飲み屋の愚痴


噂話その2。

最近、新左翼機関紙の紙面から往時の勢いが消え、素敵な単語*1や素敵な語法*2が少なくなってきているらしい。かといって、ポストモダンな用語なんぞは勿論使わない。全体としては何だかひどく大人しい印象を受けるとか。世代交代で最早言語感覚の面でも断絶があるのかしら。オジサマ活動家たちは寂しい思いをしていることと思われますが、まあ、伝統芸がなくなったらあの手のセクトはどう生きていくのかしらん。


そういえば、今年は連合赤軍の映画がやってましたね。観にいく気はまるでございませんが。むしろ光州事件の映画のが観たかった。まあ、新左翼つーと必ずあさま山荘事件が引き合いに出されるわけで、いい加減それもどうなんとか思うけど、それはそれとして、あの事件については考えれば考えるほどに、解放政治を目指す運動が結局のところヤポネシア社会の体質を清算できていなかったということにウンザリさせられるのも事実です。


あのね、正直言って、銀行やら現金輸送車やらを襲うとか企業爆破するとかそうゆう軍事路線・非合法路線そのものの可否なんてどうでもいいんですよ。戦争やるんだ、武装闘争やるんだって発想そのものについては幾らでも議論可能だし、状況に応じて妥当性を問えばいいわけで、原則的には否定する気はまるでないよ。でもさ、それが行き着いた先が虐めとリンチって言うんじゃあ、なにそれって感じがしてくるよね。化粧したことを理由に自己批判を迫るような体質って、38式歩兵銃を兵隊より上に置いたどっかの軍隊と何が違うの?なにその貧乏くさくてみっともない感覚。非合法路線なんて絶対に灰色の領域が出てくるし、だから何時でも「裏切り者」の現実的恐怖が問題になってくる、てのは世界中でそうかもしれないけど、それ以前の問題だよね。すぐ根性論振り回して、正当性の規則を無制限に――しかも仲間を抑圧するためにしか使わない、てのはどういう了見なのよ。敵と戦うために鉄の規律があるんじゃなかったの?戦う前に疲弊させてどうするの?


頭がわるいか恥知らずかのどちらかを除けば、右翼だってさすがに太平洋戦争の日本軍については庇いきれないのが現状で、政治的にどうかとか道義的にどうかとか一切捨象しても、余りに頭がわるくて余りに近視眼的で余りに貧乏臭くて余りにみっともないってのが先の戦争への感覚なわけだけど、同じことを連合赤軍の事件にも感じるよ。ていうか、そっくりだよ。過去の汚点やら問題をきちんと言語化して討議に付し――それこそ自己批判するのではなく、単なる感情移入と曖昧な思い出話に回収して個々人の倫理的葛藤にしちゃう辺りとか。


それで出てくる答えが、その手の陰険な体質こそが社会的紐帯の前提条件だとして、そこからあらゆる集団や組織を破壊する資本主義の機能に無根拠な期待を寄せて、ついに行きつく先は新自由主義っていう。何一つ学ばないで万事が他人任せなのね。でも、そんな発想はそれこそ戦前からあったんじゃないの?てか、大杉栄が書いてるよ。法律と道徳なら法律のがいい、って。要するにそこから一歩も進んでないんじゃない?


共同体を回復しろって人も、それに対して共同体は個人を圧迫するって人も、どっちも同じ前提に立ってて、双方ともに自発的に――ということは意識的かつ批判的に――共同性を構築していくって発想がまるでなくて、何時も所与の――ということは外部からの――強制としての集団性としてしか人的集合を想起できないわけで、君ら実は集団行動がものすごく苦手な、抑圧と足の引っ張りあいでしか他人に言うことを聞かせられない、幼稚園児以下の珍妙な生き物なんじゃないの?とか思わないでもない。

*1:粉砕とか殲滅とか。殲滅はそもそも革●以外使ってない気もしますが。

*2:〜的とか〜主義者とかいった造語を反復させる独特の語法。