おべんきょう

気分の悪いこと考えてたら、ますます頭が痛くなってきたので気分転換。革命って単語は易姓革命から来ているらしいよ。でも易姓革命ってそもそもなによというはなし。


天によって命が革まることをして革命という。超越的で文字通り天上的な道が示され、それによって反乱者に命が与えられ、彼はその信に応え統治を行う責務を持つ。彼は天に代って、天と人とを結びつつ、徳を以て人民を治める。統治の転覆と正当性の循環は正統性に由来しているという話であって、ここには未来の終末の先取りという意味はないし、また始原の楽園の再生という意味もない。我々が知っている革命の概念とは根本的に異なっているのだ。近代の言葉であるRevolutionに含まれた再現というニュアンスはみじんもない。


垂直的な神の権力は統治者の交替は認めても、統治権力と位階秩序の形式それ自体を破棄することは許さない。何故なら、ヒエラレルヒーは神=超越的存在が要請する必然的なものだからである。神を天とし、非人称的なものとしても事情は変わらない。人の道は天と地の狭間にあって見えにくい。命を持たぬ者は地に混乱をもたらし、人はこれに叛逆する。命は、しかし、問うものであっても、それに応えるのはただ一人神あるいは天である。


易姓革命の観念は単なる統治者の交替しか意味していない。そして、アナキズムにも擬せられる老荘無為自然とは、単に人の道=統治の作法から離れるという消極的な意味における無権力・無権威でしかない。反対に、近代の革命運動は己自身に権力を由来させ、制度を根源的に変更することを要求している。それが原初的な理想郷の回復とみなされようが、終末における救済とみなされようが、その性格は平等的・絶対自由的・自律的である。こうした革命的熱狂が制度を構成するにあたって誤魔化され、歪曲され、隠ぺいされていくにしても、何れにせよ希望とは常に蜂起のときに想起される絶対的な解放である。あらゆる桎梏からの解放だけが、たとえ意識されなかっとしても、革命の原動力である。そして、自由には自らが他人の権威に従う余地はなく、平等には他人をして自己の権力に従わせる余地はない。


あ、むつかしいこと考えてたら余計あたまがいたい!いたいよ!