貧しさ、あるいは哲学の貧困。

madashan2008-05-30



http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080525/p1


を読んで。そういえばこの手の残酷真理教って、オタクジャンルのフィクションにあってはここ数年来オーソドックスなものであったのかしらん。というか、もう一時期の熱狂はすでに過ぎ去り、ある一つの参照項にまでなったという感じなのかな。まあ、知らんけどな。


しかし、まあ、残酷真理教の何がキモイかと言って、代表的には自分のカタルシスの為だけに残忍さを召喚して、他人=登場人物にそれを代償させる辺りでしょうかね。特にそれが少女の形をとった場合は、もう――なんというか自己欺瞞と自己劇化のお化けみたいで、悪臭プンプンという感じ。直接的で感傷的な情動は毛嫌いするけど、過剰で冷酷無情な悲惨さは大好きという態度は、状況から己自身を召還することで可能となる微温的なまなざしの暴力に根ざしているのかな。そりゃ、セクシスト呼ばわりされてもしょうがないよね。君らの憤懣やるかたない抑圧の苦しみなんて知ったことじゃないよ、勝手に抉らせてればいいじゃない、気持ち悪い。とか言いたくなる。*1


これが、近代の生みだすルサンチマンシニシズム、虚無的な不感症と反動としての破滅願望といった――それ自体がきわめてロマンチックであるような一定の社会的な気分の現れであるというのは、凡庸な帰結であったとしても、恐らく真実なのだろう。ルンプロとかラ・ボエームとかモッブとか言われた20世紀のデカダンスの、今日の極東におけるアクチュアルな形態の一つがこの残酷真理教なのだ、ということは有りそうな話ではある。そうした一連の系譜として思い描くことで、言いかえれば世界史的な流れの中に位置づけることで、固有性と一般性を段階的に論じていくことも可能だろう。


でも、この信徒たちは、キプリングとかコンラッドみたいな作家には興味を抱かないんだろうな。面白いのに。まあ、コンラッドは初期から中期にかけての海洋冒険モノなら、満足を見出せるのかな。後期の政治小説になると、延々卑俗な人が卑俗なまま終わるという醜い世界の話ばっかりになるし。冷酷さや残忍さ、恐怖や憐憫、それに崇高な感情といったヒロイズムに必要な道具立ては愚劣さや卑俗さ、それに怯惰や僻み、そして何より凡庸さにとってかわられてしまう。要するに残酷な悪意に満ちた世界ではなく、臆病で卑劣な醜い世界なのだ。社会のはみ出し者たちへの注目ということではそれほど変わっていないのだけれども、そのような卑しくルサンチマンに囲まれた人間たちを中心に据えてしまった結果、反革命的男根モラリストコンラッドとしては冷笑的で厭味ったらしい語り方しか出来なくなってしまうのである。「西洋人の目の下に」では、ツァーによって祖国を蹂躙された記憶からか、陰謀家たちに対して幾分か同情的ではあるけれども、それでも彼らは基本的にろくでなしであり、臆病者であり、卑劣漢ですらある。コンラッドにとっては、世界は基本的に低劣で愚鈍で卑しいものである。あらゆる卑俗な悪や欲望(による堕落)がその基調であって、ひとり英雄のみが崇高な理念に身を捧げる純粋さをもつけれども、この英雄は最初から罪ある者でしかなく、英雄的自己犠牲はこの贖罪としてしか機能しない。従って、当然にも彼は英雄になり損ねる。そんなわけでコンラッドの世界では、貴族や上流階級にしか人間の徳は現れ得ないし、悪貨は良貨を駆逐しがちである。社会の底辺にいる貧民や被抑圧者たち、それに女性*2に対する彼の視線は、権威主義的な慈父のそれである。無知であることは善良さを意味しうるが、この善良さは本質的に愚鈍である。そして、無知は余程多くの場合に卑劣さや残忍さを生む。彼らは社会のはみ出し者たちで、ルサンチマンと言いようのない憎悪や不満を抱えて生きている。コンラッドにとって善良さは知恵遅れや無知蒙昧な農婦にしか現れ得ない消極的なものであり、したがって常に限界づけられている。哀れなる彼らは、社会的・公的な公正性や正義の観念を理解することができないのだ。有徳は、軍人に代表される「社会の旦那衆」にこそ現れるけれども、多くの場合にこの連中にも堕落は蔓延している。そして、上流階級の女性は押しなべて感受性が鈍く、そのくせ感傷的で、傲慢不遜な愚か者としてしか表象されない。総じてコンラッドの主人公は悲劇の人足り得ない。ラズーモフは明らかにラスコーリニコフに対する揶揄である。


立派に生きて名誉に殉じるという幼稚なヒロイズムの亜種*3である残酷真理教には、まあ、退屈なだけかもしれない。


まあ、ル・カレの鬱陶しくて重っ苦しい語り口とかグリーンの残酷なユーモアが好きな人は、コンラッドとかキプリングとか面白いと思うよ。二人とも、イギリスの「植民地」人=外国人=よそ者で、しかも懐疑的な保守反動という役満スレスレの人たちなので、その辺を踏まえて読むと笑いが止まりません。ていうか、小説は反動家の方が面白いよね。


と、そんな話は措くとして。コンラッドであれキプリングであれ、社会に対する冷笑的で皮肉めいた視線や下層階級(物質的にも精神的にも貧しい、哀れな人々)への侮蔑と憐憫の入り混じった感性、そして何処かで自分自身を状況から引き離してしまう傾向などの特徴は現代にあっても――様々なヴァリアントとして現れるにしても――広範に見受けられるものであり、残酷真理教にもその親和性は見出し得る。残酷真理教はコンラッドの19世紀的な反動のモラルが変化したものなのかもしれないし、仮にその素質が経験の必然的な貧困さや無知に由来していたとしても基本的な共有項の方がなお多いとも思われる。


ところで、彼らの教理が成立するためには、他人の冷笑や無関心を禁止しなければいけない。「で?(笑)」と言われれば終わってしまうのである。そういう人は作品の中にだけ、つまり自分自身の歪んだヒロイズムの発露としてのみ存在を許されている。二ヒルはヒロイックな欲望の不能を代替する。だからこそ、この態度を相手に取らせてはならないのだ。もしも、そのような無礼な態度に相手が出るなら、即座に撃って出て相手を精神的に劣位に置かねばならない。そうすることで彼の態度を無効化し、作品世界と自分自身の認識を守らねければならないのである。



――いやあ、つらい話ですね。ぎゃは☆

*1:とはいえ、より困難で、より無残なのは、これがマッチョな男性性への忌避故の態度であることでもある。そして、これを状況に対する適応の弊害としての一形式と看做すなら、性別に関係なく見受けられるものにも思われる。

*2:基本的に馬鹿扱いされてます。

*3:正確には、そのようなヒロイズムの禁止に対応した反動形成なのかもしれないけれども。