メモランダム

まー、いつもの通り。


●権力と道徳について


道徳とか建前とか規範というのは非常に奇妙なものです。規則の集合であったり、それぞれの有機的結合であったりするような総体というのは決して明らかにはなりませんし、現実において適用される不文律と捉えたところで不条理感はぬぐえません。というのも、まともに守っている人はほとんどいないか、あるいは外的な必然性に出会えば――ようするにエクスキューズが整えば――すぐにでも無視されるような代物でありながら、会話においては価値づけられた基準として提示されるからです。


普通に考えれば、明示的であれ暗黙のものであれ規則というものは適用においてその具体的な現れとなるのと同時に、抽象的で一般化された形式を露呈するものですが、この形式は日常生活においてはどうにも奇妙な位置に置かれたままです。誰もがそれによって他人を責める口実にしますが、誰一人として真面目に考えてはいません。こうした内面と行為の乖離とか規範価値と実際的運用の矛盾というのは近代社会においてはありふれたものであって、あらゆる社会生活の基礎としてのシニシズムと倦怠であると一般的には考えられていますが、他人の違反への直情的な衝動や自分自身の過失への疾しさといった形式的な情動それ自体は真実そうであるように表出されるのです。不可解さはここにあるわけで、自分自身の内的矛盾*1を一致させることなく行動することが我々の社会的身振りの基礎であるとしても、前意識的な情動の方はそうはいきません。というより、この情動には殆ど合理的根拠を見出すことができないのです。動物化シニシズムというのは今や陳腐な主題であるわけですが、そもそもスノビズムの本拠地として世界に喧伝されたヤポネシア帝国においては、およそシニカルな身振りは消極性と受動性の表れでしかなく、先に動物化の代表として持ち上げられた北米帝国の方が自分自身との一致という意味では余程分かりやすいものです。建前を建前として受容し、それと戯れるのがスノビズムだとしても、この社会はただの一度も建前を守ったことなどありません。というのも、建前が守られているかどうかというのは他人たちの目に映った現れとしてしか問えないものであるにも関わらず、一切の他者を排除して、ついでに自己をも抹消して成立させる不思議な世界こそが本邦においてはデフォルトであるからです。こうした世界が現実的にうまく機能するのは勿論極めて「柔軟」――要するになりふり構わない――で、極めて「宥和的」――要するに排除と選別において優れているにすぎない――制度があり、これに順応した人間たちによってマジョリティ―が構成されているからですが、しかし、そうはいっても人間というのは基本的に身勝手で抑圧を厭い易きに流れる生き物であるので、普通は過度の厳正さといったものに拒否反応を示しますし、他人たちが「配慮」していようがいまいが何れにせよなんとかして管理から逃げようとするものなはずです。有り体に言えば、ワタクシ様にはこれほど息苦しい社会を平然と受け入れて、あまつさえ他人にもそれを強制しようとする心性の合理性が理解できないのです。意識においてどう捉えられているかではなく、行動と発言の相関関係において見出される客観的な合理性というのものは相対的なものであるが故に、ほとんど大抵のことがらには見出すことができるはずなのですが、ヤポネシア人民の社会的人格の合理性だけはお手上げです。思考力が衰え、感情的に鈍化した状態――疲弊してたり、イライラが募ってたり――で接すると殆ど反射的にきもい★くらいの感想しか浮かびません。意味が分からないというのが正直なところです。


