労働と仕事と職業と

前回のエントリがわかりにくいとの評判ですが、皆様方は大きな誤解をしていらっしゃいます。ワタクシ様はブログを立ち上げた当初から申し上げております通り、脳内・電波・反日の三拍子がそろった革命的ネットアイドルなのでそもそも文章を理解しようとする姿勢がおかしいのです。ついでに言わせて頂ければ、昨今では時間を切り売りするという労働に特有の弊害によって、本気で自分でも何を言っているかよく分かりません。というわけで、文句は好きなだけつけて頂いて結構でございますけれども、何かを期待するのは無意味かと思われますので、そこら辺をご考慮頂いた上で、労働と消費の絶え間ない拷問を耐え忍んでいかれるのがよろしいかと思われます。


さて、ブログのエントリを大別するのなら、何時しても変わり映えのない話題とその時にしか意味のない話題の二つなわけですが、どちらにせよあまり読んでも仕方がないというのは変わりません。ワタクシ様はといえば、人様の斜め下を行くのが大好きなのでその時にしか意味のない話題を皆の興味が過ぎ去った時期に思いつきで出していく方針です。まあ、実際は時期を逃してるというだけなんですが。たとえばですね、蒟蒻ゼリーとか大好き!特に喉に一瞬詰まる感じが!とかニュースを見た瞬間に思いつくわけですが、PCの前に常にいるわけでもないし、更新できるような環境にいることの方が少ないのでどうしても速報性はなくなります。別にそんなものに命をかける筋合いはないのですが、家に帰ったら帰ったで直ぐにブログのことなど忘れて今度は余人の興味を惹かないようなたぐいの事柄ばっかやっているので、いずれにせよ賞味期限は大幅に過ぎていきます。腐ったころになってから気がつくのが冷蔵庫の奥底にしまい込んだ謎のタッパー類というのが、世の常なので、そろそろワタクシ様も年末の大掃除に向けて冷蔵庫の整理をしようと思います。何時作ったのかも忘れたミートソースとかが冷凍庫で凍っておりますし、何時買ったのかも忘れたジャムが不穏な色合いになっているので。


まあ、それはそれとしてですね、サルトラ先生のブログからトラバを頂いていたんですが、反応しそこねて、徒に煽りコメントを書くのも如何なものかという感じで放置していたら、何やら話題についていけなくなった例の野宿者と労働のお話ですけれども、ところで、当該エントリのコメント欄に貧乏人やら野宿者やらが公共財をかすめ取っていくとか何とか寝言を抜かす人がいましたね。で、怠業の人とか無業の人とか無職の人とか、まあ言葉は色々ですが、要するに収入のない人が公共サービスを享受することが不当であるとの根拠といえば、税金を払っているか否かみたいなどうでもいいことなわけですが、ところで、公共サービスって商品だったんでしょうか。そして、もっと疑問なんですが商品って必ず価格がついてなければいけないんでしたっけ?大体、公共サービスが仮に対価に対する商品だとすると、一体税金を払っている外国人は何故正当な受給者と看做されず一時的なゲスト扱いなんでしょうね。わかりやすくネオリベやりたいなら、より多く払った人だけがサービスを享受できるようにしてしまえという発想になるもんだと思うわけですが、そこはヤポネシア民共和国なので国民てな要件だけは外しません*1。じゃあ、その国民は平等であるかというと実体としても価値としてもそんなことはなく、事実においては逼迫した財政を理由に貧乏人は切り捨てられていくわけですし、価値としては唯一の正当性の根源たる<真っ当さ>の表象として勤労が依然として排除の原理としてまかりとおっているわけです。でも、その真っ当さは何処を向いているかというと大体において他人を抑圧して現にある不正を罰であるかのごとく耐え忍ばせるためにしか機能しておりません。言いかえると、彼・彼女が不正を働いていると見なされるのは、その振る舞いや性質から判定して<怠け者>であるが故にではなく、貧しいが故に社会的保障を要求する正当性を持つにも関わらず、そうであるが故に――つまり貧しく、また保障を必要とするが故に――怠惰だとされるのです。なんとなれば、貧しく保障を必要とすることは悪徳とまではいかないにせよ、社会的に劣った状態であって、劣位にある人間にこそ謙虚さや自分自身の状態に対する恥辱の観念が要求されるからです。つまり、哀れな人間でなければならないのです。きもいですね。


