我らの内なるスハレフカ
レーニンの言っていた『プチブル的心性』――革命への最大の障害。単なる蜂起や武装闘争で方がつくなら革命は単純な技術的問題に回収される。戦争は敵を倒すことを共通の課題として様々な形式が考えられるけれども、これを純粋に軍事的な領域に留めることは少なくとも実際的な問題として戦争が現れるなら出来ない。革命は、しかしながら、さらにいってそもそも敵の姿すらあいまいであり、いったん始められた革命は殆ど見通しが立たないどころか、自分たちの一つ一つの振る舞いが直接的に他人たちに影響を与え、また他人たちとの関係においては自分たちが望むことを外部に反映させることも難しく、だからこそ、また是が非でも自分たちの展望を強制しなければならじ、わけても他人たちとの同盟と敵対のやりきれない争いを通して、そこに己の展望を暴力的に適用しなければならないのであり、つまり革命においてこそ我々が根源的に政治的存在であるという事実が立ち現れるのである。魔法にかけられた世界では誰が正しいかではなく、誰が最もよく未来を見通すかが全てであり、そのような意味で政治は人民の最も嫌うものであるのに革命はこれを必然的にもたらすのである。
こうして、革命の初期の高揚感と情熱が冷めていき、物事に暫時テルミドールを期待する時期に差し掛かると独裁権力と民衆の反動的な後退が相互に立ち現れる。攻撃と建設を同時に進行せねばならず、権力の基盤は銃口と扇動の双方にかかっているのだから、いずれにせよ民衆は倦み疲れてしまい、いつものように所有を基礎とする個人的な人生の中に戻っていってしまう。
プチブル的心性とは、結局のところ、ある社会の状態においてかなり広範かつ普遍的に見られる意識の有り様のことであり、それは堕落した道徳的態度である。否定的に人間を規定し、欲望や悪を世界に認め、外的には抑圧を求め、曖昧な道徳感情と利己主義の内的ジレンマを保持したままで生活することを望む姿勢である。ニヒリズムはプチブルの陥りやすい現実への間抜けな適応例のひとつであるが、これが単なる現在への追認に終わらず、その本来的な破壊的な力を発揮するのなら、それは極めて危険でありながら十分に有用なものである。すくなくとも革命が始まるその瞬間までは。プチブル急進主義は破壊的であり、転覆への一助になることはあっても建設は不可能である。というのも、彼らは建設を口にしたとたんに極めて反動的で抑圧的な機構を望むからである。他人を信用できないのは自分自身を信頼していないためである。彼らの悲観主義的で冷笑主義的な態度は生活から生まれるのであり、それはつまるところ彼らのみすぼらしい生においてこの現実世界に適応する唯一のやりかたであり、またそこにあっては道徳的審問は制裁への欲望を伴っているものの本質的に小賢しい実利を追求するための脆弱な精神の保険でしかない。自分自身を十全に肯定する代わりに、他人たちに悪を転嫁し己の不善を相対的に低く見積もることで看過し、他人たちと共に在る代わりに、規範と管理を制度化し抑圧を公然と主張することで相対的に独りであることを可能にする(彼らにとって、所有権こそが自由の現実的な代替品である)。まことに惨めでみすぼらしい有り様だ。