労働者評議会と社会革命のために

madashan2008-06-02




あのラストシーンが非現実的なのは、政治的アナキズムの非現実性をそのまま反映している。あれは物語の中でだけ実現可能なアナキズムだ。作品としては、あれはあれでいい。リアリズムで読み解くべきシーンではない。

http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20080527#p2

「政治的アナキズムの非現実性」!こんな発言程度で噛みつくのもどうかと自分でも思うけれども*1、ちょっとむかっ腹が立ったのとその辺を説明したテキストってあんまり見かけたことないなと思って、自分でも調べるつもりでこのエントリを書きます。もしくは、ました。




さて、アナキズムを純粋道徳ないし美学上の審級に置いて政治経済思想ないし社会思想としてのアナキズムを捨象する人というのも少なからず居ます。というより、存外多いかもしれません。この立場の楽ちんなところは内面=意識の自由にあっては幾らでもラディカルになれる点です。あんまり話題に上ることがありませんが、アルゼンチンの作家ボルヘスは政治的には一貫した保守主義者で反共主義者です。彼が、しかしながら、理想とした世界*2とは国家が消滅しているか、夜警国家の極限的に縮小された国家にあって、個人が芸術と人生或いは死を観照する、そのような静観主義的寂滅主義的*3な、ある種のユートピアでした。これもアナキズムと言えます。しかしながら、恐らく彼は芸術上の審級としてのアナキズムは嫌いだったように思います。少なくとも古典や古代詩を好み散文より韻文に惹かれるような人物にとって、美学上のアナキズムはあまりに浅薄で性急な代物として映ったでしょうし、実際、彼はドイツ表現主義シュルレアリスムを除いては20世紀前半のアヴァンギャルド芸術に興味を持っていないように思われます。ここにあるのはある種のユートピア思想としてのアナキズムの一形態です。


道徳的な、あるいは他人たちと共に良く在ることに関する理想論としての――つまりは理想的な政治体についての論理としての、アナキズムは実際における保守主義的反社会主義的な右翼の立場をしても選択可能なのです。あるいは極右であっても、なお、アナキズムは可能なのです。アメリカの極右民兵たち、あるいは1920年代ドイツのフライコールの一部、すべての民族主義的連邦主義者たちの過激派――これらの中には明瞭に自治主義的であり個人主義的であるような立場を採っている者たちもあります。彼らはアナキストではありませんか?はい、ワタクシ様はそのように答えます。彼らのいずれもアナキストではないし、アナキズムを理解していないと考えます。けれども、広義のアナキズム――明確な綱領としての、あるいは政治教理としての狭義のアナキズムではない、親和的な要素によって多重に規定される至極広く曖昧な領野におけるアナキズムとしては、それらもやはりアナキズムなのです。もちろん、政治構想上のすべての自治主義者と連邦主義者はアナキズムに親和的な立場にあります。もしくはアナキズムの幾らかの観念に対して一定の親和性と類似性を持っています。


 けれども、国家主義者は成程「政治的」アナキズムではありえませんね(でも、本当に?)。実際上の選択と理想における選択を、それこそボルヘスのように分けて考える人間以外は、みんな実際的な選択に従いますから、大方は国家主義者でありその意味では非アナキストです。けれども、政治的選択肢としてのアナキズム以外にもアナキズムはあり得ます。道徳的な規則としての――絶対的非暴力平和主義者から凡庸な個人主義者に至るまで――アナキズムや美学的な規則としての――作家で言えば前述のボルヘスは勿論のこと、エルンスト・ユンガーなどもそれにあたるでしょうか。或いはセリーヌに代表されるファシスト作家など?そうそう、本邦にあっては天皇主義者も無政府主義を名乗れます。芸術家では結構いらっしゃったじゃないですかね――アナキズムが存在します。これらは個人の生き方や人生訓としての、あるいは生活のルールとしての、あるいは他人たちとの関係の設定としての――要するにライフスタイルとしてのアナキズムとして総括できます。ライフスタイルとしてのアナキズムは様々な段階を持ちますが、いずれにせよ政治的社会的構想のうち、実務にあたる統括管理運営組織として――要するに国家権力に関する選択肢としてのアナキズム以外であれば、何にでも結びつくことができます。ことほど左様にアナキズムはいい加減でザルのような思想です。アナキストは最も「自称」とかレッテルが貼られることの多いジャンルですが、逆に言えば誰でもアナキストを名乗ることができるということです。
 

