前置き。

madashan2008-07-15


嘘はつくつもりはないし、ごまかす気もないけど、まず初めに触れないことや書かないでおいた事柄というのは当然あると伝えておく。ふつうは、何かを書くに足る理由として考えられるのは事実に関する主観的な観測だったり、あるいはその意味だったりして、意識の変遷とか情動の移り変わりとかは余り興味あるものとはなりにくいし、僕にはそれほどの文章力があるわけでもないので、勢い意味の分からないダラダラした無駄の多いものになりがちだし、そういうわけで自分の行動について書くのは苦手だし、だから、もし書く価値というか意味があるとすれば、起こったことや出会ったことの"事実"それ自体にアクセントがおかれるべきなのだろうとは思う。ただ、今回の件はいろいろとそういうわけにもいかない。


あとでまた触れようとも思うけど、ある事柄がそれ自体で違法ではなく、まったく無害だし、良識に照らしてみても道義的に疾しさを感じることのないものであったとしても、違法行為の内実を構成したり、その過程の一部に組み込まれることで、それ自体ではなく全体の意味を補完する役割を担う可能性というのは十二分にありうる。オマワリの仕事というのは、要するにそういうことだと思うし、それはどんなケチな犯罪でも引っ張られたことのある人にはわかりのいい話だと思う。連中は聞き出したこと、調べたことから自分に都合のよいストーリーを作り上げていく。物的証拠とか事実に関する情報の収集はそれ自体で中立だと思われるかもしれないけれど、それを材料にどう組み立てていくかは連中の恣意的操作以外の何物でもない。なるほど、この操作の全体は(送検されて裁判にかけられるのなら)後々争われるし、それ自体がある程度の蓋然性や妥当性を立証できない限り、そんなものは他人に認められることはない。けれども、裁判において決定するのは裁判官だし、妥当性や蓋然性というのは随分と幅広い。オマワリはオマワリの仕事の要求に従って物事を解釈し、組み立てる。それが真実と異なるような事態というのは珍しくもなんともない。何がその違法性の立証に必要か、また不必要かを決めるのは彼らで、その目的に沿わないものは当然にも無視されるけれども、ちょっとでも補完しうる材料があればすぐにでも都合のよい形に加工して使われる。そして、とても恐ろしいのはこうしたことは少なくとも絶対的な形では「違法」な捜査とは呼ばれず、「合法」性はある確定的な一つのやりかたであるよりは単に諸規則に反しない限りの目的合理性に基づく様々なやりかたを漠然と指しているに過ぎないという点にある。


そういうわけで僕は今回の事態にあって、まったく当事者ではないにしても、明確に一方に加担し、救援に協力したいと考えているわけだから、オマワリ(及びそちらの陣営)を利するようなまねはしたくない。勘違いしている人というか半分くらい意図的に混同している人がいるけれども、違法は道義的な悪を意味するわけではないし、逆もまた然りだ。オマワリにとってはパクる口実がありさえすればいいわけだし、彼らの仕事にとっては僕らが考える行動や事態の倫理的評価なんてものはまるで関係がない。瑕疵があったのではないかとか、非があったのではないかという人は、それが単に法的な不備だったり弱点だったりを想定しての発言であるのなら、そして、それを以て逮捕を正当化しうると考えているのなら、要するにその人は単純に頼まれもしないのにオマワリのお先棒を担いでいるということくらいは理解してほしいと思う。オマワリの目的を理解していながら、平然とそれを合理化し妥当なものと認める態度には、目的に対する同意とそれによる手段の正当化という人間の基本的な活動のひとつが如実に表れている。オマワリの行動に関して、採用されるべき評価基準は目的の正当性ではなく、手段の合法性であるというのは結局、単なる建前論に過ぎず、法学の勉強をしている人間でさえ*1平然とオマワリの問題の多い行動に目をつむるし、それは何かというと<秩序と治安の維持>という大義名分とオマワリによる弾圧への心理的親和性でしかなく、この社会では建前が建前として守られたことなどロクにない。為し得ることは良いことを意味しているわけでも、望ましいことを意味しているわけでもないのに、秩序の統制装置そのものへの批判は当該の秩序それ自体(でも、これは社会そのものでもなければ、ましてや人間の生活それ自体ではない!)を心理的にであれ毀損するとの防衛意識からか、ほとんど実効力ある形でなされることがない。


もちろん、様々な程度や段階というものが考えられる。人間が結局のところ己の心的傾向や親和性に基づいて判断するにしても、そして一方の味方を心ならずもしてしまうにしても、その有り様は、全くフリーハンドの賛同から諸々の条件や留保をした上での同意、それに不作為という形で現れる消極的な許容まで実に幅広い。単に違法な、あるいは脱法的な手続き的不作為があるばかりでなく、人間を無理やり連れ去る<権限>とそれに伴う事実としての長期の拘留があり、また、司法の分権など殆ど機能していないわけだから、その状態をよきものと認めることは法治主義者であろうと国家主義者であろうと、少なくとも理性的な対応を自己に任じるところの人間にはできないだろう。積極的な抗議や抵抗への動機となりえぬこれらの消極的な拒否の姿勢は、しかし、表現されることなく終わるのなら、結局のところ自分自身と矛盾していることになる。

*1:或いはそういう人間に限って