私はなぜ偉大か

もう、いい加減長すぎるのでそろそろ締めに入りたいのだけれども、一体どこで落とし所をつければいいのかすらわからない例のエントリの続きです。まるで人生のようだ。というか、死ぬまで続きそうな気もする。


まあ、余り気乗りしないけれども自己批判と総括としてのワタクシ様の転向の履歴を書いてみようと思います。義務とか道徳を根本に据えていると、自分自身の人生の諸々の欲望を許すことができなくなります。正義や人間性は結構ですが、モラーリッシュな禁欲主義を振り回して他人を断罪する当の本人が単なる屑という事実におびえるわけです。


さて、立派に転向ないし修正主義的改良主義へのあからさまな嗜好を露わにした意識にとって、己のだらしなさを合理化する道は極めて明瞭であるように思われました。今こそ公然と待機主義を宣言すればよいのです。オブローモフ主義とか面白可笑しい単語をもちださなくとも、これからは誰に憚ることなく二義的で、非生産的、場合によっては反革命的ですらある諸々の人間の活動あるいは不活動に専念できるのです。どうせ思ってるだけでやりもしないのだから、悩むことなどいっそ止めればいいのに、のびた君は何時でも勉強とテストのことで頭がいっぱいです。革命以外は本来的に非道徳的で非人間的で非本来的であるという、それなんて宗教?みたいな脳内ジェズイット会士であった当時のワタクシ様にとっては、願ってもいないことでした。人間、特にワタクシ様の如く人間が余りに出来過ぎていて毎日の生活すら覚束ない極潰しは、いずれにせよ規範価値だの倫理だの忠誠心だのを言っても実行できません。それは本性に反しているのです。それは本来、遊び相手のいない人間たちのために取っておかれたルサンチマンという名の最後の玩具なのですから、そのような愚かしい戯言はすべて打ち捨てて心の赴くままにしたいことをすればよいのです。何故なら、人間は否定的有限性に囚われた、<生>以外に形式を持たない哀れな存在ですが、主体は意識にとってあらゆることが自由としてしか表現されえない究極的な存在だからです。人の子たるワタクシ様の為すべきことは欲することであり、為すべきところを知らぬ故ではなく為さざることを知らざるが故にこそ、本来の存在の形式たる自由を忘れ、あれらの愚昧なブルジョワジーの植え込んだ貧しい道徳的救済の罠にはまったのです。しかし、今やその鉄鎖は打ち砕かれたのでした。今やその陰険な牙はもがれたのです。奴らの陰謀はまたひとつ打ち砕かれたのです。そういうわけでワタクシ様は自由でした。そういうわけでワタクシ様は人間となったのです。そういうわけでワタクシ様は最早そこいらのアミノ酸化合物の塊なぞよりずっと偉大な石ころと同じ存在になったのです。石ころは本当に偉大です。石ころは大変偉大な同志であり、恩を忘れない大切な相棒であります。石ころは加速度がつくと極めて強力な力を以て対象に当たってくださいます。石ころはどのような状況でも手軽に利用できるというその遍在性ゆえに情報社会の象徴でもあります。そしてなにより感謝してやまないのは、石ころでは重武装に該当しないところであります。石ころは正に人民のための恵みなのです。



――あー、何の話してたんだっけ。俺、最近痴ほう症なんじゃないかと思うくらい記憶力ないんだよね。なにかしら、これ。こわーい。自分の頭が。まあ、それで石ころつーとさ、あれでしょう。サルトル。理由は大昔に読んだ漫画にそんな話があったから。委細は忘れた。とにかく、石ころといえばサルトルなんだよ。でも、どっちかつうとスピノザのような気もするな。自由落下してないけど。あ、そうそう、弧を描いて飛ばすのもいいけど近接戦では正面から投げた方がいいよ…石ころの話はやめましょう。ヒューマニズムについて語らなければなりません。主体の自由とか主権とか市民権とか、そういう話をする人たちといえばブルジョワ自由主義者たちです。彼らの寝言を聞いて今こそ国家理性のなんたるかを理解し、統治機関をコントロールする市民政治を学ばねばならないのです。転向者はファシストか極右になる気でもない限り、穏健中道保守の道を歩まねばならないのです。次善の策だけが人生の解法なのです。


