利益ってなんだろうね。

というわけで、こことかここの話を読んで考えてみたこととか。ワタクシ様は国家とか大嫌いだし無くなって欲しくてしかたありませんが、基本的に民族とかいった観念も嫌いです。国民てなものを称揚されると居心地が悪くて堪りません。別に自分自身のことだとも思わないので、<日本>が主語や客語である文章には何の思い入れも感じませんし、同時に否応なしに無理やり巻き込まれている恨みがあるので、罵倒や中傷の類には大いに愉快がります。平たく言えば皆さま方の大好きな反日分子です。国賊とか非国民とか言われると褒められている気分になります。


そんなわけで、ワタクシ様は偏見に満ち溢れた「誤解された」日本人像が大好きです。スーパーマンのミスタータナカとか。中国映画に出てくる胡散臭い日本軍将校とか。嫌いなものが最悪であればあるほど、それは憎しみと嫌悪の対象であると同時に、笑いと揶揄の対象にもなるのです。謙虚で礼儀正しく寛容でありながら自尊心を忘れない立派な日本人という理想像は、ワタクシ様の目には臆病で権威主義的で不寛容で見栄っ張りで排他的な人間に見えるわけですね。自分と無関係で疎遠であるが故に国家の介入は不愉快にしか感じられませんし、自分を無理にでも巻き込むが故に社会における規範的モデルとしての国民=日本人には嫌悪感しか覚えません。

で、隣に住んでるおっちゃんおばちゃん姉ちゃん兄ちゃんにそうした感情を覚えるかといえば、そんなことはさっぱりありません。そりゃあそうです。単なる一社会の抽象的な悪徳や不正を備えた一般的な<国民>像てなものは、国民的英雄に冠される理想的な<国民>像の反転した鏡像に過ぎません。そんなものは地上の言葉ではなく、天上あるいは地下の言語です。根が繋がっており、人間の言葉が実践においては天上的か地下的価値としてしか機能しないということを了解したとしても、なお個々の具体的な人間はそのような抽象的な観念を表現する媒介などではないし、まさに物でも動物でもない赤の他人としてこの地上に物理的に存在しているわけですから、他人の過去や状況や境遇といったもの介在によって一定の配慮や同情といったものが生まれるのは当然です。


さて、とはいっても、そうした個別具体的な人間に浸透し、ある意味で分断している規範価値の総合というものはどれほど人間の個別性に配慮したとしても、依然として残ります。子どもが自分自身を抑圧し、排斥し、痛めつける規範や権威や実体的な権力関係といったものに気がつくのは、ひとえにあらゆる人間たちが個人としてだけでなく同時に集団的な存在として振る舞うからであり、この集団における共有されたものの存在が彼・彼女をして社会に対する漠たる憎しみと嫌悪を学習させ、また他人たちを呪われた元凶とみなすよう差し向けるわけです。子ども時代の陰惨な思い出の数々が教えているのは、この社会がそのような排除と抑圧の集団的実践の形式から成立しているということであり、マジョリティ―を成すのはその形式によって実体として担保されるところの価値であり規範意識なのであって、同胞や仲間といったものの基本である同一性は友愛や連帯によるのではなく制裁や告発によっているのであって、他者を排除するのと同様に内部の裏切り者を糾弾することで共同性を獲得していく一連の暴力の連鎖こそが社会的紐帯の基盤だということです。


社会や世間などの言葉によって言い表されている、あるいは言葉を持てず――自分自身を納得させるに相応しい丁度良い言葉が見つからない――対象を同定できず、漠然とした悪意や敵意という形でしか認知されない、ある包括的な集団性や全体性への憎しみというものは、多かれ少なかれ我々の誰もが持っているものです。疎外感を感じ取ることなく、排除と抑圧を体験することなく大人になる人というのは少ないでしょうし、そうした集団的な身振りは(単に人間の活動の形式として想定される)一般的な経験としてだけではなく、何より具体的なこの社会の特徴なのであって、事は人間の共同性につきまとう一般的な傾向の一側面に過ぎないのではなく、我々が生活する今ここの集団性の問題なのです。そして、幸か不幸かこのことは一人一人の人間が親切であったり、礼儀正しかったり、優しかったりすることと矛盾せずに同居しています。というよりもこの矛盾の発露を排除する形で実際の抑圧や排除が要請されるのです。時には哀れなものと看做された人間たちへの遠い同情があり、また瑕疵や非を口実にした嫌悪と反発の合理化があり、悪しきものの表象を己自身のフラストレーションを発散させるために導入することすらあるわけですが、いずれにせよ自分たちが関わり加担し共に維持している集団生活の様式やその規範意識それ自体に手をつけることは決して認められません。<自分自身>に関して徹底的に無自覚で<素朴>であることが要求されているわけです。


