一水会と一水社をよく間違える

一水社というとアナルセックスと近親相姦ものばっかり出してる出版社(偏見)というイメージですが、それと良く似た名前の反米愛国を謳う*1新右翼の組織があります。特にこれといった理由はまったくないのですが、良く両者を間違えます。無意識において同質性で固めようとする原理をその両者から感じ取っているからです、とか適当なことを言いたくなりますが、たぶん単なる錯誤です。


まあ、しかし、右翼の人の原理って何なんつー疑問はわくよね。理屈こねてくれると少しは理解も早いんだけど、民族とか国家とか表向き言ってても、あの人たちのいう国家だの民族だのって何か現実感ないんだけど、俺だけかしら。まあ、右翼さんの大半は伝統芸能みたいなもんだろうから別に現実を説明する必要なんかないんだろうけど、しかし、それにしても天皇だの国体だののひとことで全て済んでしまう実体のなさはどうにかならないんでしょうか。あんだけ中身がなければ無原則的なふるまいも簡単だろうに、その(原則上の)現実との対応関係の無さが逆説的に歴史的蓄積以外には何一つとして実践上の基本方針を決める上で有効な指標にならず、結局理屈はどうあれ単なる体制派つーのはどうにも悲しく…あー、全然ならないや。ごめん、別にどうなっても何も感じない。


まあ、それで一つ残るのは政治的原則とは言えないような、むしろ生活を組織する諸々の集団的制度的実践において浸透する同質性の原理くらいで、そんなものはどうあっても政治の規則にするには不十分つーか、その土台に立つ人って恐らく千差万別で、とてもじゃないけど有効な政治的自律性を確保できない気がするんですが、そういやあの人たち、政治的活動ではなくてテロやりたいんでしたっけ。肉体言語とか。


同質性の原理と言えば、ほとんど実体のない観念としては「日本人」てなものもありましたね。生憎ワタクシ様は万年生活保守予備軍の皆様方が頻繁に使われるこの単語の意味内容が、現実の中で把握できた試しがありません。だって、この単語って何を指してるのかよく分からないんだもの。国籍云々は単なる法律上のあれこれであって、日常会話で必要とされるものではないし、現実の諸々の制度的保障をその規定が支えているにしても、それは役人のための言語であって、僕らがそれと判断して行動する際の理由とか根拠としては極めて脆弱だ。というのも、法文は法文に過ぎず、小学生ですら法律というものが正当化のための審級になったとしても、動機や正当性それ自体を主体に与えるような代物ではないということは重々承知している。


でも、日本人てな同一性の原則によって規定された集団が居ないかといわれると非常に困る。同質性のあれこれを検討してもそれら全てを包括する同胞集団の同一性は見えてこないけれども、そうかといって実体的なものとして指し示すことのできないものであるとは誰も思っていない。むしろ、誰もが当然のように「日本人」という言葉を使う。これは僕やその他の誰かが否定すればどうこう出来るものでもない。

「国民」てな言葉は官僚や政治家の答弁を除けばあまり日常お目にかかることはないし、「民族」に至っては殆ど右翼屋さんの専売特許だ。それに対して「日本人」という言葉は融通無碍に使われ、文脈上何がしかの意味を担ってはいても、大抵の場合その語が指し示すのは「みんな」とか「我々」とかいった代名詞と大差のない集団であって、想定された集団は話者や対話相手を含むこともあれば、あるいは巧妙に自分を消しさるために要請される場合もある。「われわれ」という言葉には自分も含む実体性が強く打ち出されているように思えるし、それが実際どうなのかとは関係なく、むしろ主体を強化させる意味合いで持ち出される。「みんな」になると話がややこしくなる。この言葉には話者の位置は原則的に明示する必要もないし、その語の必要条件としては要請されない。それで、これらと近いけれども遠いものであるところの「日本人」という言葉についてはどうかといえば、事実としてそのような集団が存在するか否かと関わりなく、むしろ語の使用によって現実の中に当該観念の指示する集団を現勢化させる働きがあるという点では両者に近く、しかしながら両者が話者の恣意的な使用によって立ち上げることのできる集団性であるのに対して、「日本人」の方はそれが含み持つ射程の広さが逆に事実の中の様々な審判を経ることを余儀なくさせられるが故に一定の拘束を受けるという点では異なっている。歴史や社会的同質性の審判があって、我々はそれら一つ一つが何を意味しているのか分からなくとも、何が「日本人」でないかということは何とはなしに了解してしまう。


「日本人」を対象として扱うのなら、もうすこしまともな話も出来るし、お望みなら議論をすることも可能だ。というのも、あれこれの事実性が少なくとも客観的実在としての制度や記録を通して認知可能だからだ。これが主語として機能し始めると、何やら薄気味の悪いお化けのような代物に見えてくる。僕には何を意味しているのか皆目見当がつかないからだ。そして、何よりそれにも関わらず話が通じてしまうからだ。


