少しだけナイーブな雑感を。

移民に関する共存可能な二つの見方があって、実際のところ彼らを憐むべき存在とみなそうとも、あるいは自分の領分を脅かす侵入者とみなそうとも、そのどちらも自分自身の曖昧な一連の価値判断や感覚的与件の処理の仕方に対して、恐ろしいほど無頓着か無自覚であるように思われる。極めて遺憾なことは、当該の二つの見識が与える利己的な態度を自覚しているかどうかは全く問題にならないということである。

傲慢さや冷笑的な姿勢といったものは、それが与える奇妙な矛盾に比べればどうということもない。一番恐ろしいのは、これらの価値判断に含まれる<他人を最早人間扱いしない>という規則が自分自身に全く適用されないという点に対する無自覚さであり、想像力の欠如だ。移民受け入れに対して、最も受け入れられやすい言説は彼らが総じてログデナシの犯罪者か社会不適合者か、さもなければ非常識極まる有害な分子であると――声高にか暗にかは措いておくとして――宣言するタイプのものだろう。文化的差異を口実にしようとも、客観的蓋然性という装いのもとで理性的な態度をとっていようとも、反対にむき出しの嫌悪と恐怖を表明しつつ基本的には他人から否定的評価を受けるはずがないと信じ切っていようとも、あるいは本気で斯様な文化的衝突を不幸であると見なしていながら自分の世界に他人がいることに耐えられないのだったとしても、何れにしても、反対の言説は一つのステロタイプを持っており、そうであるが故にか、あるいはこれあるが故のステロタイプかは別にして、これほど人口に膾炙したものもないだろう。それは自分たちの状況を環境とみなし、専ら順応と内面化に励む姿勢を無自覚に第一義のものと考える狭量な共同体感覚に依拠する道徳の言説であって、暗にほのめかしているのは移民を人間扱いしてはいないという端的な認識である。憐むべきことに道徳のセオリー通り、より価値や序列の下位に向かうにつれて、道徳の要求は極めて強固に作用しているので、他ならぬ底辺の劣等的存在として扱われている貧乏人や社会的逸脱者やログデナシの階層が彼らを敵視していたとしても不思議ではないが、笑うべきではない幾つかの側面において彼らは己自身の道義的立場を失してはいないし、また自分に属する事柄に対して適用される公正さという価値を手放す必要も感じていないという事実には今更ながら驚かされる。公正さ――不正に対する適切な批判精神やリベラルであれ保守的であれいずれにしても可能な古典的な情動、それにこうした情動と価値の綜合としての<良識>――を彼らが失わずに語っているところでは、実に精確に経団連や政府の価値判断を読み解いているとはいえ、安い労働力を求めるという資本主義の原則的志向と共に、人件費として計上される社会全体の生に対する水準の上昇と感覚として広く共有された経済的損失の長期的持続におけるコスト維持の難しさという背景から類推を以てすれば、なるほど移民の受け入れは労働力のコスト抑制という観点であるのは火を見るより明らかだ。だから、彼らがそこに自らへの敵意や攻撃を見てとるのは当然といえば当然の話であるけれども、とはいえ、これ程までに露骨に人間を単なる労働力=モノと看做すことを自明と出来るのはなぜなのだろうか。安価な労働力が主要な目的であることを誰も隠そうとしないし、かといって問いただす声も聞こえない。素晴らしき我らが隣人は他人をして消費の対象であるか相互抑圧の対象であるかの何れかであると見なし、それ以外の遠い者たちに関しては生き物としての人間しか認知しないというわけだ。彼らは初めから人間として招かれてはいないのである。