 政治経済の、あるいは現実的な権力装置としてのアナキズムが人気がないのは一見すると明らかです。彼らは自治主義――それも極度の自治主義を唱え、個人の自由と平等を絶対的な形で、いかなる制限もなく、即時に開始するよう要求します。国家の権力どころか、事実としての権威、それに伴う社会的ヒエラルヒーすべてに反対します。どう考えてもうまくいきそうにはありません。大体にしてからが、社会的人間関係のうちの何処から何処までを権力と認めるのでしょうか?権威を否定したら如何なる指導も教育も不可能なのではないでしょうか?警察力と軍事力を否定してしまっては誰が犯罪行為を抑圧し取締り処罰するのでしょうか?効率的かつ合理的に行動するためには、どれほど小さくとも権威と威嚇が必要なのではないでしょうか?そうそう彼らは法律も嫌っていました。しかし、法がなければ誰が物事の調和や調停を可能にしてくれるのでしょうか?我々は向こう三軒隣の人間の背中のほくろまで知っているような閉鎖的小規模共同体に生きているわけではありません。彼らは、すべての権威主義国家主義者たちの間違いは、人間性の十全な開花を法と銃口による抑圧と強制によって妨げている点にあると言います。すべての権力の桎梏から自由になった人間は己自身の人間性を十二分に成長させることができ、物事は如何なる強制や抑圧もなく万事がうまく進むと言います。凄まじい楽天主義です。そんなことなら人類は戦争も暴力も経験しなかったでしょうし、我々は楽園に住んでいることでしょう。人間は権力が好きで抑圧や暴力を望んでいますし、悪であるよりはるかに凡庸な不善故に人に悪を為し、サディスティックな感情を正当性と合理性として肯定する動物です。他人を出しぬき、他人をねたみ、他人を小馬鹿にするのが大好きな生き物です。どうしたら、人間に権力と抑圧ぬきの集団生活が考えられるでしょうか。

 こうして人は道徳上の、あるいは美学上の審級としてのみアナキズムを認め、精々のところ小賢しい生活上の個人的なモラルとしてアナキスティックに振る舞います。


 それではアナキズムは実現不可能なものでしょうか?私はそんなには非現実的なものだとは思いません。金か権力を握れば十二分にアナーキーな振る舞いが許されるというのは少々凡庸な答えでしょうが、事実として小泉にしろブッシュにしろ実にアナーキーです。まるで無責任な暴言と暴挙をやりたい放題で、いかなる慣習も規則も無視して平然としていました。あれは十分過ぎるくらいアナキズムを体現していたんじゃないでしょうか。もちろん、人間の集団生活としてのアナーキズムの基準から見ればまるで問題にはなりませんけれども、少なくとも一つのアナーキーの有り様ではあったと思いますよ。


 さて、そういう類の話は措くとしても政治的アナキズムは本当に不可能でしょうか?言いかえれば、人間の共同の形式としてのアナキズムはまるで実現性のない戯言でしかないでしょうか?これにも様々な答えが可能です。しかし、確かなことが一つあります。歴史上、アナキズム運動のいずれかが一定期間、特定の領域を支配していたという事例は幾つか挙げることができますし、それも人間の生活が持続的に試される十分な期間当該地域を治めていたような事すらあります。もちろん、これらはすべて敗北しましたし、現状では一時的な権力の空白期間程度にしか見なされていないかもしれません。いい加減、アナキストの馬鹿の一つ覚えみたいにCNTのスペインとマフノーヴィチのウクライナを挙げるのは、正直ちょっと嫌なわけですが、しかし、戦時中の一定期間、当該地域を実効支配するということは言いかえれば政治的な集合性として人間の生活と根本的に矛盾しないことを意味しているわけです。まあ、マフノ運動に関してはどこまで政治的経済的綱領を持っていたのか知りませんが。そして、スペイン革命はワタクシ様の趣味ですのでCNTについてだけ言いますが、少なくとも36年〜39年の3年にわたる内戦期間中、経済的にも政治的にも共和国内のそう狭くない領域を運営していったのは紛れもない事実です。そして、一定の経済的効果をあげていったのも恐らくは証明可能です。何よりそれは、本来的に労働者のみで自治は可能だということの証左でもあります。もちろん、これは内戦下という非常事態での話であり、もちろん、これはイベリア半島スペイン王国の近代史における状況と歴史――わけてもナポレオン帝国へのゲリラ戦以降の百花斉放の政治的対立(代表的な事例でも、共和主義にあっては中央集権主義的カスティーリャ中心主義者たちが諸州の連邦主義的自治主義者に、王党派にあってはカルリスタがブルボン朝に敵対していたことを想起してほしい)に多くを背負っており、もちろん、後発資本主義国で経済発展上きわめて有害な政治的経済的体制が存在していたことからくる特殊性(つまり、20世紀の革命の条件ともいえる圧倒的な農村部と数少ない工業都市からなり、ブルジョワジーの実力は弱く、巨大で非効率的な官僚たちが国王の周りをとりまき、貴族の大土地所有が残っていた)を踏まえねばなりませんし、そしてもちろん、万が一、革命が勝利しフランコにも共産党にも勝利を治めていたとしても、その後の歴史において世界経済(あるいは資本主義経済?)の深刻な試練に出会わねばならないような事態に陥った時――つまり1922年のボリシェヴィキたちが当面しなければならなかったような事態に出会った時には、アナルコ・サンディカリズムは少なくともその社会主義的プログラムを変更し、政治的プログラムにも大幅な書きなおしを迫られたかもしれません。そういうことは幾らでも言えますし、また考えられねばならない事柄でもあります。しかし、即座に政治的アナキズムを不可能だとみなして、都合の良い時にだけ引出しからアナキズムを出してきて悦に浸っている連中を見るとつい腹が立ってきてしまいます。本来腹を立てる筋合いはまるでないのですが。まあ、アナキズムを小馬鹿にしておいて、時々思い出したように「これは一種のアナキズムともいえる」とか「これこれの場合には私はアナキストである」とか言ってる輩を見ると馬鹿アナの一人としては気分がわるいのですよ。お前ら、単なる国家主義者のくせして人様に偉そうにアナキズムとか抜かすな、ボケ。とかね。


