十代の頃の、ワタクシ様の愉快なお頭について。

ちょっと、思うところあって昔々にぼんやりと考えていたことを言語化してみる。もちろん、現在の意識が多分に影響しているから、過去の意識をそのまま再現することはできないけれども、それでも言葉に出来なくとも絶対的な確信を持って――そう、あの頃は状況を全体的に理解することが少なかった分、信念や正当性に関する確信は絶対的で揺るぎなかったように思う――物事を把握していた当時を振り返ってみようと思う。




ほんとは、過去の自分の考えなんか問題じゃなくて、単にこないだのジジェクの本と蜂起主義的アナキズムとかいうオモシロ覚書を突き合わせて、何か有意義なものを見出したいのだけれども、それ以前に自分の頭の整理をしないといけないので一回吐き出してみようかな、と。まあ、正直に言えば後者のテキストを読んでちょっと感動したので、オモシロ文章でも垂れ流すかなくらいの気持ちなんですが。


ま、それはおいとくとして、以下に書かれていることがらは当時はかなり真面目に考えていましたが、かといって絶対的な正当性が何時如何なる場合においても与えられるとは考えておりませんでした。問題なのは――というか興味があったのは、普遍的で永遠的なものとして自分を表現する命題が、状況の偶有性の中で必然的なものとして要求されるという事態で、それって乗り越え不可能なのかしら、というのが当時のワタクシ様のトレンドでした。


あ、それから、以下の記述に文句付けられても、現在のワタクシ様としては回答や反論のしようがありません。過去の自分に責任は持ちたいと思いますが、その過去における具体的な行動や発言のあれこれならともかくとして、それらを動機づけていた抽象的な思考や信条の論理に関する不手際や不整合にまで応える義務などは感じませんもの。ぎゃは。特に意気込みはないよ。十代に特有の、神経症的な信念のありようの一つとして考える一助になるかな、と。まあ、未だに冗談半分に信じていますが。そして、ワタクシ様は冗談を本気で実行するのが趣味です。


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我々の存在を根拠づけるもの、それは革命である。我々がただ一つ意識に許すものとは、革命への確信である。あらゆる生起する出来事は究極的に無意味なものなどないし、歴史の最後の勝利において回復されるがゆえに、我々は如何なる蜂起にも如何なる叛逆にも価値を見出し得るし、また実際的な妥協と和解を一定の有効性の範疇において認めるのは、まさに如何なる敗北も決して絶対的なものではなく、それゆえに我々は敗北を知らないという事実に由来している。我々は革命を絶対的なものとして確信しているが故に、様々な迂路や中断、それに後退や敗北があったとしてもなお闘争に価値を認め、それを再開することに正当性を与え、そして、最後にまた闘争があるところには常に最小限度であっても解放の可能性があると見なしうるのである。死、あるいは敗北はこの点にあっては消滅でもなければ無でもなく、反対にその敗北の記憶=歴史を固有の経験とする革命的主体(の意識)を構成する不可欠な要因である。


それが革命闘争であり、急進的社会運動の潜在的な意味である。


どんな蜂起や反乱も記憶され、集団的な遺産として継承されていくのなら、そして、その集団的な知性と行動において革命が具体的で現実的な出来事として現れるのなら、その時は馬鹿げた敗北も不発に終わった一揆にも意味を認めることができる。その時には、耐えがたい屈辱と裏切りの連続としての数々の歴史も正当な意味を以て理解される。究極的に終わってしまった出来事――つまりは、その意味がすべて明らかになった過去という観念は、現在のうちには見出し得ない理念的なものである。そして、未来においてそれを担保するのはただ一つの出来事によってでしかありえない――それが革命である。


我々にとって革命とは先ず第一に現実的なもの、具体的なものである。同時に、革命は統制的な理念であり、また定言命法である。我々は既に予めこの出来事の到来を確信しているときにのみ、闘争に己自身を投企することを合理化できる。事実としての実際的な判断にあって、単なる散発的な武装蜂起には戦術的有効性を認められないし、暴力革命は人民大衆の広範な支持と行動なくしては如何なる未来も合理性もありえない。しかし、また同時にプロレタリアートと我々自身への未来の教訓として、またそこから意味がくみ取られ、闘争を価値づける(根拠づける)記憶として、それが状況の内在的必然性によって要請されているのなら、我々は敗北の蓋然性を前にしても行動に踏み切らねばならないときがある。


我々自身の単なる固有の肉体とその意識は、たった一つの目的を除いては、集団的な価値と意味を担うものとはならない。その目的が強固に存在することを理解し、その実現を確信するがゆえに、我々一人一人の人生や存在や死は単なる個人的なものであることをやめ、全体的な連関の中に組み込まれ意味づけられるのである。未だ到来していない未知の出来事の現在における承認だけが、現下の情勢とそれに対する闘争を根拠づける。既に過ぎ去った数々の企てを記憶し我有化することだけが、意識と世界を一致させ、我々を行為主体の中に位置づける。


我々は意識において未来を先取るのであり、その先取られた未来に向かう企ての中で、そのような行為=手段と未来=目的の循環的な根拠づけを行うのであり、それらは全てただ一つの究極的な参照項――革命において理解されねばならない。


我々が何時如何なる時にあっても、想起せねばならないのは革命である。自分自身が何をしているのか理解せず、それ故に状況に飲み込まれていると感じている時にあっても、思い起こすのは常に革命である。


革命は、しかし、一朝一夕にして起こるものではなく、我々は事実の絶えざる試練の中で時間の経過に耐え続けねばならない。扇動に基づく敵対関係の公然化と激化、挑発行為を含む集団的行動への圧力と教育、威嚇と実力行使を含む交渉と具体的な成果による宣伝――日常的な不平不満や反発を基にした生活要求に始まって、全面的な社会革命へと至る、継起していく一連の過程を想定して、より穏健な活動から始めることは出来ない。反対に、この事実の課す制約と審判においてどのような手段、どのような策略を以てしても、常に騒擾と転覆を企図し、組織していかなければならない。これらの偶発的な破壊的活動一つ一つの有効性は予め完全に把握することができないし、それは状況の中で常に判断されなければならず、しかもなお我々が人間である限りにおいて我々自身もまた状況の一部であると同時に行為=判断の主体として行動しなければならないから、活動の全体を蜂起の渦中にあって連続的段階的な破壊へと導いていく機械論的な過程を期待することなく、現在における短期目標に向けての活動が中長期的目標に与える影響とその意味を思考し、現在の中で再び中長期的目標へと至る道程を再発見し続けなければならない。しかしながら、そうした認識の枠組みの再編成を可能とし、又そのつどの再編成それ自体を相互に断絶した偶発的なものではなく、一つの全体的過程として秩序づけるのは、もちろん革命である。