漢字と表意文字

漢字とか好きだし、ひらがなとカタカナだけで生きていくのは正直しんどいなあとも思うけど、ただ、昔から思ってることで、言語自体がバリアブルって話と絡むのか分からんけど、表意文字表音文字の複合言語って実はものすごくヤバい代物なんじゃないのかしらとか。まあ、電波な話に聞こえるかもしれませんが、表意文字ってすごく「知」のヒエラルヒーを強化するところがあるような気もするし、それでいて表音文字も文法の根幹にしっかり据えられているから、ますます観念と現実の関係が分かりづらいし、おまけに故意にあいまいにされるきらいがあるようなないような感じがするのね。漢字知らないと難しい本読めないけど、漢字のせいで余計難しくなってるとかいうのもあるし。てか、日本語における漢字って何なんだろうね。当て字ってことで終わらないのが問題かしら。いっそ、すべてローマ字で済ませればいいのかしら。

そこでエスペラントです*1

でも、音声と文字の関係一般に関する批判とは別個の批判原理が必要なのかもしれない、というのは結構真剣に思います。ワタクシ様の子供のころから「日本語の乱れ」とか言われて久しいわけですけれども、むしろ全くびん乱されていないように見えます。だって、相変わらず漢字使いまくって平気じゃない、皆。敬語だの小難しい漢字だのを日常的に要求されていることが問われるべきです。漢字があり続ける限り、もしかすると根源的な批判が成立しにくいのかもしれないとさえ思えてきます。だからといって、突然漢字を使わないで文章を書くとかいうこともありませんが、まあ、なにかと気にかかる話ではあります。

思弁的な話でなくとも、実社会の中での言語のバリアフリー化は圧倒的に遅れているように思います。というか、今の方向からいくと何処まで行っても既にマジョリティーのものである環境にマイノリティーが適応することを補助する、という枠組みは不変なので、そここそを打破しなければいけないのかもしれません。元々、この辺の話に興味を持ったのは非母国語として日本語環境に生きる人たちの日本語学習という問題意識からなんですが、ぼんやりと感覚だけで考えていくと、日本語の言語的特性の問題が、自分たちに当たり前のことも他人にとってそうではないという簡単明瞭な話を厭うヤポネシア社会の問題とパラレルな気がしてくるから不思議です。ほんとにふしぎ。

*1:ワタクシ様は一文字も知りませんが