まあ、そういう半分くらい揶揄であるような物言いは措いとくとしてですね、よく言われるこの手のフリーライダー論が奇妙なのはじゃあ、フリーライダーじゃない正当な享受者は誰かという話になると、現実的にはそんな保障を必要としない人しか残らないということです。貧乏人は一生懸命苦労して保障されている状態を抜け出さねばなりません。何時までたっても貧乏なのは本人が怠惰だからです。貧乏人のくせに偉そうにマトモな扱いを要求する人間は我儘です。社会保障は他人の金で食っているのと同じとみなされるので、本来的に恥じなければならない否定的な状態なのです。何時でもそうであるように、道徳とか規範意識は下方に向かうにつれより厳格になっていきます。金持ちは金持ちであるというだけで仕方のない存在であり、より自由であることが可能です。というのも、金持ちはその所得によって集団的な共有財の恩恵から排除されても生きていけるからです。ところで、公共財が単なる限定されたメンバーによる共有財産であるかのような錯覚は奇妙な話ですけれども、しかし、その共有財産本来の目的というのは一体何なのでしょうか。仮に集団的な保障であり、保険であるのなら、それを窮地に陥った人間が使うことは正当なものであったとしても、何をも臆する筋合いはありません。そして、集団的な財産が有限であり、その点において現実的には限度というものが設定されなければならないとしても、その正当性は専ら事実に依拠するのであって、どの程度の額面が実際にどのように使われたかが先ず問われる必要があり、しかもその際に肝要なのはそもそも保険や保障が人間の生活――つまり、あれやこれやと節約し自分自身を制限し抑圧し耐え忍ぶだけの生存ではないような生――を支えるのでないのなら、そんなものは意味をなさないということであります。ええ、皆様おっしゃいますね、無い袖は振れないと。人格が当初より問題にされるのではなく、その有限な資源を如何に分配するかという水準に至っては否応なく人間の資質というものが問われてしかうべきだと。ワタクシ様には転倒した議論に思えますし、皆様がたの関心は資源が有限であることではなく――というのも、それは最初から前提とされているので――、ふしだらで怠惰な悪を見出すことにあるようにも思われますが、それはそれとして。さて、財源がないは昨今の役人の言い訳としては最早使い古された感すらありますが、ここで興味が惹かれるのは現にある財源の使い方に関する問題は殆ど実際のところまともに取り上げられてはおらず、単に何か新たな提案があるたびに旧態依然とした慣習的制度を防衛するために持ちだされるエクスキューズに過ぎないという辺りでしょうか。しかし、まあ、そんなこと言ったところで、良く分からんものは分からんし、本来の関心が他人を揶揄して貶めること以外にはない以上、お偉い人たちのやっている予算配分に文句をつけるのと貧乏人や母子家庭や野宿者――しかしながら、その大半がうくべき正当な権利を保有するところの社会保障など享受してはいませんけれども――の道義的資質を云々するのとは全く違った次元の話に思われるのでしょうから、有り体に言わせて頂ければ無意味です。でも、よく考えて頂きたいのですけれども、そもそも皆さま方が自分自身に使われていないことに憤っていらっしゃるのだとするなら、解決の道は案外分かりやすいものとなるはずです。財源がない?いやいや、金なんてあるところにはありますよ。金持ちからふんだくりましょう。企業や銀行がしこたま貯め込んだ金は誰のために使われるべきですかね?おや、公共精神が篤く奉仕と利他の志に燃える皆様方ともあろう方々が今更、何を躊躇するのです?私有財産に手をつけるのは不当だとでもおっしゃるんで?公共財は将に公共のものであって、「みんな」が個人に優先されることを道義として持ち上げる人が一体全体どうしたことでしょう。おかしいじゃありませんか。皆さんが公共財を盗み取る怠惰な社会の屑を排撃された論理の筋から言えば、公共のために持てる者が奉仕するのは良いことであるし、それを所有権とやらを楯に突っぱねるのは如何にも公共心を欠いたロクデナシのすることではありませんかね。ああ、付け加えさせて頂ければ皆さま方は権利とか自由とかもお嫌いであったはずなので、所有権てなものを尊重しなければならない理由もないでしょう。過疎地に原発やらダムやら建設する論理と変わりませんよ。ええ、資産が流失してしまうとかまことしやかな詭弁に騙されてはいけません。単に事実の問題であるならば、事実で対応すればいいだけでしょう?それとも、貧乏人は暴動を起こす権利を持ち、事実としてもそれが認められるんでしたっけ?