――と、まあ思春期の早い段階で、社会的優越を与えられている諸々の価値観とそれを体現しうるところの優等な人間集団というものが根本的に自分と相容れない代物だということに気がついたワタクシ様でしたが、ナショナルなものへの同一化の方向には終ぞ誘惑されませんでした。理由はよく分かりませんが、小さいころからパンチョ・ビリャとゲバラが大好きな子どもでしたので、本質的に国家とかには興味が抱けなかったのかもしれません。てか、未だに分からないけどね。実体的な制度としての国家なら何となくわかるし、手段てーなら納得もいくんだけど、国家って何かしらんけどそれ以上の存在なんでしょ。良く分からないけど。まあ、上に書いたような整理の仕方それ自体が主観的なものでしかないし、もっとほかの整理の仕方もあるんでしょうけれども、ワタクシ様にとってはこの社会と大多数の人的集団を表す単語であるところの<日本人>てなものにはまるで感情移入などできませんし、むしろ大嫌いです。で、名実ともにマジョリティーの座にふんぞり返っていられるような人たちというのは単純にあほの子扱いしていればいいだけなんですが、少し困るというか躓くことがあるとすれば当該社会から受け取る利益よりも不利益の方が大きい人たち――広義のマイノリティー性に規定された人たちが逆に社会的マジョリティーと同化しようとする傾向を持つのは何でなのかしら。同一化できるほどの、あるいは主体化して立ち上げるほどの文化的・政治的・経済的基盤の共有がなく、社会において孤立した個人としてしか表象されない人たちが、精神的慰撫の意味も含めてマジョリティー集団にむしろ積極的に同一化して、自己を正当な主体としようとする様は、頭ではわかるけれども、感覚的にはどうにもしっくりきません。


まあ、国家に何がしかの超越的な価値を感じる人がいるのは事実として知っているから、ふーん、そうなんだーという感じで流すこともできるんですが、それにつけても社会に対する憎しみや疎外感を抱きながら、あるいはそうであるが故に<国家>に惹かれる人ってのは何でそうなるのかしら。いや、だって、苦しめられた当の対象に帰依するって、それどんな羞恥プレイ?


それとも社会と国家は分断されて想像されるものなの?いじめられたり、気分がわるかったり、不正を蒙ったと考えるとき、その加担者であり、加害者であり、当事者である他人たちは何者かと言えば当該社会のマジョリティ―なわけでしょう。だって、そうじゃなければ、事実としての損害を計上して、その非を言語化することができるし、社会的に何の正当性も正統性もないような振る舞いであれば、端的に言って否定的評価しか受けないような行為であれば、闘うことだってできるし自分自身の敵対関係を通して自己を主体化することだってできるだろうけれども、闘う以前の問題として損害を損害として認めてもらえないとか、他人たちが自分の不幸を許容して、あまつさえ強制してきたりする状況とかってのは、要するにその他人たちの集団が何がしかの理由や価値に基づいて当該行為を黙認して支持しているってことじゃない?口で何と言っていても事実の方がはるかに雄弁であることはよく知ってるんじゃないの、この社会で生きていかなければならない人間たちは。建前なんか守ったこと一度もないし、横にいる調子の良いこと言ってる赤の他人はいつ裏切るかも分からない奴らだと思って生活してるわけで、一人一人が温和で友好的な素振りを見せていたとしても集団になれば集団の作法を優先させるってことは我々の誰もが経験の中で獲得してきた数少ない真理の一つで、中には開き直って平然と不正や抑圧を正当化する連中までいるし、誰一人としてそいつらを黙らせようとはしない。精々が公衆の面前で<本音>とやらを暴露するのは礼儀に反するとかいう虫の良い話で終わるのは目に見えてるし、結局のところ、それが<本音>だっていうなら、それって要するに当該の振る舞いを欲望しているし、必要としているし、止める気もないって言ってるのと同じじゃないかしらね。


でね、<日本人>とか<国民>とか<民族>とかその他何でもいいけど、右翼屋さんの使い古しの言葉に惹かれる人たちに教えてほしいのは、そいう単語が指し示す集団には我々を年がら年中傷め付けてまわる、あの気分の悪い屑どもが入っているわけだし、むしろそ奴らこそが中心にまわってるのに、なんでそんな連中と同じものになりたいの?昔から疑問で、虐められたり、抑圧された経験のある人たち、それも相当深刻に後の人生に影響を与えるほどの苦痛や精神的被害を蒙った人間たちがどうして国家や秩序や道徳的価値の序列に帰依してしまうの?なんだか考えるだけで悲しくて嫌な気持ちになってくる疑問ですが、ワタクシ様には本当のところ、理解不可能な代物なのです。まあ、ワタクシ様の頭の具合が緩い所為か、それほど深刻に悩んだことがないからかもしれませんが、気分の悪いものなんてそのまま気分の悪いものやんけ。