見たところは対立は明らかであり、また単純明快なものだ。経団連ならびに国家官僚たちはコスト抑制という、利潤を求めるにあたっての基本的で合理的な判断に基づいて、安価な労働力を手に入れようとしている。単なる労働力として扱うには、我々はコストパフォーマンスが悪すぎると言われているのである。敵対の線はこの上もなく現実的であり、また具体的な正当性を持ってすらいるけれども、とはいえこの敵対において排除されモノとして扱われているのが当の<移民労働者>である。彼らは<外国人>であり、<移民>であり、労働力であったとしても人間――相対的かつ主観的に独立した世界としての日常において交感しあうところの他者、すなわちあれやこれやの違いはあっても同じ人間と看做される存在――そうした者では断じてない。単なる人間――ひどく遠く、観念的で抽象的な――としての他人たちへの曖昧な同情とそれ以上に明瞭で無自覚な怒りが露わにされているが、この怒りが向かう矛先が老人やマジョリティ―、それに金持ちどもであったとしても、全体として共有されているのはこれらの下品な連中の薄汚い手口それ自体ではなく、むしろ他人を呼び寄せるという振る舞いそれ自体にかかっている。社会的コストという言葉で説明されているのは彼ら自身の他人に対する有り様の鏡像であり、それへの恐怖であり、また共有財が他所者に使われることへの憤懣である。要するに、彼らが憤っているのは自分たちが蔑ろにされたためであり、事実における利害関心であるよりは遥かに精神的なものであり、職が取られるなどという恐怖は誰も真面目には感じていないが、他人が自分の家に土足で入り込んでくるという感情だけは露骨に表明されている。

こうして、貧乏人たちは半端な同一性への期待や同質性への抜き難い安心感といったものに引きずられ、階級の裏切り者たる中堅ホワイトカラー労働者たちの側にすり寄り、連中の間抜けな言葉に回収されてしまう。巧妙なのは自他の集団性が具体的なあれこれとして名指しされるのではなく、もっと一般的な意味合いで彼ら/我らの分割線を想起させるということであり、またそれと同時に現実の中にそうした抽象カテゴリーを強制的に適用してしまう無意識の身振りである。滑稽であり、また物悲しくもあるのはこれらの事実に加えて、彼らが彼ら自身の苦しみや困難に対しては真っ当な人間らしい感情を要求して憚らないことで、凡庸さは現実と出会う時に常に幾ばくかの笑いを誘うけれども、この場合は笑いはひきつったものにならざるをえない。というのも、彼らは本人たちが思うほどに真っ当でないのと同様、それほど冷笑的でもなければ、残忍でもないからで、彼ら自身がどう考えていようとも他人をしてモノとみなすのは、媒介としての社会的諸制度とそれによって可能となる抽象的な一連の「合理的」認識の双方が世界を環境と看做して適応を競う自然発生的で極めて動物的な身振りと合致するからこそであって、要するに近代の生みだす孤立して疎外された存在としての個人は取り立てて特別な人間ではないし、むしろ、労働という次元以外には集団的な価値を創造できない情動の面からも理性の面からも極めて凡庸で陳腐な者たちなのである。

さて、けれども、彼らがなにをどう言い立てようとも、事実の次元においては<国民>や<同胞>などという同心円的な親和性の論理が貧乏人や社会不適合者を幸福にした試しがないのは当然の話で、こうした言葉の使用例をつぶさに検討してみなくとも即座に把握されるように、敵対や緊張を覆い隠し手打ちを喚起させる言説上の技術としてしか親和性に基づく論理は機能しないのであって、惨めさを打ち消すために――というのも誰しも『見捨てられた』存在になることへの恐怖を知っているから――匿名の同胞集団へと依拠しようとする傾向は我らが貧民階層をより惨めな状態へと押し流すだけだろうけれども、社会的存在としての自分自身への攻撃や軽視に対する当然の憤りは他方で劣位の証しでもあって、彼らにとっての社会的上昇あるいは社会的な認知とは<その他>という否定的な媒介なくしては成立しないだろうし、本来的な意味でマジョリティ―になるためには既に最早<他人>の居ない世界に生きている必要があるから何れにしても永遠に我らという形容詞を手に入れることはできない。

とはいえ、こうした価値観や認識は貧乏人にも広範に見受けられるとしてもその本性とまではいかないし、こうした論理を内面化して将に事実においても利害関心と一致させることができるのは、流動性と専門性という二つの矛盾に対応する柔軟性が日常的な業務の根幹に置かれた今日のホワイトカラー労働者たちであり、また階級を構成することのできない――それ故にこそ最も事実の与件から遠い抽象的なカテゴリーに依拠することしかできないその他大勢のプチブルである。諸々の貧しさ故に人生において困難に遭わねばならない貧乏人にとってみれば、自分の正しい社会的立場など惨めな代物以外の何ものでもないので、いきおい自分をより高位の社会的集団や階層と同一化する契機に飛びつこうとするのも無理はないけれども、そうはいってもその不幸を具体的に構成する事実それ自体としての状況はどちらにせよ変わらないし、彼らが「治安を悪化」させる頃には社会的上昇の目途が絶たれた我らが同胞たちは当の昔に同じ道を歩んでいることになろうとも思われるので、社会的な緊張や対立が激化すればするほどに事実の持つ基本的で強力な必然性が敵と味方の分類を物事の道理に従って教えてくれることになるとの予想も強ち全くの出鱈目というわけでもないだろうし、何より自分自身の生活や生存について自分の手で何事かを決定し行おうとするのなら――それが最も困難な事柄であったとしても、この最初の決断だけはどんな歴史的・社会的必然性よりも以前に要求される――、言いかえれば抽象化された経験や思考の基礎となる論理を事実と現在の内に見出すことで行為と意味の一致を望まざるをえない状況に己自身を置くのなら、判断は自分が常に曝されつづけてきた誘惑や脅迫といったものに気づくことも可能だろう。

