素朴さの多様な、或いは段階的な現れについてのメモ

1)情動的反応

状況に対する、人間にとっての「自然」な感情の発露が可能であると見なすことで認識可能になる。不快感・怒り・悲しみ・憐憫などの事後的な認定。しかしながら、情動は衝動的なものであり、本来、理由も根拠も必要ないのであって、「自然さ」は事後的にしか認知し得ない。


2)防衛機構

当該の状況を所与のものとみなして、そこに必然性や合理性を見出し、感情を抑圧する。極めて自然に行われるが故に疑問に付すことそれ自体が予め排除される。個人的な経験から得られるものであるが、そもそもそうした経験を可能にするのは所与の歴史的・社会的集団性であり、しかもまたこの集団性は半ば自発的である。こうした自発的かつ自然発生的な集団性は社会的コンフリクトに対する処理方法に関する暗黙の了解から、職場での仕事のやり方やその目的に関する「合意」、果ては仲間内での人間関係の有り様に関する「真っ当さ」に至るまで、極めて広範に見受けられる。共有されるべき(半―強制的な)価値や序列はその正当性の淵源であり、かつ目的であり、またその反映である。


3)反動形成

2)を承認しない人間の1)への回収。その場合、1)は一般的なモラルコードへの逸脱ないし敵対とみなされる。その際に肝要なことは自省すべきは「彼/彼女」であって、「我々」ではないし、ましてや「私」――主語ではないという点にある。ここには対象を「我々」に内包しつつ、排除するという巧妙な詐術が働く。異議の原則的承認はこのコードに準拠することでしか成立しない。


4)価値論的倒錯

1)を合理化し、正当性を与える言説への攻撃として現れる。この敵対を係争とは看做さず、ある種の異常――極めて特殊なものとして認定することで、無反省的な2)を普遍的であるか一般的であるものとする。その際、一定のシニシズムや諦念が補強材料として投入され、価値の序列を構成する。


5)中立性の設定

自分自身を状況から引き離し、思弁的なお喋りを排すことで「現実」に立脚しているとみなす。この認識を以て、自己充足的な立場を可能にする。価値を保持し、かつ消却する二重の戦術が要請される。具体性への言及や程度=量の問題に還元することで、当該の言説がそのニュアンスにおいて明瞭に指示する敵対性の一方への加担を隠蔽し、それによって問題の設定(敵対の線)を歪める。


6)無反省的行動

上記をすべて無自覚に行うことで、結果的に他人たちに対する諸々の要求を自分自身には適用しないという利益が最終的に得られる。



ところで、人間の存在には起原も終末も存在しない。従って、目的は任意に――あるいは恣意的に設定される必要が生じる。しかしながら、この設定は個人的なものに留まる限り決して議論に付すことは出来ず、また事実に於いてはそれと考えられるより遥かに社会的なものであり、権力関係の維持として機能する。

素朴でない反動的な態度とは開き直りであり、係争の遮断である。係争の要件を満たさないために、損害は認められない。不正とはこれである。