日本近代文学史に残る暴力DV男、机竜之介の思い出に。

madashan2008-05-24




http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127

からはじまって、

http://d.hatena.ne.jp/toled/20080523/p1
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080523/p1


とか読んで。問題の関心領域が微妙に異なるので、是か非かみたいな話がしたい人たちは読まなくても大丈夫。みんな、時間は無限だけど人生は有限だから有効に投資してね!



さて、大元のエントリは、経営学の先生であるブログ主が、学生たちに経済的合理性を教えるにあたって「トリアージ」なる概念から説明を試みたところ、「かいわそう」とか抜かす女子学生が湧いて出てしまった、というものです(そして、先生は大層ご不満な様で愚痴をこぼしましたとさ)。いい歳こいて幼稚園児みたいな情緒的反応をした女学生は責められてしかるべきなのです。大人は自分の思ったことや感じたことを話してはいけません。主題に沿って応答をするのが正しいふるまいというものです。そして、主題を決定してそれを強制するのは教師であり、ボスであり、大人たちです。こうした問題の一方的な設定とその強制は、権力関係という言葉で言い表されます。教育は非対称的な関係性に基づいて行われる暴力です。女学生は「かわいそう」と述べたが故に、この関係に楯ついたということになります。これは情緒的反応ですし、感情論に過ぎません。理性を支配する男子たるもの、このような女子供の戯言に耳を傾けてはならないのです。


可哀想だろうが何だろうが人はくたばります。非常事態にあって、有限である人的・物質的資源はこれを有効に使わねばなりません。結構なお話です。けれども、誰を助けるべきか/見捨てるべきかの「合理的判断」なるものは、そもそも緊急的で致命的な非常時であるがゆえにその妥当性を問うことが殆ど不可能です。結果に基づいて、事後的にその判断の可否を問うにしても、いずれにせよ前もって判断の正当性を問うことはできません。そして、現場における判断は常に決定的であり、事態と同じくらい致命的なものになり得ます。当然、そんな判断を押しつけられた医療従事者たちはトラウマを抱えます。というわけで、例外的な状況における判断の重大性を軽減してやるためにこそ、それらの判断の基準を前もって定めておく必要が生じます。つまり、組織的に、あるいは公的に責任を担保することが求められているわけです。


ここで問題が生じます。緊急時における判断は、それが「合理的」――しかし、何に対しての?――で「正当」なものであるかどうかに関わらず、それが端的に緊急不可避であるという理由で免責されます。この次元ではどんな判断でも妥当なものとなりえます。もちろん、これほど極端に抽象的で形式的な世界に人間は住んでいません(片足は突っ込んでますが。)。そういうわけで、通常はそれが本当に緊急不可避であったかどうか、言いかえればその行為なり判断なりが必然的であったかどうかに基づいて、正当性は判断されます。自由は、ここでは存在しうる余地がありません。人間は何をしても自由ですが、それが必然的である限りで正しいのです。しかしながら、人間が必然的であるものとそうでないものを絶対的な形で判断することはできません。


時間は人間に可能性を与えていますが、起こりうることは大抵、予め予想のつくことでしかありません。そして、人間は常に自由です。自由は極めて厄介な代物なので、我々はしばしば背負いこむことの出来ない責任まで押し付けられます。けれども、予測可能性が蓋然的な未来を教え行為の選択を狭めてくれることで、我々は行為の妥当性を認識できるようになります。判断の重大性と未来の不可知性から我々を救ってくれるのは状況の蓋然性です。命がけの判断なんてのはあまり嬉しくありません。人生において、時間を切断し新しい起原を生みだすような真似をする時は、大抵死にたくなります。革命は切断です。しかし、革命は通例極めて稀であり、ブルジョワジーはその到来に恐怖します。革命は戦争に似て余りに莫大な損失を生みだします*1。革命はまた、戦争がそれと擬えられるように、自然の災害にも似た抗しがたく予見しがたい運命的な暴力とも捉えられます。運命は未来の不可知性と宿命的な決定性の何れをも併せ持ち、我々を究極的で致命的な判断の自由に委ねます。しかし、また我々の判断は常に他人を巻き込む形でしかあり得ないので、ひとり行為者のみの恣意的な正当性や必然性を所有することも、また我々にはできません。