今のところ、我々は日常という次元において外国人労働者を隣人として認知してはいないし、たとえ現実のものと考えられていても想像的な意味で把握されるところの遠く余所余所しい世界に属する事柄でしかないから、共に生きるなどという命題は最初から問題にならないだろうし、それを要請するのは意識化された規範――言い換えれば道徳であり建前でしかないような規則でしかない以上は、当分の間、生活や生から遠く離れた領域のこうした要求に応えることは難しいだろう。しかし、一方においてはあからさまな剥き出しの経済上の要請があり、この過程が進行するにつれ非人間化されモノ化された苦役としての労働とその代償としての消費に依拠した私生活という分裂は最早調停したりバランスをとったりすることが困難なくらいにその矛盾を激化させていくだろうし、生活に余裕のある人間だけがこうした認識を純粋に観念的なものとして処理することができ、またその中で己自身の充足や喜びを適応させていくことが出来るのであって、単なる労働力として以外に如何なる意味においても社会的な人格を所有できない貧乏人は反対に消費から排除され無価値で無意味な労働に擦り減らされて日々を耐えていくという形式以外に生の有り様が見出せないことになるだろうから、この過程においては共にあることが道徳の問題ではなく、また純粋に利害の問題でもなく、それらが混じり合った社会的生の必然性として認識され共有されるということもありうると、そう希望的観測を述べておこう。まあ、そうなるかどうかは自分たちの問題であって、誰かが決めるわけではないんだけどね。



それはそうと、たとえば色々な窮状や悲惨な事態というものが知らされるとして、それでどうすればいいのっていう反応に時々出会う。大半の人間は他人事として消化してまうとしても、中にはそれなりに誠実(って言っても色々だけど)に物事と向き合う人間というのはいるので、そういう人たちが十二分に機能できるような枠組みってのは何かないのかしら。たぶん、デモやるとか集会やるって言っても、そういう人たちはやっぱり来ないだろうし。第一、なんとかしたいとその時に思う人たちにとって、デモってどんな意味があるのかよく分からないだろうし、直接行動が一般的で段階的に物事にぶつかっていくやり方が広く認知されているわけではないこの社会では、事態を解決するのは何か遠い媒介であって自分たちではないような印象を持っているだろうから、逆に自分の行為や意志が十二分に効果的であることを直接理解できる状態を望みがちなような。

実際のところ、そこいらの人が突発的に善意に動かされて力になりたいとか思っても何をすればそう出来るのかなんてのは正直分からんつーのが現状のような。組合でもNGOでも何でもいいけど、出来事の情報としては遡及力が高くとも組織や集団の参加ということになると意外と出回らないというか、目に入ってこない。外国人労働者、あるいは研修生問題って結構騒がれてて、それなりに支援の組織とかあると思うんだけど、自分で調べない限り先ず出会わない存在なのが実情。でも、たぶん、何かを目にしてショックを受ける善意の人ってそこまではしない。まあ、偶然でも出会ったら真剣に考えてくれるのが一番良いんだろうけど、もう少しだけ効率的な方法はないのかしらね。移民庁なんてケッタイな代物が政策日程にのぼっている以上は、それなりに関心も集まりやすいと思うんだけど。

ま、単純に俺が勉強不足なだけ、てのもあるんでこの話はあまりしない方がいいのかしらね。墓穴を掘りそうな気もするし。で、海の向こうだと実際に収容所や移送車両を襲って解放したりしてるわけですが、そこまでは無理だろうから、気長に抗議行動?牛久と品川だったか、収容所は。じゃあ、クリスマスはそこで集会をすればよろしいと。コンロと鍋をかついで。炬燵も持参で。寒いから動かない。