共同主観なんてものはそんなものだと言われればその通りだし、およそ人間のあらゆる同一性の弾力に富んだ強靭さはその曖昧さに由来しているわけだし、あるいはこう言ってよければ事実のあれこれと意識の志向性の間での様々な段階を伴った交通がそのような観念を辛うじて現実的なものとするのであって、たぶん物を指し示すようには、あるいは制度を通して観念を実体化させるようには、同一性は語れないのだろう。結局、このような漠然としていて、固定することのできない観念は静止した状態というものを持たず、各人の欲望や嗜好によって左右されつつも意識の一定の志向性を伴う運動として把握するほかはないのだろう。


他人たちに名指しされることで初めて事実として確認できるような、あるいは何らかの実体的な制度の枠組みまで範囲を狭めることでしか事実として語ることのできない同一性、というのは、しかし、一体何だって真面目に取り組む必要があるのだろう。これが子どもの頃から付きまとう難問だ。事実を支持する貧弱な単語をこそ確実なものとみなすのなら、<日本人>てな単語にどれほどの重要性があると言えるだろう。けれども、我々が観念を現実に見出すのは言語によって対象を説明するからだし、そもそもある観念を獲得するのは言語の使用によってだ。そして、その観点から考えるのなら大した根拠もなく使用しうる語にも、その使用の頻度や傾向によっては大いに関心を払うだけの価値がある。<日本人>という語がある人間たちにとって重要であるのは、言うまでもなく、社会的な正当性がその語によって表わされているからだ。いずれにせよある社会を同一のものとみなし得る根拠、あるいは他から区別できる根拠として、その仮想上の行為主体として正当な権利を持つとされる集団がそのように呼ばれる限りで、そこには当該社会の権力関係が、諸々の非対称性が、優劣を定める審級の源泉が、名指しされているからだ。実体的な制度である統治機関に正統性を与え、その実際上の仕組みや働きに介入し、これを正当化する最終的な審級として<国民>がいて、<国家>を根拠づけるものとして先行するものだと、我々は教わってきた。しかし、我々に分かるのは取りあえずあれやこれやの理由をつけて生活に先行する諸制度であり、権力であり、要するに政府と治安機関のあれこれだけであって、<国民>の方は国家の実体性に比べればどうにも手ごたえがない。そして、赤ん坊でもわかる話だけれども、<国民>てな表象が一つの同一性として機能するのは単純に<国家>が存在するときだけで、<国民>は作りだされ、遡行的に同一性とすり替えられる観念でしかない。国家のない国民は普通国民とは言わない。そして、それ以上に忘れがちなのは、<国家>に対する<国民>は一つのものであったとしても、事実としての国民は原理的に言って単一であることは出来ず複数性に常に脅かされている。人民は制度によって一つのものとして己を表象するけれども、そうしないではいられない根拠は事実としての国家制に由来している。


これに対して<日本人>という表象はその具体性のあれこれと関わりなく、ほとんど無原則に近い形で我々が我々自身をあいまいな仕方で主体として立ち上げることを許している。そして、より肝要なことは、この種の曖昧な主体性は単なる現実の複雑さに由来するものというばかりではなく、歴史的な存在としての<我々>が半ば意図的に選択してきた結果だということだ。我々は我々自身を直接的に表象することを拒んできたし、<我々>を規定することは固定化することであって、それが原則として我々自身の自由を束縛しかねないということを暗黙のうちに了解し、他人たち(言うまでもなく<我々>の一人)との共犯関係を生きている。我々が今日同一性を強固な形で打ち立てら得ないのは状況の所為ばかりではなく、我々が戦略としてそのような道を選んできたからだ。ある人々はこれを指して「去勢された」という。この言葉には漠然とした諦念と怨みがあるし、そこからシニカルな装いのもとであれこれと操作的に社会を構成しようとする言説が見え隠れする。非常に気持ちの悪いものだ。そして、それ以上に不正の臭いがする。というのは、要するに権利としての責任とやらがあるとして引き受けなかったのは当の<我々>であるし、他人たちに言質を与えまいとするノラリクラリと言い逃れを続けてきたのも、そうすることで国家も社会もマジョリティ―もあらゆる同一性のヒエラルヒーがべったり癒着した状態を維持してきたのも、他ならぬ<日本人>という語に自らを代入してきた人間たちだからだ。適当で曖昧でどうとでも取れる状態を維持することは、既に何らかの権益を既存の制度的現実から受け取っている人間たちにとっては頗る有利な選択である。自分自身を認める必要のない、けれども実際にそこに存在している人間というのはある意味で最強の存在である。


何かを同定し、何かを確立することは闘争の最中にあっては必要なふるまいであるし、そうしなければ敵対を構成することができないし、また他人たちの争いの中で常に代理されてしまうことになる。けれども、既に出来上がったものの中で己の利益を確保し、順応していく分には同一性を表現することで鍛え上げていくことは危険な賭けになる。何かを名指しすることは、その他のものと自己を切断し、対立関係を構成することであり、その意味で社会的敵対を(再)編成することである。自分自身を表象することは他人に攻撃と非難の口実を与えてしまう可能性がある。下手をすると自分自身をも分断し、還元不可能な敵対性で引き裂いてしまうかもしれない。

*1:本人たちは何て自称してるんだっけ?民族派