とはいえ、制度的なカラクリの一端は多少なりとも理解できるようになりました。鍵は職場の同僚や上司、あるいは学校の教師の日常的な対応にあると思います。よくある話ですが、何らかの要求に対して実質的に許容しておきながら、連中は必ずと言っていいほど規範を意識化させようと努力します。よくある「本当はコレコレであるけれども」という前置きがそれです。もしくは、こちらの要求に対しての露骨な不快感の提示や口には出さずに身振りや雰囲気で表すところの反対の表明がそれです。明示的には禁止や制裁があるわけではありませんが、ニュアンスや雰囲気といったものにおいては規範を固持し続けるわけです。なるほど、実質的な利害こそが我々にとっての関心であるのは非常に合理的ですし、抽象的な価値だの理念だので食っていけるわけでもないのですから、そうした「高尚」な代物を蔑ろにしパージすることは理解可能な反応ではあります。ワタクシ様も言葉よりはご飯の方が好きです。でも、良く考えて頂きたいのですけれども、一体にこの実質的な利益は何と引き換えに授かったのでしょうか。利益を確保するために服従したり、順応するのは規範価値を受け入れることとはことなります。背面服従というやつです。でも、皆様方の実際上の振る舞いには背面が欠けています。そして、主観的な利益の追求は本当のところ、自分たちの手で正当化されない限り、その意味を他人たち――つまり、これに認可を与えると同時に非難する規範それ自体――に奪われるのです。正しいとか正しくないとかいった判断が宙づりにされ、<認められること>は許され、与えられ、授けられることと同義になっています。けれども、<認められる>ことは本来、正当なものとして認知されることのはずです。意味や価値の決定権を譲り渡すのは現実的な譲歩でしょうか。実質的な利害の前に、我々は何度でも譲歩せざるをえないのが現実なわけですが、これは本来不当なものとして認知され、しかもそれが保持され、かつ集団的に共有されないのなら、結局のところ何時でも従属的かつ受動的な状態に留め置かれるというのが真実ではないでしょうか。意味や価値を決定する力こそが権力関係であり、権力による譲歩や「配慮」はそれだけでは何ら自由を意味しませんし、それどころか大抵の場合、より洗練された管理の手段でしかありません。互いに慮り、互いに譲歩しあうというのは相互の関係が平等であるならば実に麗しいものでしょうが、実際には何らかの力関係の成立していないところで発揮されるのは稀です。人間関係において水平性を導入することはむしろ混乱を促進させるものとして厭われるわけですが、それが示しているのは昔ながらの御恩と奉公という権力関係に基づく互恵的な社会秩序でしかなく、何時でも何処でも「必然性」としての規範の実質的な強化が当該権力によって担保され続けるわけです。もちろん、集団的にこれに圧力をかけ修正させていくことは可能ですし、事実そうしたやり方というのは当該社会においてもそれ程異端なふるまいというわけではないでしょうが、そうはいってもこの集団それ自体が構成される有り様が既に元の権力関係の単なる模造でしかないというのが実態ではないでしょうか。正当性=権利や自由といったものを「実質的な利害」によって担保できると考えている限り、当該の「実質的な利害」それ自体すらも自分たちのものではないのです。だから、こうした社会においては主体として振る舞うためには規範に同一化するしか道はない、ということになってしまいます。そして、もちろん規範なんてものに同一化できる人間――内面と行動の矛盾を解消できる人間はいません。自分自身そうした曖昧で不定形な集団的な抑圧にうんざりしている割には、他人たちに対して平然と権威主義的かつ権力的に振る舞うことができるのは、ひとえに誰一人としてこの外的で余所余所しい代物と本当の意味で同一化できないし、またそれを自分自身の意志に従属させることもできないからであって、結果として誰も責任を負わず、誰も自由ではないという途轍もなく間抜けな事態が我々の日常生活そのものなのです。権力関係の片方にいる人間はもう片方との非対称性に生きているわけですが、かといってこの<力>は彼・彼女が己の恣意によってどうこうできるわけでもなく、また事実においてはそうであったとしても意識の方は相変わらず不安定で曖昧な規則を参照し続けているので抑圧は絶えず喚起され続けるということになります。けれども、これには特別なオマケが一つだけついてきます。自分の行う振る舞いをすべて外部に投げ出して、徹底的に自分自身を意識することなく行動することができるのです。そして、当該社会においてはこうした集団的制度的な枠組みの隙間を上手に歩むことこそが<自由>と呼ばれる始末です。感情的には真実であるとしても、行動としては決して本物ではないこうした一連の社会的身振りは果たして我々貧乏人の利益に適っているいえるのでしょうか。