理屈ではなんとはなしに分かりますよ。権威や権力やヒエラルヒーに支えられた価値といった諸々の"力"の最終項はどういい繕ったところで国家であるし、国家が<人民>を必要とせず、政治から彼らが排除されていて、従って<国民>は存在せず、漠然とした同質性と同一性の原理が社会内のマジョリティ―とべったり一緒くたになっているような社会にあっては、具体的な他人を嫌悪し恐怖し排除したいという欲望に常に曝されて生きている人間にとって、国家は抽象的で観念的であるが故に具体的な顔や振る舞いを意味しないまま、むしろ自分自身の脆弱な同一性とそれによる不安を解消し肯定性と自尊心を回復させる機能を担って、夢想される存在になるだろう、と。でも、そうはいっても具体的なのは不正を蒙った、あるいは蒙っているという記憶であり事実の方であって、それってこの社会が許容して認可したやり方に沿って行われているが故に<不正>なわけでしょう。いや、そりゃあ、現実の政治的敵対や社会的敵対のいずれの側においても、個々の人間たちの中にはそうした不正が常に様々な程度で現れるわけだから、社会集団や運動体はその政治的性質において成員の人格的価値を担保することなど有り得ないのは確かだよ。とはいえ、とはいえだ、だからといって<不正>をもたらした出来事や行為の連鎖における敵対者たちこそがマジョリティ―なわけで、社会を憎むに足る十分な理由だろうし、社会に対する憎しみを解除すべきだとか社会は敵対するものではなく協働するものだとか、社会内の敵対と社会それ自体を混同すべきではないとか、そういうくだらない言い訳じみた詭弁を言うつもりは毛頭ないけれども、社会がそうであるならどうしてそこに浸透し鏡合わせになった国家はその非から逃れられると考えるのか、本当に分からない。だって、国家を具体的に構成し、その実体を担保しているのは<国民>であり<日本人>であり、つまりは社会のマジョリティ―たちじゃないか。人生における諸々の不幸や苦痛の原因を担ったあれらの連中と同じ人間、同じ集団であることは物凄く不愉快なことではないだろうか。一体に<国民>であることが何故実存的な充足をもたらすだろうか。何故、<国家>は社会から切断されて想像されうるだろうか。<日本人>であるということは、あの不快でどうしようもない連中と同じであるということではないだろうか。何でそんなものにならなければならないのか。彼ら/彼女らがどのような社会集団に属していようとも、広義の同一性たる<日本人>から連中が排除されると考えられる根拠は何処にあるのだろう。国家は単なる制度でもなければ、ある一定の人的集団としての政府のみを指しているわけでもない。そして、最も大事なことは国家は社会と断絶しているわけでもなく、むしろ当該社会を具体的に支えている秩序と権力関係の網目であり、またそれ故に実体的なものである。国民国家は<国民>の存在によって担保され、権力関係の分配に関わる意志決定を社会において媒介するものこそが国民である。つまりは、国民とは住民たちの単なる自己認識に関わる同一性であると同時に、彼らがそれを根拠に能動的に<国家>に干渉するところにこそ存在する。だから、市民であると同時に国民/民族てな単位が機能することになるわけだけれども、幸か不幸か我々の社会というものはこうした様々な分節を許容していない。というより、そうした一々の分節を<我々>の中にしっかりした仕方で導入しないで、あいまいさの中にすべてを引きずりこんでいく。


助けにもならず、むしろ粗探しばっかりして、一方では必死に関わりにならないようにする癖に、他方では<正しさ>による糾弾を好む人間たちなんかと一緒くたにされるのはごめんだし、色々と酷い目に合わせくれてるのはそいつらなんだから、そんな連中を敢えて真っ当な人間として表象させる手助けかなんか死んでもしたくないというのが偽らざる感情なんですけれども、一体に国家だの日本人だのといった記号に心が揺さぶられる人たちは何でそんな茨の道が好きなん?


それとも、みんな、具体的な人間なんか大嫌いで、ただひたすら自分を無根拠に価値づけてくれる想像上の同一性として<日本人>でありたいの?単に馬鹿が馬鹿のまま自分を肯定して、低脳な戯言を道徳的価値として他人に押し付けるための方便ていうなら、まあ、そんなものには真剣に考える必要性はまるで感じないけど、どうにもそれだけじゃない人というのが世の中にはいて、しかもそれなりに多いらしいので、あえて考えてみたけど、やっぱり分からないよ。<日本>を自分の同一性の中心に引きつけて、中身のない抽象観念で自分を鼓舞するより面白いこととか楽しいこととか沢山あるんじゃないの。暴動とかさ。