党大会マダ―?

参照事項:


http://d.hatena.ne.jp/madashan/20080608/1212949650
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/madashan/20080608/1212949650



1)状況


1.二元論的対立のうち、素朴実在論こそが意識の自然なあり様であるとの認識は証明されることはないが、極めて強力な日常的態度である。その点を鑑みれば、それはすべての行動の問われることのない(したがって、直接的で明示的な関係を結ばないように思われている)前提条件である。


2.唯心論は、他方で、抽象的思考のうちにあっては尤もらしく見える。というのも、意識に内在しては何事であれ客観的実在を証明することはできないからである。そして、<この私>は意識が己自身を対象とするときにしか現れないが、その際に看過されているものは意識の志向性それ自体である。


3.ただし、双方ともに、否定的かつ有限的に定義されるものであるためにいずれにせよ完全性や明証性を備えているわけではないし、他方が一方の証明になるということもない。物の客観的実在が否定されても、即座の意識あるいはコギトーの唯一性が担保されるわけではないし、意識の明証性は対象なしには成立しえない。


4.以上のような認識の枠組みを了解する。


5.このような認識の枠組みを自覚的に、つまり意識的に思考の形式に当てはめる訓練を意識に課す場合、素朴実在論と唯心論はともに誤謬であるが、後者が中途半端な懐疑精神の性急さを示しているとすれば、前者は単純に現在の内に埋没した意識の常態を示していると考えられる。


6.したがって、素朴実在論は端的に「頭が悪い」とみなされうる。


7.が、今、これをある種の意識の強靭さとみなすとしたらどうなるか。また、唯心論こそが意識の意識それ自体に対する問いかけにおける自然な傾向、尤もらしさ、否定しがたい蓋然性を示しているとすればどうか。


8.これらを問いとして受け止めることの前提条件は、一つにはそのような貧しい意識が唯心論的懐疑に蝕まれることを深刻に受け止めることであり、要するにそのような状態を自分自身の意識にあてはめることである。


9.しかしながら、少なくとも私自身にとってみれば、これは凡そ不可能な操作である。というのも、否定的有限性としての客観的実在への懐疑なら多少の持ち合わせもあるけれども、唯心論的で絶対的なコギトーというものを想定しそのような観念を維持することは感覚的にすら殆ど空想的なある種の不可解さを伴うためであり、それはこれまでの人生においてただの一度も真剣なものとして考えられたことがないからであり、それが真実とはいえないということを抽象的に了解していたとしても日常的な生活の態度形成において物の客観性は、凡庸さと無自覚さによって意識にしっかりと根をおろしているためである。


10.したがって、当該の発言者の意図がどこにあったのであれ、7の如き主張は形式的にいって私自身の自明性に依拠する意識の前提を明らかにし、かつ動揺させることに成功したという点で非常に有意義である。というのも、私には当該の発言者の発言内容そのものが理解できないからである。唯心論ははたして自然な傾向として承認可能なものであるのかどうか、素朴実在論を維持できる意識が強いというのはどういう展望の下に置かれた発想なのか、当時も今も私にはよくわからない。



2)アリバイ


11.重要なことは分からないものが現にそこに、しかも己自身を先鋭に主張しているということである。意識に問いかける限り、私は私が何かを知らないということを理解できるだけであって、私が知らないことを知っているのは、しかしながら、また他人たちである。


12.そして、また他人たちとは単なる形式的な抽象性ではなく、私の意識の対象であるときには少なくとも固有の具体性を伴ってしか立ち現れることはない。それらの内容を抽象化し合理化していく過程において捨象される他者の表象の具体性は――決して他者本人の特殊唯一なあり様のことではない――、この場合欠くべからざるものであると思われる。というのも、この<私>の諸々の具体性が単なる特殊性ではなく、交換不可能な形で刻まれた固有の身体の条件として立ち現れるのは、他人たちの一般化された――しかし、また固有の――諸々の具体性に対立する時であるのだから。



3)批判


13.とはいえ、このような認識における陥穽とは、最も貧しく最も純粋な他人たちの特異性((顔であったり、身体であったり、音声であったりする他人たちの一つ一つの固有性を超えた、他人の特殊唯一な有り様――要するに単にそこに<それ>として存在すること))が、一般的な形式(属性)に還元されることであり、そのような操作によって他人をまさにその人として認識することが不可能になるのではないかという点にある*1


14.この点に鑑みるなら、前後の文脈上の対比((この指摘は実に正当なものであって、というのも、件の複数のエントリにおいて意識はまず自分自身を諸々の属性に還元して、次いでそのような属性の組み合わせとしての自己の状態を最も強く想起させた出来事として当該の読書会での発言を想起したのであった。つまり、このような主観的な意識の流れの中に既にして否定しがたい形で、ある偏見が――またそのような偏見を循環的に補完する意識の誤謬がみとめられる。))は極めて悪質な内容を仄めかしていることになる。問題は単なる一般化にあるのではない。単に自分や他人たちをあれこれの一般的な形式(女である、男である、子どもである、大人であるなどなど)に還元して語ることの危険性もさることながら、最も重大な誤謬あるいは偏向は、意識が<この私>という固有性を具体的なものとして提示しようとするその欲望の中にある。特異性への抜きがたい偏見――それ自体は日常的な感覚である――が己自身の抽象性を克服するとして、<この私>の具体的な社会的属性(条件)への還元という(安易で凡庸な!)操作を行うときに、そのような社会的属性をまさに一般化し、本質的なものとみなすのである。イデオロギーとは抽象的で極限的な思考が具体的で一般的なカテゴリーの中に還ってくるときに鮮明に、しかしそれと気づかれることなく、現れるのだ。


15.当該の複数のエントリにおける誤謬は、以上のような思想的偏向によってなされたものであり、これは十分に批判的でないために陥ったものであるとみなすことができる。



4)弁明


16.まあ、とはいうものの、ワタクシ様の実人生における経験において感覚的に――したがって、非常に説得的な形で(この語で予想されるような同意ではなく、むしろ動揺や躓きとして)――ワタクシ様の誤謬や偏見を照らし出してくれたのは、件の発言者の如き普段気にも留めない人ではあるので、そのような人を記述する時にはどうしても属性への還元を行いがちではあります。弁明になってないね。

あれが正しいかこれが間違っているかというような話ではなく、批判的だと自惚れている意識を「知らねえよ、バーカ」という感じの仕方で*2前提からひっくり返す行為は極めて有用かつ有益であるということで、そうした行為が出来る人というのは地の塩と言われるに相応しいのです。少なくともワタクシ様の、私自身にしか関与しないところの、意識の蒙昧さを自覚するという契機にとっては。

id:flurryさん、こんなんでどうですか。まったく見当違いの方向に行ってる気もしないでもないけど。



(追記)でも、社会的一般化への道それ自体を否定する気は毛頭ありません。だって、それやっちゃうと社会的敵対に基づく闘争を排除することになるもの。

*1:しかしながら、他人たちが現実に存在する様態は諸々の一般性の結合としてしか表象されえないのではないかという反問も提起されうるから、ある特定の人間の固有性をどこに求めるのが正当なものであるかということは現時点では私には判然としない。

*2:当人にその意思があるかないかは別として。