某書の前書きを訳してみる


例によってエキサイトとgoo辞書と第六感様の混淆物なので、役には立ちません。むしろ、誤訳で意味が分からなくなっているところばっかり!語学とか大嫌いなんだよ。つか、勉強すべてが嫌いだよ。畜生!!

まー、原文併記した方がよほど有用なんじゃねえのとか思うんだけど、一応マルシー入ってるんだよね、これ。それはどうなの、アナキスト的には――みたいな。いや、俺がだな。つか、スキャンしてOCRかけるのがダルイってのが一番なだけなんだけど。

じゃー、役立たず文書館第二段。前回の続きを載せないまま違う記事に行く適当さで読むといいよ。



これは直接行動のためのハンドブックだ。直接行動はただ一つというわけではない――世の中には多くの直接行動が存在している。:庭いじりのガイドブックは直接行動のマニュアルといえる――ちょうど料理のレシピ本がそうであるように。規制や代理、権威といったものを回避して直接的に目標を達成する行動すべてが直接行動なのである。政治的権力、経済資本、社会統制の権力といったものがエリートの手に集中している社会においては、控え目に言っても、ある種の直接行動の形式はくじかれる:この本はそうした行動の実践について書かれたものであり、自分自身の生活をコントロールしたいと思い、人間性の運命を決定する自分の役割について責任を受け入れる全ての人のために書かれている。囚われの身で生まれ、見世物と服従で育った市民にとって、直接行動はすべてを変えてくれる。計画を実行に移そうとする朝、彼女/彼は(以前と)違う身体、違う太陽の下で目覚め――仮に彼女がずっと寝続けることが出来たとしても、それはそうなのだ――、世界のあらゆる細部と調和し、またそれを変える力を手に入れるのである。巨大な勇気と豊富な解決力を与えてくれる仲間を彼女は見出すことになる。それは途方もない挑戦に相応しく、また情熱的な愛に値するのである。


直接行動を実践することは、代理人に頼ることや予め決まったものから選ぶことではなく、必要に応じて直接(自分で)行うことを意味する。今日ではこの言葉は通常、ある決定をさせるために政府や企業に対して圧力をかける、非合法的な抗議戦術の行使を意味するが、根本的には投票や(政治)献金することとそれ程変わらない。:とはいえ、最も正確に言えば、(直接行動とは)媒介なしに問題を解決するために仲介者を完全に排除して行われる活動のことだ。


具体例が必要だろうか?――例えば、慈善団体に金を寄付することも出来るが、或いは君自身のFood Not Bombs活動を始めて、直ちに自分と腹を空かせた人々の空腹を満たすことだってできる。君が重要だと考えていることに関して満足のいく記事を提供してくれない雑誌の編集者に対して、怒りの抗議文を送ることもできるが、代わりに君自身の雑誌を始めることもできる


野宿者を救済するための新しいプログラムを開始すると約束した市長に投票することも可能だが、使われていない建物を占拠して、必要とする人たちすべてに自由に泊まれるよう開放することもできる。企業が古い森林を切り倒すことを許可する法案に対して反対するよう議員に手紙を書くこともできるが、もし彼らが法案を通過させるなら、君はその森に行って座り込みや道路封鎖、 monkey-wrenching machinery*1によって伐採を止めることもできる。


直接行動の反対は<代表・代理>*2だ。多くの<代理>が存在する――言葉は考えや経験を表象(代理)しているのであり、ソープオペラの視聴者は彼ら自身の願望と恐怖を主人公たちに代理させているのであり、また司教は神の代理人だと主張するのである。けれども、今日において最もよく知られている事例は選挙制度に見出される。この社会では、我々は投票行為を社会的な実践と権力の行使の主要な意味と考えるように仕向けられている。人は投票権を行使することで代表となる政治家を、金を払うことで企業の商品を、またワードローブにしまい込むことで若者文化を選ぶ(投票する)わけであるが、投票は彼女の関心を代表する考えやシステムや人物を選びとるという点でact of deferral*3である。これは控え目に言っても、権力を行使するにあたって信頼のおけない方法だ。


一般化された媒介的な活動と非媒介的なそれとの差異を抽出するために、直接行動と選挙を比較してみよう。選挙は運次第である:もし候補者が当選しなかった場合、支持者たちの支援のために費やしたエネルギーは徒労に終わり、彼らのために為すことを期待した権力は誰か別人の手に渡る。直接行動であれば、人は働きに応じた結果を確信できる。あらゆる種類の請願との顕著なコントラストは、直接行動は他人が奪い取ることのできないリソース――経験、コミュニティー内での交渉、敵対者への渋々の尊敬といった――を担保してくれるということだ。
 

選挙は社会全体の権力を一握りの人間たちの手に委ねることを強化してしまう;純然たる習慣の力を通して――その他の強制力については語らないまでも――、それ以外の人間たちは依存*4の状態に留めおかれる。直接行動においては、人々は彼ら自身のリソースと能力を利用して、何があってどの程度、達成できるかという過程を開拓していく。