「みんな」てな単位を全体に対して平等に適用するつもりがないのは、皆様がたの理屈とそれを支える感情的な動機や情動が実際には奥深いところで矛盾しているからであって、この矛盾を解消すること――言い換えれば、全体的な整合性を復帰させるためには皆さま方の理屈が明瞭に一方の側を向いた特殊利害に基づく――しかしながら、己自身の現実的な利害とは必ずしも一致しない――価値観に支えられていることを認めなければなりませんし、そうであれば、そんなものを全体としての「みんな」が共有すべき普遍的な価値と看做す筋合いは何処にもありませんし、ましてや偉そうな顔をして他人を裁いてみせることのできる道義的審級とすることなど論外というものです。


御自身の生活や具体的なその基盤と無関係であると知りつつも、媒介的にもたらされた観念的な表象に対して己の偏向した価値観に基づく裁断を選好することは皆さま方の自由でございますけれども、そんなものは他人が尊重する謂われなど何処にもありませんし、いずれにせよ皆さま方がなさっていらっしゃることは単なる追認や事後承諾であり、その事実を正当性の次元とすり替えることによって運用の実態を司る権力を強化しているに過ぎません。なるほど、皆様方は自分とは関係がなく、また直接的に手を下したわけでもないとの意味においては批判の対象として相応しくないと仰るかもしれませんが、ある活動や現象の主体ではないということが即座に免責を意味すると考えるのは大層愚かしいことです。


明確に選んだことに責任が発生するのもさることながら、何もしないという不作為が何も結果せず何も意味しないことなど無い以上は拒否や沈黙もまた行為であり、有限的とはいえ責任が発生するのだとの極端に厳格な論理を適用する気は毛頭ありませんけれども、お忘れになられないよう申し上げておけば、皆様方の御使いになられた論理それ自体は皆様方がどのような感情、どのような動機、どのような打算と欲求に支えられていたかとはまるで無関係に皆さま方自身にも適用されるのですし、本来的に言えば己自身の言説が絶対のものとして適用されるべき範疇は己を先ずもって第一のものとされるべきです。従いまして、事実においても、論理においても皆さま方は皆様方各位のご選好に基づいて判断された価値や道義や規範の指し示す方向に対して有限ではなく無限の責任を有されるのでございますし、その限りにおきまして発言には気を使って頂きたいと思われますが、自分の首を絞めることがこれ以上気に食わないと、そう皆さま方が本当に思われるのであれば、やり方はただ一つではないにせよ限られたものとなります。いずれにせよ曖昧な状態に自己を置くことで得られる利益と自己自身に対して決定権を有することの損失を天秤にかけられた上で判断して頂くことになりましょうが、放っておいても皆さま方の大半は落ちこぼれるのが必至ですし、今現在ですら配慮などこれっぽちもされていらっしゃらないのが真実というものなので、その点を鑑みご決断頂くのがよろしいかと思われます。


平たく言えば、所有権の絶対性も公権力の絶対性も認めたことがないワタクシ様からすると金持ちからふんだくって分け前に与るのが正しい下層大衆の有り様かと思われます。別に美徳や有徳の心を己自身に課して、以て他者への嫉妬や偏見を律しなさいみたいな道徳精神を説くつもりはこれっぽちもないので、他人を蔑んだりやっかんだり妬んだり軽んじたりされるのはご自由にとしか申しようがありませんけれども、その理屈の方向が自分の利益と食い違うかもしれないことくらいには自覚的になって頂いてですね、利益と友愛の釣り合いをとられるのがよろしかろうと思われますことよ。まあ、貧乏人を同志とするよりも金持ちを友としその価値を共有することで己の精神的優越感を確保したいという素敵な感性をお持ちの方もおりましょうが、それはそれで他人のすることなのでそこまで明瞭に決断された方に何か言う気はございません。少なくとも、対話のコストを費やすという意味においては。

*1:まあ、つうよりはそうした<国民>観念一般の標準化と強化をも含めた運用の実態こそがネオリベなんだろうけどさ。