弾圧は弾圧であって、それ以外のなにものでもない


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トラバを頂いたのと、いい加減忙しいとか理屈つけて何もしないのもアレなので一応、エントリを上げようかとか思ったけど、今回は参加もしていないので何か書くべきこととか思いつかない。ので、以下は情報性も批判性も、要するに読み物としては価値がない愚痴なので読まなくていいよ。ほんとに。まあ、結論だけ先に言うと、ナイーブに自分たちの行動が無害なものであり、権威や権力に対して挑戦的でないと本人たちが思っているからといって周りはそうは見ないし、国営ヤクザや合法マフィアどもが何を判断の基準とするかについて前もって了解していない態度というものは恐らく頭の良いものではないし、あまり褒められたものではない、というのは事実ですけれども、ある事柄が事実であり、蓋然性や予見の根拠となるにしても、道義や正当性は単なる事実ではないし、もっと言って、自分たちが理屈に従って純粋に観念的に物事を判断している、いいかえれば「中立」的な立場で物事を述べていると見なしていても、現実における判断は常に敵対性や親和性を他の媒介との間で取り持つことになるわけだから、そんなに現実と行為に対して厳しい見方を要求したいなら、自分たちが一方の側に忠実に仕えているという霰もない事実を認めればよいかと思われますことよ。

閑話休題。で、何が問題になっているかというと、去る26日に、フリーター労組が「麻生邸見学ツアー」というイベントを企画して実施したところ、例によって例の如く公安の屑がなんくせをつけて強引に三人を逮捕(拉致)した、というそれだけの話なわけで、不当性も正当性も見たところ明らかなわけですが、例によって例の如く素敵な人たちが喚いている状況。

あのさー、告知だして集めて行動すると「無届けデモ」なの?口実とか客観的意味とかものは言いようだけど、どうせ「運動」系の、いいかえれば「政治的」であるからこそオマワリの行動を合理的なもの=妥当なものとみなしてるんだろうけど、それって、要するに「政治的」なニュアンスのある行動ってのは規制の対象になってしかるべきだとか思ってるつーことなのかしら?オマワリに可能な限りの「自由」を権限として認める根拠は「政治的」な集会やら行動それ自体を最初から否定的で消極的な位置において判断してるからだし、何が「政治的」であるかについての判断がオマワリにゆだねられている現状を認めているわけだし、さらに言えば、それこそ客観的に見ればオマワリの物の見方をトレースしてるだけでしょう。まあ、そんなのが湧いてくる状況でどう語ればいいのか、見当もつかないよね。

とはいえ、本当のことをいえば、ここ二三ヶ月まったく――それこそネット上で情報にアクセスすることも含めて――その手の問題圏に関わっていなかったので、純粋に感情的な部分で全く受け付けないというか、意味分からんつーのが正直なところだったりするのでどう書いたものかと迷ってるだけなんですけど。

つーかな、普通だったら色々理論武装したり理屈こねたりしてとにもかくにも批判や反対(あるいはそれに対する反対や批判)というものを形式的に成り立たせる作業をするわけですよ。法的不備に対しては事実と理論の両面から、つまり単なる事実よりもずっと奥深い価値や意味の次元においても批判というものがあって初めて論駁だの主張だのは成立するわけですから、当然にも何かを述べようとするなら他人たちにとっての論理や筋道というものをわきまえたり、頭にいれて書く必要があるわけです。

でも、今回の不当逮捕に関してはオマワリがクズであることは自明なので放っておくとしても、主催者側の不備って何?という感じ。これ認めるのって、運動に対するオマワリの恣意的な目的と意図を事実の領域ではなく、正当性の領域に置くのと同義だと思うんだけど。手続き的な瑕疵を理由につけこまれる、というのがミスであり不手際でありオウンゴールな振る舞いであるとして、君らはあれか、運営スタッフか何かのつもりか、つー。というか、手続きの要求を完璧に満たすことは不可能だし(どうあっても、最終的な判断の根拠はオマワリのものでしかないから)、最低限満たすとしても敷居はうんと高くなるし、そもそも何で行動にそれほど多くの理由や条件がつけられるのか、それが真っ当な形だと思えるのか、もうサッパリ分からないのねん。