人命救助の現場では文字通り致命的な選択を迫られます。そうした状況では、たとえどれほどに合理的で蓋然的な判断(を可能にする根拠)が存在したとしても、責任の重大性は少しも減じ得ません。他人の生命の救助にあってもこれ程重大なのですから、人の死を間接的にであれ選択することは更に恐ろしいものであるように思われます。これが自由です。自由な者とは己自身を統治するものであり、つまるところ主権者であります。ホッブズ先生はかつて言われました、人間は最弱のものも最強のものを殺しうることを考えれば平等であると。要するに、人の死を決定する力は絶対的な形で権力を立ち上げます。暴力の機能は正当性の設定であり、正当性は権力に由来します。二者択一が権力の源泉であり、致命性(の可能性)に人間を曝すことがその能力です。権力は絶えず己の起源を反復させることで、人間たちが己を忘却することを禁じるのです。

例外的な状況における暴力は決定的なものであり、その決定が権力の源泉であり、それは人間の自由の本質です。

さて、例外的な状況とは極限状況のことです。そのような状況においては人間の判断はその可否を問えません。状況が致命的であればあるほどに合理性はその幅を狭めていきます。行為の後で判断するための仮定が成立しないからです。


他者をその手段としてではなく目的として扱うよう命じるあの美しい普遍道徳は、ここでは無益です。等しく価値を他人たちに認めるなら、如何なる振る舞いもその平等を損なうでしょう。緊急の非常時にあっては、どんな些細な振る舞いも暴力に等しくなり得ます。生殺与奪権、というものはそのような状況としての能力を意味しています。自由はそれ以前に起源をもたないことで自由足り得ます。人の生死を決定する能力は究極的な自由です。とはいえ、こんな自由はおいそれと欲しくはありませんし、できれば御遠慮願いたい代物です。運命の決断なんてものはアニメとかゲームの中だけで十分です。そこで理性の出番です。行為の以前には意味をなさず、行為の後では判断できない――そのような状況を合理化するためには、前もって決定を蓋然性の中に引き戻さねばなりません。その作業は死を死それ自体から引き離し、人間集団の中に線を引き、出来事の以前から既に待機中の死を用意します。権力が、無益な廃物と有益な資源とを選別する基準を設けるのです。例外状況における決定をして、常態での合理性に準拠させることは妥当なものでしょうか?もちろん妥当ですし、それどころか必然的です。何故なら、その時にこそ正当性は打ちたてられるからです。権力は今や二重の意味で己自身の正当性を打ち立てます。ひとつには、例外状況における決定によって自分自身の起原を設定することで。今一つは、そのような例外状況を無効化し、己自身の合理性を制度化することで。こうして、権力は過去と未来を現在のうちに掌握するのです。


予め待機中の死を制度化することは、しかしながら、緊急時の合理的行動とそれに伴う自由の軽減を可能にします。災害現場における人命救助はかくも過酷なものであるために、我々はトリアージとかいうカタカナ語を有難く頂戴しなければならないのです。根本的に腐った制度を必然的なものとして認めなばならないのです。近代のヒーローは運命に抗う悲劇の主人公ではなく、合理的必然性を運命として受け入れるメランコリックな皮肉屋さんなのです。ところで、こんな馬鹿げたゴミを我々が引き取らねばならない理由とは、一つには人間の命とかいう価値を認めて一人でも多くの人間を助けることに同意するからであり、今一つは、それによって現場の人間たちの合理的配備が可能となり、最も効果的な救助が可能になるからであります。そしてまた、哀れな兵隊たちの意識から決断の負担を取り除いてやるためです。とはいえ、そのためには、具体的な状況と具体的な基準を詳細にわたって検討する必要があります。合理性を打ち立てるということは、選択肢の有限性を狭めるということであり、それは蓋然性に基づいてのものとなります。日常的な選択の妥当性は未来の蓋然性と目的への合理性に基づいて判断されますが、予め無用な者を定めておくということは、例外的な状況を例示しうるものと取り換える作業にほかなりません。したがって、今やこれは問いうるものとなったのです。そこで我々は聞いてみたくなるわけです。これらの基準を定めるのは誰であり、それは何に根拠づけられているのか。そしてまた、その目的は何であるのか。何に従って合理的であるのか。権力は己自身を一層力強く定義づけました。しかしながら、そのような権力の真の目的は何でありましょう。我々の認許の理由である、人命の最大限救済は果たして実効性のある形で実現されるのでしょうか。いったいに合理的基準の合理的とは何を意味しているのでしょうか。権力にとっての合理的な目的とは、果たして我々の道徳感情の理性的回答である「最大限の救助」という原則と一致しているのでしょうか。そして、仁愛の情に由来する尊い生命とやらは本当にこのような形で価値づけられるものでしょうか。仮に、価値を計測可能な量的な単位として把握するのなら*2、その時どのような操作がなされているのでしょうか――こうした諸々の問いを我々は考える必要があります。それが腐敗した汚物を引き取る人間の義務です。


