遠さと近さについての二つのアプローチ

遠い人間とは何であるか。

想像において遠い他人たちはそれなりの配慮がなされるし、特定の色合いによって認知の枠組みに仕込まれた防衛反応が引き起こされないのなら、遠い他人たちは最も純粋な人間たちとして現れることも可能になる。


問題は自分と異なり――それはどんな外的な論理や理屈よりも早く判断される――、かつ自分の隣人であるような他人たちである。この場合、我々は隣人であるがゆえに彼らをよく知っており、それだけ存在の直接性を感知することができず、むしろ不透明で分厚い様々な媒介によって表象されたあの不愉快で薄気味の悪い人間たちという印象が正当なものとして立ち現れる。


近い人間の傲慢さや卑屈さ、残忍さや道理の無さといった諸々の否定的傾向は、抽象的で普遍的な人間一般から推し量られた行為の正しさに関する審級によって断罪されるが、誰もこのこと自体を否定することはできないし、それが意図的に思考されるよりも前に感じ取られるものであるために我々はどれほどまでに彼らに同情的になろうとしても躊躇いを覚えざるえなくなる。


けれども、本当の問題とはこの同情であり、人間的なものとしての憐れみとそれが要求する虐げられた人間たちという表象にこそある。弱く哀れな人間たちの正当な姿というものが耐え忍ぶものであり、品行方正とは言わないまでも市民道徳にとって耐えうるような圧倒的な非対称性の視覚的表象が存在しないときには、暴力の発動に対して、これら臆病で優しい心は嫌悪と反発を覚える。


誰も商店の焼き打ちを奨励しはしないし、工場や施設の破壊を積極的に肯定することはできないだろう。後者は簒奪された生産を奪い返すその時には我々のものとして使用される必要があるのだし、前者は協働という意味における生活の組織化にあたっては維持されるべきインフラである。とはいえ、このことは我々が生産を奪い返し、自分たちの生活を十分に自治しうるのなら、という前提があるわけだし、現状における抑圧的で非対称的な関係を再生産している空間に対して抵抗を試みるなら、それは如何なる留保をしたとしても、破壊的であらざるをえなくなる。


そして、暴力は何時でも純粋で目的合理性にのみ限定される正当な力の行使ではありえない。暴力は当然にも人間たちの自堕落な欲求や卑劣で浅ましい反応を引き出すし、本来的に抑圧を妥当と看做す人間たちであればあるほどに暴力への加担には無原則さが目立つことになる。暴力の現場にあって、良いものと悪いものの線引きを予めすることはできないし、原則の厳密な適用を測れば民衆の自然発生的な蜂起は否定的にしか評価されなくなってしまう。もし、正しい原則と正しい目的に対する合理性てなものを要求し始めるのなら、その時は暴力を組織化する必要に迫られてしまうだろうし、組織的な暴力が目指し得るのは純粋な手段としての自己規律であってみれば、そのような装置を訓練し維持することは組織化された労働者たちの集団を前提にすることになるし、そのような集団が未組織の群衆に対して自警団的抑圧を課すことになるだろう。


同情が怪しげで胡散臭いのは、それが必ず無抵抗の哀れな被虐待者――純粋な被害者を求める心情に結びついてしか現れないことである。遠くの人間たち――社会の外部にあって自分たちの生活から切り離されているだけでなく、想像においてすら自分たちの世界の向こう側にいて常に対象にしかならないような人間たち――に対してであれば、我々は様々な瑕疵を認めたうえでも支持を見出し、同情を適用可能にする。


けれども、端的に生活空間にあって日常的な<我々>という主体からは排除されているけれども、想像的な他者としては一定の距離を以てなおも近い人間たちであるところの隣人たちに関しては、それが近いが故に正当な<人間>としての基準に照らして判断されてしまうし、我々はほとんど無意識的にこの種の操作をなす。


結局、我々はフィクショナルな出来事としてなら集団的な蜂起や抵抗の数々を称揚し、なんとなく肯定してみることもできるし、そこに感情移入をしても自分自身に怯えることもなければ、躊躇いを抱くこともないけれども、これが現実的な出来事として認知されるや否や、我々としてはその具体的な破壊的影響の数々を前にして躊躇してしまい、すぐさま正統性と権力の合法性に靡き始める。


抵抗している人間たちが我々の共感など求めていないことは確かだし、我々の道徳的判断に至っては尚更だろう。問われているのは怒りであって、同情ではない。この出来事それ自体が内包する怒りが我々に立場を求めているのだ。苛烈で容赦ない怒りとしての破壊的な抵抗が我々に態度を迫っているのである。


各々は各々の選好に従い、かつまたそれに理性的反応としての装いをつけたして合理化すればよいのであって、敵対や破壊的な対立、それに伴う諸々の損害を否定することなく、そしてまたそれらに対する様々な段階の留保のニュアンスを維持したまま、けれども、肝心の敵対に関してはあたかも中庸と客観性が確保できるかのように第三者的な立場であれこれ評価することが出来るという態度の裏には、事実の中で行動を決断せざるをえない最小限度の現実的な行為の水準を当該の事例に対しては適用したくないという欲望が隠されている。様々な留保やニュアンスを可能にし、それが成立しうると考えるためには、ある絶対的な敵対の線を前にして予め立場を選択することが必要であり、以降はその線に従って、敵と可能性としての味方が割り振られていくことになる。ある出来事を判断するためには味方を探す必要はなく、単に敵が誰であるかを知るだけで十分である。