我々は開き直るべきである。

噂話その1。

某大学は改称改制を経て昨今では官僚主義ファシストの教員を増やしているらしい。特に若手は無知であるが故に、無自覚に反動的態度を形成しているようだ。連中は大学当局ならびに制度にたいする抵抗や反抗は、単に排除していいものだと本気で思っているらしい。素晴らしい素朴さと愚劣さだ。


この整然としたシステマティックな管理運営への自然な親和性というか欲望は、極めて悪質であるが、残念なことに既に社会内に一定の根をおろしているように思われる。前世期までの社会の管理者たちが温情主義的で父権主義的な保守反動であったとすれば、今世紀の管理者たちは専ら技術的・道具的な合理性を信奉する一種の「技術者」――本来、中間的な存在であって目的を設置する権限も義務もなく、ただシステムの調整維持にあたるためだけに訓練され、しかしまたそのような思考様式が生の全過程にまで浸透している、そのような意味におけるテクノクラートになるのかもしれない。


経験から学ぶことのできない愚鈍な感性、環境としての状況への圧倒的依存、絶えざる無自覚さと狭量な視野、その他諸々の無知蒙昧さによってこうした人々は存在している。


彼らに前世紀の支配者と同じ儀礼的応答を求めても無意味だ。彼らは我々と同じように脱儀礼化しているし、形式は贈与応酬の実体を伴わなくても成立可能であることを体で知っている。


温情主義的再配分は生産力の向上が期待され、また事実によって裏書きされていた時代には、当然の礼節と美徳として承認されてきた。温情主義的篤志の精神は、けれども、社会の「旦那方」にとっては得策でもあったのだ。彼らの権威は強化できるし、彼らの生活様式や価値の序列、ついでに思考の形式といった全体に手を加えることなく、不平不満の無産者たちを黙らせることができるのだから。


敵対を顕現させ、闘争を組織し、勝利を制度化し、その基礎と反映を共に権利として固定すること――こうした社会闘争の目指すべき目標を蔑ろにして、空洞化させてきたツケが今の間抜けなファシストどもを生みだすことにつながったのだろう。