働かない、働けない、働きたくない

あのさー、労働の話って皆にそれなりに通りがいいつーか、意外とワープアだ日雇いだ派遣だてな話はそれなりの理解をしてもらえるみたいだけど、でもね、時々思うのは話してることの一割もホントのところ理解されてないんじゃねえのってのはあるよね。

うん、つーか、同情とか義侠心とか憐憫とか――まあ、僕もいい加減大人なんで一々それら全てが悪いとかキモイとか言わないし思わないけど――そおゆう文脈に乗っかって話を聞いてる人たちってのがかなりの割合いて、その手の人たちにとっては問題は社会それ自体の構造でもなければ人間の社会的活動の基本的な部分を支えている制度的な枠組みでもなくて、単にそれ以上でもそれ以下でもないような単なる心情の問題でしかないし、しかもその心情というやつが厄介で情動は生活の中での基本であって畢竟意志において否定されるものでもないし、行為を規定するような論理の選択によって対立的なものとして捨象されるとも考えられていない。それはいい。別に感傷的であったり感情的であったりすることそれ自体が悪いわけでもなんともないし、少なくとも社会的な生物としての人間の行動を支える重要な契機であることは確かなわけだし、その点において否定される謂われはない。でもね実際のところ、情動の大半が友愛に基づくわけでも善意を促すわけでもなくて、むしろ行為から切り離されているその限りでしか情動を消費しようとはしないし、その時には行為から切り離されているからこそ自己充足的にお題目を求めるけれども、同時に距離が現実への加担を冷笑的で否定的なものにしてしまうし、他方でこの自分自身の情動それ自体への無反省は生活全体を規定して規範価値を与えるところの制度的な枠組みに対しての無自覚さを伴っていて、そうした枠組みを秩序として進んで引き受けるきらいもあるから、あっちで同情したと思ったらこっちでは平然と否定的な評価――というか、これも彼・彼女には一つの抑えがたい感情としてしか理解されないのだろうけれども――を下して、ご丁寧にも理屈めいた戯言まで用意し始めるわけでしょう。あれ、何とかならないのかしらね。

いや、問題は多分労働それ自体が理解されていないというか、労働つーより仕事って言った方がニュアンス的に近いような観念が働くことの内実を規定していて、つまりは誰も労働なんて好きでもないし肯定しもしないとしても、仕事と一言言うだけで何やら他人にあれやこれやと強制したり、押しつけたり、期待したりできるような物事の否応なしの秩序それ自体であるかのような錯覚がもたらされるわけで、しかも、結構本人たちもそれが好き、ていうな。あれだ、あれ。

労働なんてホントは皆どうでもよくて、正業てな言葉に代表されるような真っ当さこそが問題にされてるんじゃないのかしらとか思ったけど、それって絶望的ですね。口には出されないし出される時には確定的で明示的であるが故に最早真の動機から離れてしまっているような類の無意識的で無自覚で、また集団的であったとしても個人的ではない――そういう種類の信念の体系というか染みついた身振りというか、発せられた言説への対応として現れる批判や反駁が決して届かない感じがするのね。というのも、自分たちが現に考えていると思っていることと感じていることの基礎が矛盾していたり乖離していることそれ自体に無自覚だから。

だってね、労働問題とかややこしい話を嫌う一方で、すごく率直に「哀れな」貧乏人の表象に萌え転げるし、そうかと思えば平然と「我儘で」「怠惰な」「社会不適合の」存在として散々非難してみたりするわけでしょう。貧乏人も外国人も、ある意味では「犯罪者」に近くて、つまりは社会的にいってマージナルな存在とみなされているわけだけれども、ところでそれではノーマルな存在って何よつったら実はあまり注意を払われてもいないし、それ以前に自分がどういう社会的な立場に位置するかなんてことはほぼ気にしてない。

社会的評価というか取りあえず人間として、しかも単なる人間ではなく社会において自分と対等に権利を持つ――法の認めるあれこれではなく、正当な成員として平等に扱われる必要があると考えられる、という意味におけるそれ――存在として認知されるにあたって、「働いていること」てのはどの程度の比重を持つのかしら。働いているからって特別尊重されないし、理解を促進するようなこともないけれども、反対に働いていないというそれだけの話で何やら非難される謂われがあるように看做されるのは、最初から相手を尊重する気も認める気もないからなわけだし、詰まる所何か不手際や不備があればすぐさま他人を蔑ろに出来ると思っていると告白しているようなものではないのですかね。

それとも、あれかしら、何も考えてないだけなのかしら。労働てのは否定的必要条件としてのみ認知されていて、本来的な社会的評価の根底は「職業」の彼是であって、その実、ホワイトカラー労働者とか「庶民」的な自律と自由のシンボルたる自営業者とかそおゆう割合しょうもないイメージでしか他人を評価してないのかしら。まあ、ヤポネシア人民の皆さんですから職業差別とかいった排除と包摂の規則が大好きなのは分かるんですけれども、社会的緊張と敵対が何時でも自分だけを除外して認知されるのはどうにかならんのかしらね。むやみやたらと明示されない全体を想定しているように見えるのも、その実、他人たちを認知するやり方が自分と世界を切り離して行われるからなのだろうし、しかも尚、性質の悪いことにはその無反省な自分自身の規範価値や選好をのっぺりした一般性の中に融解させてしまうということにあるんでしょうなあ。あー、働きたくなーい。


あ、それはそれとして、本題なんですけどね、明日なにやらデモがあるらしいですよ。例のナイキパーク問題で。

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まー、渋谷の街中を車道から見渡す経験は新鮮だと思いますよ。ほら、何時もはそんなことしようと思ったら深夜とか早朝にしか出来ないじゃないですか。しかも、そんな時間に渋谷に居る理由ってのは大体、飲んだくれて終電逃したか、残業で天辺超えたとか、そういう気分が滅入るような状態でしょう。それはよろしくない。おまけに暗い。やはり、真昼間からおおっぴらに路上を占拠するというのが人間的には一等よろしいかと思われます。ええ、是非皆さま方もですね、祝日のレジャーとして往来を練り歩いて大騒ぎして頂きたい。

え、俺?9月からこの方、まともに休んだ記憶がねえよ。おっかしいなあ。週末は一応、休みだったはずなんだけど。うーん。8月はそれなりに暇だったような…。あー。盆明けに何か少し動きだしてるな的雰囲気で…九月頭に何やら立て続けに仕事があって、それ終わったと思ったら長期戦の構えでそこから…みたいな。あっれー?

それにつけても働きたくない。働けない。働かない。労働空間におけるサボタージュとボイコットだけが生きがいです。まあ、しかし、働きたくないと働けないは同じだと最近気づきました。つかな、俺、偉い人やらクライアントやらがいる打ち合わせだの会議だので必ず居眠りするねん。なんていうか、眠くなるんだよね。他人の話を黙って聞いているとか耐えられない。だって、座って神妙にしてると暇だしさ、つまらない話しかしてないしー。ああ、この感覚はあれだね。学校で教師がしゃべりだすと物凄く眠くなるという。あと、勉強すると昔から熱出したり蕁麻疹出たりしてたんですけど、最近は働いていると頭痛がひどくなり便秘になります。全身が労働を拒否している!みたいな。

まあ、そんなわけで怠業大好きなワタクシ様としては公園が労働と消費の場に造り替えられるのは御免です。