●労働と規範もしくは命令


ところで、労働の現場に目を移すなら明示的な規則ないし命令が仕事上の要求と矛盾するという事態は珍しくありません。というより、現場における明示的な規範は、必要とあらば常に蔑ろにされ、反故にされ、骨抜きにされます。実際のところ、ある種の無茶な要求は額面通りに受け取られることなど先ず有りません。朝の五時から来なければ終わらない仕事だとか月の休みが正味二日とない仕事だとか、そうした労働の形態は至る所にあってその現場においては労働基準法の定めた規則を守ることはできません。会社はこの場合、規定通りの時間に出社することを命じるわけですが、もちろん現実的には仕事が終わらないことくらい理解しています。しわ寄せはすべて末端に来ますが、だからといって労働の内実が変わるわけでもなく、終わらなければ自己責任です。仕事の総量に対する労働者の数が圧倒的に足りておらず、一人当たりの労働量が増大し、またそのために人間が辞めていく、といった悪循環の下では現場における創意工夫やなんとか仕事をこなそうとする涙ぐましい努力は大抵、建前上守らなければならない諸々の規則に違反する結果となります。本来、労働者は労働者として結束し、この場合であれば経営側と対峙して自分たちの常識的な労働量の水準を維持しようと努めるのが妥当というものですが、仕事をすることによってだけ共にある人々は労働の仕組みを変えようとする試みには極端に臆病です。そして、この社会は労働を分断し格付けすることで成立しています。笑えない話ですが、こうした分断統治の基礎はインセンティブなどと言えるような代物はまるでなく、むしろゼロからマイナスで計られているに過ぎません。より下の劣位を脅迫の道具としてマシと思えと言われるわけです。そんなものを内面化したところで自分の労働も生活も少しも良くならないわけですが、幼いころからそうしたマイナスの価値づけしか与えられてこなかった我々としてはこれに従う以外の選択肢はともすると恐ろしく非現実的で空想的で、それどころか良心の呵責すら感じる有様です。


従って、労働者たちは自発的に就業時間よりも早く訪れることで規則に違反します。これは表沙汰にならない限り、黙認されます。どっちにしろ経営側にとってみれば滞りなく仕事が回ること以外に期待することなどないのです。組合はどうするって?組合など今や大して力を持っていません。個々の組合が企業内にとどまる限り、いずれにせよ経営側との譲歩や癒着を強いられることは想像に難くありません。組合はこの場合、経営側と同じラインに立っています。現場から遊離してしまい、経営側との関係においては自律的な利害関心を持つとはいえ、巨大な官僚機構に過ぎない組合が末端の労働者の利害関心を反映するのに有用な手段足り得ることは先ずありません。もっとも問題なのは、個々の労働者がそう置かれるように組合もまた外部ではなく、職場なり企業なりの用意した内的空間に位置しているのであって、彼らにはこれを係争化することで利害関心を反映させることなど出来ません。いずれにせよ、表沙汰になることは組合を利する可能性もありますが、ボス交で給与を多少引き上げるとかその程度に過ぎません。そして、そのような雲の上の話で決まる実体的な獲得物は、個々の労働者にとってみれば他人ごとに過ぎません。組合は良くてせいぜいが企業の用意した福利厚生の一つかそれを配備するための特別な部署程度にしか思われませんし、ほとんどの労働者にとってみれば意味も分からず組合費を納めているに過ぎず、彼らの利害を代表して経営側と交渉にあたるための組織だなどとは誰も思っていません。


個々の現場における集団的慣習としてのみ、就労時間に関する規定は破られます。労働基準法が目的とする労働者の権利は労働者自身によって廃棄されるのです。しかも、この場合、労働者の日常的な鬱憤はこの外部からの闖入者たちに向けられるのであって、自分たちをそのような労働時間で拘束させている労働全体とその制度にむけられるわけではありません。法やコンプライアンス、あるいは監督部署たる労基署に対する恨み事はあっても、こうした場合に企業側が非難の矛先になることは珍しいのです。それは労働者たちが経営側と完全に歩を一致させているからではなく、経営側に対する不満は労働の論理を飛び越えては現れないからであり、この不満は明らかに現場における仕事への支障として捉えられない限りは明示されないからです。何が自分たちの仕事であるかを決定する能力は奪われているのです。