自由主義者どもの戯言によると人間というものは世界の主人であり、単一の個人として世界に対峙する存在ですが、同時に単なる肉の塊であり、他の肉塊と争い合う運命にあります。自由は事実において証明される必要があるので暴力は絶えず、生存は平和なしには考えられないので、理性の声を聞く者は人間の共同の生活を保全する統治について考えねばなりません。つまり、共に良く在るという語源的な意味での政治が問題となるのであり、ブルジョワジーの慰み物である共和主義にとっては、社会と権力の維持なしには固有の政治的な空間というものはあり得ません。国家が必要なのであり、諸々の社会集団の解体と同一性に基づく単一の一般意思への糾合が要求されているのです。市民とはそのような単一の全体を分有する者たちのことを言うのであり、市民権とは単なる一つの権利ではなく、権利それ自体であり、それは同時に義務であります。人間の自由と平等はその根底に据えられた普遍的な理念であり、如何なる経済的領域も如何なる文化的領域も政治的領域それ自体とは区別されねばなりません。法とはまさしく権利のことであり、権利は予めそれを持つものにしか開かれていません。少なくとも理念的には。権利を持たぬ者はそれが法によって明記された時からしか、したがって遡及的にしか政治的な権利主体とは看做されないのです。社会的敵対はなるほど政治の原泉であり、各々の社会的な立ち位置に基づく対立を調停することこそ内政の基本ではありますが、社会内に絶対的な敵対――相手をせん滅しようとすることを目的とするような――をもたらしてはいけませんし、その他何であれ起源としての絶対性は共同体に譲らねばならないのです。人間には政治以外にも重要なことが沢山あるらしいので、人間的な活動や生――要するに実存を政治の分野に持ち込むことは許されないのです。人間にとって、観念として把握される<理念>は推論的理性が到達した真実の近似値であり、それは即ち普遍的精神が世界と一致することによって客観的存在となることなのです。普遍的精神は歴史を終わらせるのでした。「目的」をギリシア語でテロスといいますが、それは同時に<終局>を意味します。現勢化したものは終わったものなのです。


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さて、人間の目的と言えば革命以外には考えられないわけですが、革命を志す急進的な政治分子はすべて一度は現実の革命における無節操さと混乱を前にして躊躇います。反革命の萌芽です。大変危険です。断じて許してはいけません。革命は基本的に暴力的ですし、民衆の革命的情熱とは物理的な意味での総破壊と共有という名の収奪です。それはそうです。暴力抜きの革命なんてものは考えられませんし、それはあのスターリニストのボル芸人のジジェクたんの言うとおりです。


昔はこうした革命の暴力性を前にして不安に駆られ、また抑圧と規律を主張する革命家たちを見ては気分を悪くするという自己矛盾に陥っていたわけですが、最近は両方とも肯定的に見えるようになれました。つまり、成長したのであり、ビルドゥングスロマン的な大団円を迎えたわけでありますが、それは専ら自分の欲望を赦すということであり、他人たちの善良さを前提にすることであります。有り体にいえば適当にも程があるいい加減さを獲得したということであり、小学生のガキが爆竹を他人の家に投げ込んだり自分の部屋に灯油をまいたりする時の「だって、したいんだもーん。ぷーん」という誠に遺憾な態度を認めるということであり、つまりはワタクシ様は真の竹田さんになったのです。


ところで、竹田さんは革命的であるわけですが、それに倣うワタクシ様もまた革命的であり、革命が真理であるということはワタクシ様はその反映であり客観的実在であるということになります。非常に論理的に破綻している気がしてなりませんが、それは既にブルジョワ的誤謬を犯しているのです。きっとそうです。


大人というのは竹田さんを階級闘争に据える人のことをいうのです。ワタクシ様は年齢的に大人なのでこれを義務として断固たる実行に移さねばなりません。大人というのは節度を知り、抑制を知り、和解と調停を知り、かつまた闘争を貫徹する意志をもって生きることを知る人です。しかしながら、そんなものは竹田さんの知ったことではありません。ワタクシ様は先ず第一に政治的であることを人生の基本姿勢とみなしているので、階級的敵対を根底に置かない人間の世界には縁がありません。したがって、ワタクシ様は竹田さんを十全なものとすることができるのです。


