見つかるだろうか。そして、抗議に対する弾圧に直接的な応答をすることは、仮にその戦術的稚拙さ故に非難されるとしても、またその「暴力」故に道義的な反感を買うにしても、何一つとして弁解する必要のない当然の人間らしさではないと、何故言えるのだろうか。中立的不偏不党性に従い、天上の美しい諸道徳をアリバイ的に当てはめ、双方を共に否定的価値付けの中に置いたとしても、現実には正統な執行機関として権力を行使しうる警察だけが、その正当な力の行使によって、対峙するあらゆる社会内の人間たちを等しく非対称性の下に置いているという事実は変わらない。現実には一方の非難は他方への加担であるし、ニュアンスや留保はすべてこの一つの切断からしか可能とはならない。両者を等しく非難して見せては、児戯にも等しい手段の正当性に関する御託を並べる人間たちは、自分自身の立場を弁えて、一方への加担を認めねばならないだろう。起こってしまった出来事に対しては態度を決めかねるということはできないし、その態度を持ち込んだまま両者を等しく断罪することなど出来はしない。起きてしまったということは単なる仮定上のあれこれではなく、文字通りにその現場で人間たちが自分たちの意志に従って争っているということに他ならない。その総体としての対立を無視して、あるいはその対立をわき目に、あれやこれやの非本質的な瑕疵を数え上げたところで、結局、最後には誰が敵であり、またその潜在的な敵対性を含めて誰の側に立つべきかが問われるだろう。


自転車は投げられるべきではないかもしれない。仕事や生活に使う人々がいるのだから。消火器は投げるべきではないかもしれない。もっと使うべき時があるかもしれないし、傷害が重くつくかもしれない。機動隊を殴りつけて気絶させたのは、やりすぎかどうかは知らないけれども、復讐心を呼び起こすかもしれない――色々な留保はつけられる。それぞれに判断には程度というものがあるし、個々人の選好というものは厳としてあり続けるだろう。けれども、我々が現在の中で、同じ時代の人間たちの行動を評価するときには、それが過ぎ去った出来事でもなければ、未だ見通しのきかない潜在的な事実のうちに省みられる出来事でもなく、起こりつつある出来事として把握しなければならないし、そうであれば当然判断はその対立や敵対、不和や抗争の諸々を引き受けなければならないだろう。階級闘争を忘れた政治などというものは存在しない。誰も他人を代弁してその行為の内実を語ることなど出来ない。ただ、そこで戦われた抵抗を認めるか否かという問いだけが肝要であり、それへの反応に従って、以降はこの出来事の方が自分の周辺に敵対的な関係を織り上げていくのだ。


起こった出来事に量的な評価基準を導入するにしたところで、結論は出さねばならない。出来事を肯定するか否定するか、ということは何時でも我々が事実について判断するときに、無意識にしている操作である。我々はどこにも立たないなどということはできないし、傲慢にも何処にでも立てると考えていても選びうるのは一つだけであるし、自分が正当ならざる欲望と選好と偏見に基づいていると自覚しようがいまいが行動するときには選ばねばならず、アリバイ作りがむなしいのと同様に開き直りは何も意味しない。


だからこそ聞きたいのだけれども、一体、我慢ならないほどの「暴力」とやらが今回の出来事の何処に見出されるのだろうか。留保を付けたり、正当性を欺瞞的に操るブルジョワリベラルの欺瞞を云々する以前の話ではないだろうか。そんなに残忍で到底容認し得ないほどのむき出しの物理的破壊が、今回の出来事の何処にあっただろうか。


なぜ、彼らは怒ってはいけないのだろうか。