この場合、すべてを正当化しているのは単に「仕事を終わらせる」という目的であって、これは経営側と共に、また彼らに対して労働者が持つ大義名分=正当性の基礎なわけですが、だからといって、 絶対的ではなくむしろ当該の現場における集団的な暗黙の了解がどの程度の、そしてまたどういった労働の形態を「常識」的なものと捉えるかによって、その具体的な中身は変わります。結束することが出来ず相互に分断された人間たちだけが労働に従事しているのなら、こうした間主観的に構成されるはずの集団的判断は現実的には経営側の「努力」を要求することもなく、また言葉に出して共有されることもなく、個々の労働者は徒に消耗し、忍耐の限界に挑戦し続けることになりますが、状況と機会が労働者相互の自然発生的な集団性を促すなら経営側との対峙は労働の枠組みに回収されているとはいえ、利害関心を表明するための手段になりうるのもまた事実です。


これは我々の自由でもなければ、勝利でもないし、本来の意味では抵抗ですらありませんが、かといって構造それ自体が異なるかといえばそうでもありません。価値づけられることなく果たされるこうした労働者本人の労働の規範それ自体への抵抗と、会社が建前として守るよう要求する規則への抵抗は、労働の論理を守るがゆえに彼らが自分たちをそれほど逸脱した人間たちと看做すことなく行動し敵対し抵抗し――嘆かわしいことに、これは「働く」ための抵抗なのです――、明示的であれ暗示的であれ幾つかの規範を損なうことを可能たらしめるでしょう。これは行動への臨界点を低くすることに役立つでしょうが、誰にでも分かる通り決定的な弱みを抱えています。事後的にであれ経営側は彼らに懲戒を与え、罰を与え、制裁をあたえることで命令する力――有り体に言えば管理を目的とする秩序と権力を回復させるでしょうし、その時には最早彼らは抵抗の拠り所を失っているのです。


とはいえ、現場における自然発生的で日常的なこの「反抗」の諸相は後にそう捉えられ、またその渦中にあって予期されるように、いつでも労働の論理に従い、結果として資本の命令を強化する以外の能力を持たないというわけでもなく、むしろ、当該の現場における「労働のやり方」は具体的であるが故に、抽象的な規則の集合として理解される本社ないし経営側の業務命令への具体的な反発として機能するのであって、より重要なことにはこれは全くの通常の有り様であるということです。つまり、言語化されるよりも以前に身体に身についた身振りそのものなのです。ついでながら、経営側への外的な締め付けが強化され、彼らが就労時間の厳守とそれへの違反を個々の労働者に対する制裁――解雇を予告する――を定めるのなら、労働者たちの置かれる内的矛盾が限度を超える可能性は十二分にあるのであって、この線を延長させていった先での抵抗はそれほど非現実的ではありませんし、必要なのはこの場合、価値の改変それ自体ではなく行動であって、なんとなれば行動においてこそ情宣活動は効力を持つからです。


この矛盾の激化に狙いを定めることが重要であるのは、その時には最早労働の論理の所在自体があやふやになってしまい、明示的であれ暗示的であれ如何なる規範を最優先すべきかを全体として共有することが出来なくなるからです。仕事を終わらせることは必然的に明示的な規則に違反し、その制裁は又もや個々の労働者本人たちに降りかかることになります。さほど騒がれていない時には、上司が「黙認」という形式の下で従ってきていた現場の規範も、今やそうすることができなくなる瞬間というのが来ます。法はこの時、逆説的に有用性の一端を露わにします。外的であるからこそ否応なしに強制力の発動を可能にする時というのもあるのです。したがって、矛盾を激化させると同時に怒りの矛先を如何に何処に向けるよう仕向けるかこそが致命的な重要性を持つようになります。何れにせよ、幼いころから労働に慣れ親しんでしまっている人々を反抗に向かわせるのは、彼らのためであると説明される諸観念ではなく、また具体的な利益でもなく、単に日常的な業務への支障を端緒として、曖昧な形で他人も自分も受け入れ守っている労働の規範*2に経営側が違反する場合なのです。もっと有り体に言えば、彼らがなにを当然のものとして受け入れているかが大切なのです。たとえ、それが本人の階級的利益から逸脱していようと、あるいは資本の論理を強化させるようなものであろうとも、言語化されず、具体的な価値づけとして現れていない、単なる気分や空気でしかない規範は有用性を持ち得るし、また恐らく最も貧弱な抵抗の拠点であるとはいえ、現実的な武器足り得る数少ない資源なのです。*3