もう、正直な話、いろいろと理屈つけて話すのが面倒なんですけど、だって、デモだの集会だの抗議だの――あるいは批判としての社会的な・集団的な行動を起こすのに何でそんなに御大層な理屈やら複雑なロジックやらを駆使しなければならないのかさっぱり分からないんだもの。何で、そんなことしないと正当化できないのかしら。

というか、要するにオマワリのお先棒担いで勝手に「正しい理屈」を持ち出す人も含めて、およそ認識の有り様そのものが決定的に間違った人たちばっかりって話ですよね、これ。法的不備だのを一々大問題であるかの如く取り上げて、その実、目的あるいは立場に対する反対でしかない人というのが自己欺瞞的で倒錯的である、てのは凡そ常識に属する事柄なのかもしれませんが、これのオイシイところは自分が実際にやっていることと感じていること・思っていることの不一致に目をつぶることができるということでしょうか。うん、だって、君ら、あれだろ、法的不備が見つからない限りはオマワリの行動――つまるところ、恣意的な判断や目的――を規制することはないとか思ってるだろう。ある不備や瑕疵を口実にオマワリが目的を達成したとしても、言いかえれば法の規定をダシにしてオマワリが行動することに何か根本的な問題を感じないわけでしょう。それって、もう絶望的じゃないか。

いや、元から頭使うの嫌いだから良いんだけど、説明することに意味あるのとか思えてくるよね。予め立場を決め打ちしてくる人たち、言いかえれば多くの場合がそうであるように単なる「サヨク」嫌いの偽善的「偽善」アレルギーの人たちはどうでもいいけど、何の先入観もなくオマワリの恣意的な振る舞いを許容してしまう精神というのが一般的で支配的というのは、いや、うん病気。

政治的な行動の敷居が高いのは「サヨク」がどうこう以前に、感覚的次元において無根拠に既存の秩序を必然的なものとして、必然性を道徳的質と取り違える幼稚な有り様の所為なんじゃないのかしら。こんな体たらくだから、「あえて」とか「メタ」だとか言う理屈は胡散臭い代物にしか見えないんです。後期近代の社会はシニカルさが特徴らしいですが、冷笑的でも何でもなく単にそのまんまベタに生きたらこうでしたってだけなんじゃないの。だったら、ベタにこっちも反ファシズムとか反警察とかやっていくしかないよねー。

家見に行って無届けデモとか言うなら、オフ会は無届け集会かよ、とか言いたくもなるけど、凄く素直に「オマワリに大目に見てもらっている」的な認識を示しそうだしさ。秋葉原の路上問題ではそういう見識のがちらほら見られたわけだし。まあ、そんなわけで、一々すり寄って理解を求めてもあまり意味はない気がしてきたので、好き勝手でいいやとか思い始めました。だって、理屈こねる人が一番理性から遠いんだもの。尊重して話し合う必要とかあるのかしらね。そんなんなら最初から言い訳のいらない形でやった方がよほどいいんじゃないの的な考えもそらあ、浮かびますわね。単なる事実に従順な人たちみたいだしさ。

とりあえず、合法マフィアは拉致した被害者を釈放して謝罪しろ。



追加:
でも、逆に言うとそういう社会においては何らかの保障となる集団は必然的に要請されるとも言えるよね。だって、実力を伴った形で抑圧しておかないと、平然とファシズムやりたがるわけでしょ。権利は具体的な闘争によって保証され担保されるつー出来の悪いクソ「現実主義」にも幾ばくかの真理はあって、バックのない人間には権利など統治権力の胸先三寸みたいなことを嘯く人間てのは大抵の場合、自分が予めそのような立場には立っていないし、そうするつもりもない限りでしかものを考えていないわけですが、そういう人たちばっかりの世界にあっては逆説的に労働組合だの政治的圧力団体だのの有用性と必然性が生まれるわけで、早めにローカルな単位でも社会的中間団体を持っておかないと、益々貧乏になって落ちこぼれていく人たちは、ほんとに生活レベルで困ることになるような。まあ、だからこその社会的政治的集団に対する恐怖であり、嫌悪だともいえるんだけど、それを言い出すとホントにファシズム社会ということで話が終わってしまうのでそれはそれでアレだ。