団地と自律とスクワット


さて、先日テキト―にお伝えしたコペンハーゲンの出来事に関して、id:gnary*1さんとかid:tzetzeさんのエントリで有益な情報が沢山あがっております。ワタクシ様もようやくゲルマンな*2言葉の読みが分かって良かったです。次見かけたときにはまた読めなくなってる気もしますけれども。

http://autonome.blog7.fc2.com/blog-entry-28.html

ここの人(HNが読めない。エスペラント語?)がよくまとめてくれていらっしゃいますけれども、クリスタニアつー地区がコペンハーゲンにあって、まあ交渉の委細は分からないのでどういう法的位置づけかは知りませんが、市当局との間に自治の合意はとれていたはずが、最近になってクソ虫どもが正常化を歌い始めて強制排除つー、どこでも同じやり方で追い出しをかけているようです。

大方の人々は知らないで過ごしているためか、所有権をして正当性の最上位に置きがちで、これに準ずるかあるいは最終理性として権力の合目的性がご登場されるというのが一般的な認知のありようです。けれども、所有の自由に対して使用する自由が優先されていたか、あるいは少なくとも等価であった時代の方が長いわけですし、人間の合理性にとって所有が最優先されることなど未だに少ないのも事実です。結局、建前としての所有権が成立しずらい状況になるや否や、正常な秩序の名の下におおっぴらに公権力の介入がうたわれはじめるということになります。とはいえ、日本よりは行政交渉の余地もありそうですけれども。

で、前回の続きで日本の団地ですが、ちょっと前まで空きが一杯だったのに最近ではどうしたことかちらほら満室というか、企業が一棟とか借り上げてたりして、おやこれはどうしたことだろうと思ったら、どうやら主に建設関係ぽいですが派遣会社が一時的な寮として宛がっているみたいです。まあ、そうはいっても世の中には空洞化も極まれりみたいな場所はゴマンとありますし、23区内でも以外と探せば怪しげな地区というのは結構見つけられます。もちろん、地価が高すぎるので土地の利便性と照らし合わせて人が寄りつかないみたいな状況だと手段が限りなく合法性から遠のくので戦術としては良くとも、状況としては厳しいことになろうかとも思いますが、けれどもそんな取らぬ狸のなんとやらをしている暇があったら、少人数でもいいのでそれなりに自由が利く共同性というものを探究した方がよほど有意義です。尤も、問題はすべてこの「他人を巻き込む」次元にあるわけですが。


政治的活動は生活に根ざしていようとも、あるいはより直接的に生活の全体として据えられていようとも、いずれにせよ様々な形で実現可能ですし、それが社会的な意味を帯び、必然的に他人たちを巻き込み、また単なる私的関係を超えた制度的集団的な共同性を問い直すものであるからといって、なにも詰まらない近代的市民の型にはめ込む必要もないわけで、消費と労働の二重生活を本来的な個人的な生とみなして、それ以外の社会的活動を己にとって多少なりとも余所余所しい公的な規範意識の中に落とし込んで、自らの生からそれをパージするような有り様の中で、他人事でしかない政治的社会的イシューのあれこれにケチをつけるだけのお客様ごっこをしたいわけでもない我々としては、いっそのことすべてを同じ地平で扱えるようにした方がよほど見通しのよろしい景色に生きられるものと、そのように思われるのですけれどもいかがでございましょうか。

というか、たぶん、私的な生が依拠しているところの状況それ自体を問い直すという作業が自分たちにとって外的なものと捉えられている限り、こうした認識上の操作それ自体を再検討しなければならないというのは凡そ考えられる限りの困難にぶつかってしまうだろうから、理解もくそもあったもんじゃないだろうなあ、というのがワタクシ様の認識なので、それなら全部一緒くたにして味噌もくそもあったもんじゃない世界にした方がいいのかしらとも思われますし、自分の人生や生活を何らかの形で律したいという欲望はさほど珍しいものでもないでしょうし、その現れが単に貧乏臭い生活上の工夫とやらに陥ってしまうのはナンセンスだとしても、天下国家を語って憚らないお頭の湧いた何となくリベラル風味という体の大多数を相手にするよりは自分の生活において独立と自由を欲するような個人的な願望を対象にしたほうが言葉も通じやすいのではないかしらね。公的な言葉としての政治的タームに頼ってると、公的な空間を自分たちのものであるとの認識が持てない以上は少しも話が通じないで終わるのがオチだと思います。

*1:ちなみに、ブクマで質問されたのでお答しておきますと、馬大山と書くので発音的にはマーターシャンでいいはずです。

*2:ところで、名前に「家」ってつけるセンスつーか、「家」って言葉がワタクシ様みたいな門外漢には如何にも『ゲルマン』みたいな偏見があるんですが、いや、ヨーロッパの北の方の人って「家」って好きじゃない?俺だけ?そこに含まれてる意味までは十全に理解できないから色々とアレなんだけど、「hus(家)」って言葉に何となく歴史的な含蓄を感じるんだけどなー。阿部謹也読者としては、その辺りをプロパーで研究してる歴史学の人とかに聞いてみたい。