こうしたことはすべて抽象的で非現実的なものと思われるかもしれませんし、この種の日常的な反抗は単なる読み換えに過ぎず、何処まで行っても限界があるが故に最初から抵抗の拠点にはなり得ないと考えられるかもしれません。そして、それはその通りである事の方が遥かに多いのも事実です。さらにいえば、これは労働の形態が集団的であり、常に集団による調整や相互の補い合いが要請される現場にしかあてはまりません。とはいえ、あてはまる現場においてはこの集団的な枠組みに依拠して闘争を再発見していく過程は死活的な問題ですらあります。*4



●日常的な違反と反抗


さて、上で説明したような事例は、しかしながら、在る一点において我々が日常的に出会う禁止や非難や抑圧と決定的に異なります。というのも、当該の事例における違反が黙認される理由は、他人たちに対して申し開きが出来ると主観的に考えられる限りでしかないからです。つまり、我々は仕事をしているのであって、仕事の邪魔をしているのは規則の方だ、というわけです。我々が出会う抑圧の大部分はこれ以外の、あるいはこの論理から逸脱するような「私的」な自由と抵抗に対してです。もっと端的に言えば、怠業やボイコットは我々の日常的身振りであるわけですが、これは未だ消極的であり、また価値づけられることもなく、他人たちがそれを看做すやり方をトレースして我々自身の主観性においてすら否定的に捉えられています。当然、この状況においては客観的判断――上司や同僚はこれを厭うだろうし、非難するかもしれない――は合理性以上に自分自身への自己懲罰的消極性を生みだし、本来得ることのできる正当な要求すらも相手の有利を認めてしまい、むしろ反対に認可を恭しくお願いするような立場に追いやられることも珍しくありません。我々はサボることに負い目を感じたりなどしませんが、他人たちがどう見ているかをよく分かっているがために、正当な要求にも自らの「不正」を考慮にいれてその正当性を減じて交渉に当たらざるを得ないのです。これが全ての間違いの始まりだとしても、我々は幼少の頃からそういう環境の中で生きてきたのであって、有り体に言えば学校教育の本当の意味で社会的重要性はここにしかありません。集団における権力関係の分配とその単なる事実性を正当性とすり替えることを可能たらしめる、より上位の規範はこうして身体化されるのです。些細な日常的要求において、この権力関係を補強するのは例の「黙認」であり、「仕方がない」という態度であり、実質的な利益から正当性を奪うこのやりくちによって我々は自らの言葉を失うのです。*5


なるほど、我々は絶対的窮乏も絶対的命令も絶対的服従も知らずに育ちます。とはいえ、集団的制度的な規範や価値それ自体は抹消されはしないのですから、いずれにせよ我々は連中の目的合理性や規範価値に則って行動していることに変わりはありません。制限された自由や実際的な利害関心の反映と言ってみたところで、権力関係が解消されるわけでも、抵抗によって権利として措定されるわけでもない以上はそうなのです。むしろ、明文化された規範に正当性を、暗黙の了解に正統性を与えるからには、彼我の力関係はより隠微で不定形な状態で恒常的に維持されるとも言えます。こうした世界では<権力>自体が己の自発的意思や能力に基づいて何事かを命じるといった分かりやすい筋書きは成立しません。外的な必然性と規範の効力によって抑圧を強化する機会を利用して、責任の所在を不明瞭にするのが通常です。またこの権力はそれほど明示的かつ絶対的な形では個々人には分有されないから、むしろ実体の見えない余所余所しい何かが全体を支配することになります。良く言われる「空気」というものはこれの一例に過ぎません。ある要求が通るか否かは、なるほど、状況によって異なります。けれども、認められない事態がどれほど多く、したがって明示的な禁止がどれほど一般的に見えたとしても、なお例外としての許容の方が重要な意味を担っていることには変わりはありません。何が当たり前の措置であるか、が問われているのです。「許される」場合、規則ないし規範は実質的には適用されない=要求が実現されるのだから、視野の狭い利害関心にとっては問題はすべて解消されているかのように思われるかもしれませんが、しかし、よくよく考えてみると当該の振る舞いに関する規範それ自体は維持され続けており、これを集団的な価値や規則として受容するよう暗に要求されているのです。