選挙は、ただ一つの基礎に立って同意しようとする運動に全ての人を無理やり押し込める。;自分たちのやり方が最も良く、他人たちはそのプログラムに同意しないが故に全てを台無しにすると主張する党派それぞれの間に、どんな妥協なら作り出せるかを巡って連合*5は争うのであり、こうした非難と反駁の中で多大なエネルギーが浪費されていく。直接行動においては、必要とされるのはそれほど広範な同意ではない。:異なるグループは、一人一人の努力を補うことを考慮に入れた上で、彼らが何を信じ、また何を快適に行えるかに応じて、異なる戦術を採用する。異なる直接行動に熱中している人々は口論をする必要がない――彼らが本当に衝突する目的を求めていないなら。あるいは、選挙(制)の長い年月が彼らに自分と同じように考えない他人たちすべてと争うよう、彼らに教えたのでないのなら。


ある党とその他との、ある候補者とその他との、あるアジェンダとその他との――それぞれの葛藤劇に人々が熱中してしまうといったように、選挙を巡っての抗争はしばしば、手元にある本当の問題から目をそらさせてしまう。直接行動においては、問題それ自身が提起され、集中して取り組まれ、そして、しばしば解決されるのである。


投票(選挙権の行使)は選挙の時にならなければ出来ない。直接行動は誰かが適切だと考えた時ならば何時でも実行可能だ。投票は候補者の政治的アジェンダに由来する議題に取り組むときにしか有効ではないのに対して、直接行動は君の人生の側面毎に、そしてまた君の生きている世界の地点毎に(個別具体的に)応用し実践することができる。直接行動は投票やキャンペーンや遊説よりも遥かに効率的にリソースを使うことができる。:個人は一ドルで、集団にとっての十ドル分、NGOにとっての百ドル分、企業にとっては一千ドル、そして州政府にとっては十万ドルもの費用がかかる目標を達成できる。投票はあたかも我々が想定する自由の表明であるかのように讃えられている。こいつは自由ではない――自由とは、先ず第一に選択肢は何かということを決定することであって、ペプシとコカコーラの間から選ぶことではない。直接行動は現実のものだ。君は計画をたてる、君は選択を作りだす、すべてが可能だ。


究極的に言えば、直接行動と投票の戦術を二つ共に利用することが出来ないわけではない。一方が他方を拒否するということはないのだ。問題はあまりに多くの人々が投票こそが政治的・社会的権力を行使する主要な方法であると考え、莫大な時間と精力を選挙という出来事に集中してしまい、変化を作りだすはずのその他の機会をどぶに捨ててしまうことである。投票それ自体は一時間もかからないというのに、選挙毎に先立つ何カ月もの間、全ての人がどの候補に投票するか、あるいは投票自体するか否かについて議論する。投票しようがしまいがどちらでもいいが、こいつとは上手く付き合っていけ。君の声を聞かせるための他の方法全てを思い出すんだ。この本は、そうした方法を使っての何らかの実践を行う準備が出来ている人々のために書かれているのだ。



ちなみに火炎瓶やら投石やらの官憲に対する攻撃は抵抗であって、しかもそれが主要な目的というわけでもありません。実際にはまた、銀行を襲い、証券取引所を燃やし、ファーストフード店をたたき壊し、暴動を煽ったとしても略奪や人間の身体への危害は一般的に奨励されません。直接行動は暴力と非暴力の境目に関する議論であり、かつまた認識でもあるのです。そして、抵抗が自らの現場に依って立つことからも分かるように、手段と目的は通常、合致したものです。抵抗の実力行使も自分自身の生活の創意工夫も、ともに等しいのです。生を拡充するとの表現に言われるように己自身の生に関する自己決定能力こそが自由の淵源であり、かつまた自由それ自体でもあるのです。おしまいにCNTの出した選挙反対ビラを引用しておきます。


投票などするな!

投票行為は君たちの人間性の否定なのだ。投票を依頼してくる連中など無視せよ。連中は諸君の敵だ、連中は権力を握りたがっている。

すべての政治家はそれが共和派であれ、王党派であれ、共産党であれ、われわれの敵だ、投票用紙を破り捨てろ、投票箱をぶち壊せ、候補者だけでなく、選挙管理委員たちの頭もなぐり割れ!!


あー。。。かっこいー。*6

*1:モンキーレンチ活動ってのが何かはなんとなく分かるんだが、訳しようが俺にはない。あとmachineryってどうするんだ、これは。さっぱり。

*2:代理される(する)こと=representation

*3:お手上げ。猶予とか延期つーことで、きっと「遠さ」みたいなものを問題にしたいんだろうけど、どう訳したものかしら。

*4:従属とでも訳した方がいいと思うんだけど、要するに選挙などの媒介的な力の行使は実際には当の仲介物に依存した状態になってしまう、ということを言いたいのだろうから、あえて<依存>にしておきます。

*5:coalitions;連合内閣?連合した派閥?

*6:尤も、1936年の選挙に際しては、組合員個々の判断に任せるという形で選挙ボイコットを放棄し、実質的には社会党(或いはその他の共和国左派政党)に投票するよう水を向けましたけど。――といっても、そもそもCNTは組合員に対して組織的拘束を課せなかったんじゃなかったかしらとか思ったけど、どっちだったかしら。だって、それぞれの末端毎の判断で蜂起しちゃうこともできるし、中央派遣のオブザーバーは精々がイニシアチブを発揮出来たときにだけ辛うじて無謀な試みを躊躇させたり、あるいは気乗りしない中央委員の発案に同意する気にさせること出来たつー有り様だったみたいだし。まあ、権威みたいのは幾ばくかあったのかも知らんけど、決定に関する全体的拘束みたいなのは無かったはず。