 アナルコ・サンディカリズムは事実として、圧倒的なプロレタリアート(農村労働者はもちろん、都市部の膨大なサブプロレタリアートたち、工場労働者たち、それから中小の職人たち)によって支持されていましたし、革命後に労働者たちは経営者たちを追い出して自分たちで経営を始めました。UGTであれCNTであれ、労働者たちの実質的な運営によって経営を立ち行かせた企業はいくらでもあります。もちろん、その反対に業績不振でダメになった企業体もありました。農村部では土地の配分を巡って幾らかのばらつきがあったものの、集産体の経営はまったく不首尾に終わったというわけでもありませんでしたし、CNTやUGTの支持者たちの対立の中で村落評議会が動揺していたのは事実でしたが、とはいっても農村労働者たちは自分自身の手で自分の土地を耕す権利を与えられ、先ず何よりも自分たちで生活の諸条件について討議することができましたし、それが失敗であったわけでもないでしょう。全てが上手く行かなければ全くの失敗であると考えるのは自由ですが、我々の政治的プログラムは何時でも現実の経験の中で鍛え上げられ変成していくものですし、現実の個々の経験は固有の事情に合わせて調整されていかねばならない全体としての課題でしょうし、いかなる政治経済上の思想であれ、そうした固有の試練を経た事例など大してないはずです。自由主義は多くの人が政治上の選択肢として採用していますが、その理念は実現されたことがありますか?一定期間、一程度の実現を見た事例であれば探せばありそうなものですが、いずれもある段階までの上澄みから近似値をとってきて自由主義的原則の実現と評価しているだけでしょう。そして、肝心な話ですが、自由主義がある国家で実現されていると見なしたとして、それだけで自由主義は批判的急進性を全く失い、現実をただ追認するだけの臆病な思想になり果てるのですか?物事が変化し、事態が悪化しなければ、現状について如何なる批判も改革への希望も抱かないような自由主義、というのは想定可能しょうけれども、そのようなものは理念としての自由主義として失効しているのは勿論のこと、現実的な選択肢と称して選択された自由主義にとっても意味をなさないものでしょう。そうであれば、原則としての政治的綱領としてのアナキズムにまったく可能性がないなどとは言えないはずです。

 別段、何を以てご自分の政治的理想とするかは自由ですし、実際的な選択肢として如何なる政治体制を望むのかも個々人の判断の下にあるわけですから、ヤポネシア民共和国の蒙昧なる寡頭階級たるはてな村アタマンの皆様がたにアナキズムを現実的な選択肢として選べなどとは申し上げませんが、まともに考えたこともないのに即座に抽象論といって切り捨てるような真似をしておいて、あとから小出しに認めていくようなみっともないマネは感心致しません。ボルシェヴィキが否定されるとマルクス主義は否定され、マルクス主義が否定されると共産主義社会主義)プログラムが否定されるといったような間抜けな話はないでしょう。少なくとも、それは真面目に考えたことがないと告白しているようなものです。
 

  と、思いましたとさ。あ、ご覧になっているか存じ上げませんがid:NaokiTakahashiさんにおかれましては、別に喧嘩を売りたいわけではないですし、特に記述に問題があったとか考えているわけではないことをご理解いただけますようお願いいたします。そもそも漠然としたアナキズムの観念であれば、個々人がどのような内容をそこに当て嵌めるかは全くの自由であり、それを指して不当だというのは大いに無理があると考えておりますので。気分を害したら文句でも何でも仰っていただいて結構です。

*1:文脈上、大した意味が込められていないのは明白であること、あくまで固有のフィクションに関する感想の中で記述されていることなどから。

*2:ボルヘスにとっては、社会などという雑多で形而下の物質的な出来事を対象とする概念は赦しがたいのです。

*3:勝手に名付けた。