これの何処が問題かと居直られる方もいらっしゃると思います。もちろん、適当にやっていけるような有閑階級のカス共とホワイトカラー労働者の屑共にはお分かりいただけないことかと思われますが、我々のようなその日暮らしでお先真っ暗、無為徒食が三度の飯より大好き階級の人間たちにとって日常は、規範文と戦い、権力関係からの逃亡を図り、権威主義に抵抗しなければならない日々なのです。そうしないと労働と消費の地獄において貧乏人が常にさらされる暴力によって、文字通り殺されてしまうからです。楽しく生きること以外には楽して生きることくらいしか考える余裕がありません。目先の利益しか理解できないので、ケーザイ状態とかいう寝言には興味がありませんが、現実的には一番打撃をうけるわけですから、楽な道を探すことは死活問題です。権力関係との共犯以外に生き抜く手段がなく、またそのために他人たちとの協働を構築できず、他人を信用できず、一切の能力を空文に過ぎない法文と交換させられているが故に無力であるより他ないからには、我々がとり得る道はこの制度を徹底的に破壊して、この腐り果てた資本制から降りる以外には無いのです。そうしないと、人間であることができないのです。有り体に申し上げれば、我々はお祭り騒ぎよろしく紛い物の反社会的活動を消費するくらいしか能のないお前らが怒鳴り散らし、喚き散らし、凄んで見せている当の相手なのでございます。働いても文句を言われ、働かなくても文句を言われるのが我々の人生です。我々に最後に残されたものは自由であり、闘争なのです。というより、それ以外の生の形式を存じ上げないのです。何をしていても、何処にいても、考えることは常に怠業と妨害と破壊活動です。それ以外、一体何をすればよろしいのかさっぱり分かりません。規範の維持によって抵抗の芽を摘まれている現状に対抗するのは、階級的使命と思っております。権力関係に敏感であらねば、自分自身と他人を傷つけることになるのです。お前らと違って我々には脳みそと心がありますので、あまり他人に無体なことはしたくありませんし、健康的で文化的な生活を送るためには抑圧が少なければ少ないほどよろしく、その為には是が非でも職場と家庭における権力関係の様態を把握する必要があるのです。我々が日常的にお前らから勝ち取る休息と自由と労働のボイコットは我々のものであって、お前らの温情などでもなければお前らの慈悲でもありません。カマトトぶって、自分たちが本当はしたくもないのに指導してやっているんだとか、不正行為に目をつむり庇ってやっているのだとかいう妄言に付き合うのは、もう御免だということです。マイナスゲームをしあって自分より劣位の人間を不正な堕落分子と見なしたり、プチブルどもの口真似をして国家理由を義務か道徳のように押しつけたり、武装解除して上品さと礼儀にはいつくばるような真似をするのは、もうウンザリということです。

実利を単なる現物と思っているのなら大間違いです。実利とはそれを手に入れた関係性を正当化して初めて利益になるのです。関係性の線引きとは敵対関係の構成であると同時に必然です。それによって相手を強制し、暴力の二つの側面によって掟を作るのです。実力行使は威嚇と共に、それも威嚇の中でこそ意味を有するのです。そうでこそ関係性を正当化し、恒常化し続けるのです。それによってこそ、実利は本来的な意味における現実的な利益になるのです。温情や慈悲と思わせてやることが篤志家共を喜ばせ、財布のひもを緩めさせる戦略なのだと正当化してみても、他人たちの目にいかに映るか以外に権力の源泉はないのです。交渉はするためには対等であらねばならず、勝利するためには<権力>を握る必要があるのです。<権力>とは何かを行う能力それ自体だからです。ある限度を通り越してはじめて立ち上がる市民的政治など本当のところ成立しません。というよりも、こうした「最後の戦い」式のドラマチックなものの見方が成り立つためには、実力行使の経験がそれに先立って存在しており、当該の闘争が権力側に(一定の条件下であれ)既に認知されている必要があるからです。

*1:とはいえ、これが成立するのは外的な接触・交流が意識においてであれ、何らかの形で担保されるときだけでしょうが

*2:当たり前ですが、本人たちが了承していることを明らかにできないようなこの種の曖昧な「了承」は、資本の論理とも経営の論理とも社会における諸価値ともすれ違う潜在的な可能性があります。