そして、ワタクシ様はブルジョワ哲学に長いことを時間を割いてきましたがまるで哲学的素養がないので、あれらのオモシロ電波を理解することが出来ないのでありますけれども、主体であるとか主観であるとかいう概念の志向性というのはプチブル的な生活態度を無自覚にその基底部に持つ本質的に保守的で反動的な欺瞞であると考えてよろしいのでしょうか。けれども、集合をして複合的な全体とみなし、また唯一の真正な行為の主として仮想的な人間を予め措定する全ての人間の思考活動にとって、前述のような主体であるとか主観であるとかいった概念なしは欠かせないものです。


私という主語の意味するところは<この私>であり、普遍的な精神であり、真の主体である。したがって、また現実を世界たらしむる力点であり、真理を可能にする場であり、事実の中で結実する現実をあらしむるところの実体である。つまり、それは真実そのものである――と、そういうことになります。


従って、今やワタクシ様は唯一の実体であり、普遍的実在であり、時間であり空間であります。この世界はワタクシ様から流出したあれやこれやのサブスタンスに過ぎず、ワタクシ様だけが物の奥深くにまで浸透する絶対者そのものなわけでございますけれども、一方でワタクシ様は純粋な意識ではなく先ずもって身体を伴う受肉した存在でありますので、つまりワタクシ様はまさに人の子なのです。この二つの矛盾の止揚こそがワタクシ様それ自体なのです。つまり、ワタクシ様はイエスであり釈迦でありツァラトゥストラであり、ついでにコジマ・ワーグナーの旦那なのであります。世界の要であるワタクシ様は歴史を超越した無限の反復であります。稲妻の閃きを以て今この時を永劫に繰り返す人を超えた何者かであります。


ワタクシ様はあまりに人間的な、つまりは革命的な存在として自由そのものであります。馬鹿の一つ覚えのように革命を口にしてよいのはワタクシ様のみなのです。


<この私>は本来的に自由です。したがってその欲するところは即真実であるとの公式が成り立ちます。何故かは知りませんが。


真実は善いものです。尊く美しいものです。真実とは私の望みであり、欲するところのものであります。イデーたるワタクシ様の欲するところはすべて是としなければならないのです。もはや義務から解放され、罪から遠く離れたワタクシ様は何をしてもいいのですから、たった一つのことしかしなくてよいのです。最早、他人たちのためにすることなく己自身のために成すことができるのですから、ワタクシ様本来の望みを叶えてよいのです。生まれてからこれまでのそれなりに長かった歳月は、確かな望みをワタクシ様に教えてくださいました。そういうわけで、今こそワタクシ様は革命以外のことを捨て去る時がきたのでした。むしろ、それ以外はしなくてよいと合理化できたので、革命だけがワタクシ様の喜びとなったのでした。これからは他人たちの幸福とか言うオモシロい言葉に惑わされることなく、また他人たちの悲しみという下衆の寝言に構うことなく、誰にはばかることなく総破壊の理念に忠実であることができるのです。ブルジョワジーや権力者たちも人間であるなどという宗教臭い与太話を信じるふりをしなくてよいのです。これからは他人たちに働きかけ、他人たちをおびき寄せ、他人たちの感情を促すような真似をしなくてよいのです。欺瞞は全て消え去ったのです。これからは、「を」でも「に」でもなくただ「と」だけがあり、他人たちとともに、騒乱をもたらすことが出来るのです。私が望む限りで私は一人の参加者であり、そうである限りで本来的な階級的欺瞞を乗り越えて、暴動が起こせるのです。客観的状況――好機を待ち続けるような小賢しい陰謀家の真似ごとをせずとも、今ここの蜂起がかけがえのない重要性を以てその意味を明らかにするのです。何故なら蜂起の経験は人民の歴史だからです。そして、人民とは非本来的な参加によってのみ成立する集団であり、単なる一人の行為主体である限りで人はその階級性から解放されるのです。このような連帯と団結に基づく社会闘争だけが革命的な人民を作り上げるのです。運命的な瞬間としての革命など単なるクーデターか下らない党派間の茶番劇に過ぎません。人民が人民のみによって立つ自信と力量は闘争と蜂起の経験によって培われるのです。もっと言えば日常的な闘争の延長線上に蜂起の経験があり、非日常的な解放の時間を実践の中で積み上げていくことこそが革命の要なのです。人間の社会的関係の転覆と階級的敵対の先鋭化はそのような出来事を通じてしか把握され得ないのです。つまり、大切なことはただひとつ、暴動です。


ブルジョワ哲学も偶には良いことをするという、極めて宥和精神に富んだお話でした。