現状では、トリアージとかオモシロ単語を持ち出して悦に浸っている人がいるだけです。そもそも有限なリソースといいますが、そのリソースを増やす努力はなされているでしょうか?いつでもそうであるように、有限性や合理性が持ち出されるのは、その配分に与れない人間たちやそれに対して不満を持つ人間たちを黙らせるためです。

大体、例外的な判断の基準を前もって決めることは、一見するとそれらの事態を極限状態でなくするようにも思えますが、実際には違います。現場にあってはそのような基準があれば、全てが解決するというわけではありませんし、有効で実際的な指標が仮にあったとしても心理的負担までは軽減できません。仮に軽減できるとすれば命令という形態をとる場合だけでしょうが、その命令が「合理的」でありうるためには命令者もまた個々の現状と医療に関する知識を持たなければなりません。そうした具体的な判断に関する検討の外では、トリアージなる単語はただの思考停止と開き直りの正当化*3しかうみだしません。そして、いつもの如く、その背後で密やかに何かが進行していくのです。


合理性それ自体を技術的な枠組みとして設定してやると、お頭の沸いた人たちには何が問題なのか理解できなくなってしまいます。理性には目的の正しさを検討する能力はありませんし、人間には最終的に情緒に由来しないような如何なる正義もありえません。男子学生は易々と<合理性>の軍門に降りました。男にとって理知的で社会的な――即ち公的な態度とは感情を抑圧すること以外の何物でもないからです。そして、このような公的態度とは大抵の場合、形式のみの無内容な代物です。感情が反論として提示されるのなら、待ってましたとばかりに、彼はそれを愚劣で低能な振る舞いとして遮断するでしょう。自己満足的な決断の悲壮感と他人に対する大仰な切断操作が、彼にしみったれた優越感をもたらします。しかしながら、この振る舞いは女子供の感情的絶対性に決して打ち勝てません。期待されていた優越感が機能しないのなら、男にとって理性的態度はチリ紙程の価値もありません。だからこそ、女子供は度し難いのです。彼女たちは男たちの目的を共有せず、集団の紐帯をその我儘――私的感情の衝動によって破壊するからです。


ご自身の感情に素直だったお嬢さん学生は、頭の足りない男子学生よりも遥かに本質的な部分をついたのでした。不満や不快感、憐憫や怒りといったものは根源的な疑義をもたらしてくれます。そして、それは何時いかなる場合であれ「合理的」なのです。



追記:

ところで、ビジネス本の類が戦争のアナロジーを使いたがるのは何故なんでしょうね。経済誌の見出しをみると、戦国武将の戦略に学ぶとか、名将の叡知を見習うとか、ほとんどビョーキにしか思えないフレーズが飛び交っています。あれは何なのか、本当に不思議。経営者の人はそんなに運命的な瞬間に生きたいのでしょうか。誇大妄想にとり憑かれたオヤジ的感性が経営者の美徳なのでしょう。オヤジ的感性は己の不能感を代替的に充足させるべく、幼稚なヒロイズムや神経症的な悲壮さを求めるものですが、経営者たらんとする人間にはそのようなマチズモが要求されるのでしょうか。趣味の悪い話ですな。



■結論


こんな長文読んでる暇ねえよ、ボケ。という全はてな非常委員の皆に結論だけ端折って教えるよ!。要するに君らの「合理性」だの、「最適解」だの、「一般性」だのといった寝言について僕は知らないし、知る必要はないという話だ。

ところで、君ら、人の子たるワタクシ様が分かりやすい隙を作ってやってるのに、誰一人として「スターリニスト」という突っ込みをいれないのは何故かね。ちなみに、ボルネタは大好きですがボルシェヴィズムは嫌いです。同様に極左冒険主義は大好きですが、トロツキストは嫌いです(トロツキー本人の性格の悪さは言うまでもないよね!アイツ、一緒に居たくないタイプだよ、絶対。)。以下同様に、各自の選好に従って同型の文を無限にを作っていってください。




( 080524加筆修正

「合理性を技術的水準にまでもたらすと」→「合理性それ自体を技術的枠組みとして設定してやると」

あとは最後から二番目のパラグラフにいろいろ加筆。)

*1:しかしながら、戦争が幸福であるような人があまり居ないのに対して、大多数の被抑圧階級にとり革命は最大限の喜びでもあります。

*2:<生命の尊さ>はこのような形式を必然的に要求するでしょう。

*3:感情的な反発への応答を拒絶することで、論者が自らを防衛するのであれば、それは逆説的に感情的な代物でしかありません。理性的であるためには感情に対して、「説得」という試みがなければいけませんし、それは感情を否定することではありませんし、ましてや相手を馬鹿扱いすることではありえません。ちなみに、ワタクシ様は理性的態度をとるつもりは毛頭ございません。