*3:道具的な利用を可能にする条件というものを理解しようと努める人は、徒に理念や解放を語ることを慎まなければなりませんが、かといってその反対に彼らの論理を強化させるだけに終わることも避けるべきです。彼らをそそのかすことが必要とされているからといって、彼らに迎合することが要求されているわけではありません。場合によっては、自分自身の価値に忠実でいて、職場における孤立を選ぶ方が有利である場合すらあります。大切なことは彼らの論理を彼らが言葉に出来ずにいる部分に関してその意味を明確にしてやると共に、諸価値を常にそれと接続することが可能な状態に保っておくことです。必要な時に彼らがそこにアクセスできるよう準備することです。彼らと意見を異にするからと言って、彼らの価値において逸脱するような人間であることは非常に不幸な結果を呼びかねません。イソップ語法が必要なのです。

*4:一例をあげましょう。ある運送会社Aは個人向けの宅配業を中心に据えています。業績の点からいえば全く利益を上げることができませんが、この業務は未だにこの会社の中心でありつづけています。本社勤務の人間たちにとってはそうでないかもしれませんし、業績を維持しているのはグループ企業の別の商売であって、どう頑張ってもこの先宅配業務が利益を上げることはありそうにないとはいえ、企業が全てを放棄して業務を停止するためには雇用されている人間の数からいっても、経済的な効果という点からいっても現実的ではありません。少なくとも現場の人間たちがそう信じることができる程度には、社会的インフラとしての役割において基幹をなしているのです。本当に個人宅向けの宅配業務のみであるなら、この事実は大した利用価値を持ちません。しかし、その中には大量の中小企業や小規模の生産ラインを有する町工場といったものが含まれています。そして、その種の中小企業や町工場の生産する部品や機具によっては、ある商品にとっての致命的な部分を担っているということもありうるのです。労働者は昔ながらの意味で生産を握っているのです。物流を一か所でも停止させるのなら、経済的損害は相当なものになります。たとえ、当該中小企業や町工場よりも上流の生産ラインに打撃を与えることができなくとも、経営側に与えるそれは測り知れません。対処方法がないからです。回せるトラックも人員も圧倒的に不足しています。あるいは同業他社に物流が回ったとしても、どこも稼働が追い付かないというの実情であって、何もしなくともちょっとしたことで物流に遅延が出るのは日常茶飯事です。どの物流も緊縮財政と労働の現場への締め付けによってかろうじて持ち越しているのが現実です。そういう状況下であるからこそ、そして社会的インフラであるからこそ、この事実は本来労働者と組合にとって非常に大きな武器になる可能性を秘めています。しかし、組合は一向にストを打つ気配すら見せません。元々が御用組合であるという点を考慮しても、この組合の戦術は単なる官僚的怠慢でしかありません。ストの日なるものを予め決めておき、それを交渉材料としてのみ使うというのがいつものやり方ですが、彼らが本気でストライキを計画していないことは明らかです。経営側と組合は現場の労働者にとってみれば両方とも余所余所しく、自分たちの頭越しに勝手に物事を取り決めている良く分からない存在でしかありません。もちろん、この種のストは社会的影響の多い分、リスクを抱えているのも事実です。かつてのスト権ストと同様に、自分たちの仕事への支障を極端に嫌う近視眼的な人々が大勢いるからには、ストは理解を得られず非難にさらされる蓋然性は高いとも思われます。けれども、すべてを麻痺させるだけの武器を現実的な選択肢として確保し用意しそれを知らしめることのない労働者に、一体どれほどの交渉能力というものがあるでしょうか。そして、闘争の手段は単に馬鹿正直にラインを停止させることだけではないはずです。大切なことは末端の個々の労働者の自覚であり、また他人たちにそれを理解させることなのです。実体的な利害は自分たちの勝利として明記されなければ、何時でも反故にされるかもしれない不安定な温情としてしか機能しません。

*5:卑近な事例でいえば、トイレに行くことに許可を求めざるをえない事態ということに抵抗を覚える生徒たちが少なかったとしても、そこにおいて果たされている現実的機能は、疑いようもなく規則の現実的な適用を通して達成される正当性の奪取と規範価値の維持であり、またそれによってこそ成立する具体的な権力関係なのです。学校制はこうした些細な関係性から細部を調整する巨大な社会的権力関係の学習の場でしかありません。