先日のエントリも整理していなまま、適当な覚書でお茶を濁しておきます。

ところで、先月に引き続いて東京メトロid:romanceセンセイに喧嘩を売っている件について誰も触れていないのは、余計なことに首を突っ込んで火の粉が飛んでくるのを恐れているからでせうか。多分、来月あたりに東京メトロとromanceセンセイの間で抗争が勃発して、菅原文太風の誰かが腹にダイナマイトを巻いて東京都交通局にかちこみに行くんだと思います。あのポスターを企画立案した奴は明らかに狙ってやってるのだと思いますが、海の次は山で、じゃあ、その次はどうするんでせうね。そろそろ爆弾が登場してもいいころなはず。


さて、しかし、まあ、なんといいますか、いい加減、口上とか観念の言葉遊びはどうでもいいので、具体的なもののなかで考えるようにしないと何時までたっても書生っぽのまんまですな。書生なんて一度たりともやったことがありませんが。で、全然関係ない話題ですが、否定一般について考え事をしていたら社会党がかつて何でも反対社会党なんて言われてたことを急に思い出した。僕が生まれる遥か前の話なので(少なくとも僕にとっては)所謂書かれた歴史に属する事柄になってしまい、その意味では判断が不当性を帯びる可能性が多々あるわけですが、個人的にはとりあえず『何でも反対』で良かったんだと思います。それ自体が体制を補完する機能を果たしていたことも否定しませんが、ハードな問題設定と現実における局所的で具体的な立場を定めてみても、そもそも<国民>一般的な抽象観念を好む連中には受けなかったでしょうし、特殊利害の普遍的理念への置き換えなんつー面倒な作業を誰も望んでいないどころか、ヒロヒトちゃんをアレなまま放置プレイしたつけなのかどうかは知りませんが、そもそも自他の区別もつかず社会における諸集団の分割も思考生活においてはついぞ獲得されなかったというか、むしろ抹消する方向で頑張っていたようにも見える戦後の政治空間ではあれは真っ当なやり方だったんだろうなあ、と。つか、昔からインテリの遊びとか観念論とか主義や政治信条しかないとかいった批判の作法がそれはそれは大好きな方々がいらっしゃるわけですが、55年体制とかいう愉快なテンプレが名実ともに崩壊したと思われる昨今になって思うことに、結局、そうやって否定している当の枠組みを心底必要としている変な人たちが意外と大勢いて、そういう人たちにとっては自分をオミットして自己決定から本来的な責任を除外できるような対立軸がないのは相当困ることらしいです。「社会党」ではなく「左翼」って言葉で考えると余程分かりの良い話だと思われますけれども、あんなよく分からん曖昧な語句で何かの薄っぺらい対立項を指示した気になれるのも、そうした二項対立の枠組みそれ自体にぶら下がることで自らの社会的諸関係と観念生活を両立させていたが故であり、その意味するところはこの二項対立を社会の客観的表象とみなすことで自分自身の社会的・政治的立場というものをネグレクトしたままでの脱社会的な私的人生とやらを可能にしていたということなんでせうね。まあ、平たく言えば手前勝手に想像した他人の立場を客観的規範と看做して、自分はすこしもその当該の立場に賛同していないし、あまつさえ否定すらも明言しないでいて、他人が御自分の脳内設定に従っていないと急に怒りだすという例のアレです。君らはどんだけ自分をオミットすれば気が済むん?つー、な。石ころ帽でも被って隅っこにいればいいのに。


社会党も余程お花畑めいたことを言う人たちでしたけど、事実において何でそんなものが必要とされたかといえば、まあ、あれなのかしらね、冷戦下においては、本邦は東アジアにおける反共の防衛ラインだったわけで、いい加減誤魔化すのも無理があると思うのだけれども、どう考えても反共国家だったわけでしょう。で、アカの脅威という文脈にしっかり乗っかっておきながら、社会の中でヤバい対立や緊張を回避しようと思ったら、そら勢いお花畑な綺麗事の世界になりますわよね。でもね、その「綺麗事」に片足どころか腰まで浸かっておきながら、つまり建前なわけですけど、その建前すらまともに守る気もあまりなくて、というのもその建前を堅守しなければならないの他人であり相手であって、自分たちはその他人たちが騒ぐから言うこと聞かざるえをえないんですよ的エクスキューズを使いまくって、事実の次元において適当な寝言ほざいてたのが誰かといえば保守であり、与党であり、政府だったわけでしょう?なんか、妙な話だよね。おじさんの妄想といえばそれまでですけど、本気で社会全体の価値基準がアカ(マルクス主義とかサヨクとか社会主義とか何でもいいよ)に毒されていて、社会内のあらゆる領域に(教育とか職場とか色々あるけどさ)危険なほどに影響力を持っていると見なすほどの具体的な事実なんて何処にあったのかしら。自民党一党独裁万万歳で労使協調最高な人たちが大勢いらっしゃった社会の何処にアカの危険があったのやら。福祉も教育も驚くくらい低水準のレベルのまんまで、なるべくコストをかけないために拡大家族的な企業経営とありもしない一億総中流なんつー幻想のノーマルな主体を立ち上げて、パックスジャポニカ謳歌していたわけでございましょう?で、そういうわけのわからん観念と現実の無茶苦茶な接合の仕方を全体に強制して、そこから零れおちていた多くの人間たちには文字通りの沈黙を課しておきながら、今更、自分たちのつくった箱庭の自分たちの考え出した脳内幻魔大戦な敵に全てをひっかぶせようというのは如何なものかしらね。事実においてはいつでも共犯だったし、また選んだのも自分たちだし、そうするのが大好きだったくせに、都合がわるいことは全部忘れて日本はダメになったとか言い始めるオヤジ病はホントに勘弁してほしいですわ。日本は悪平等とか成功した社会主義国家だったとか寝言も大概にしてほしい。何処にそんあ高福祉があったつーのかしら。そりゃあね、皆で同じライン守るのが当然みたいな形で排除と選別を無自覚にやってれば周りは平和に見えるだろうし、良く出来た世界にも思えるだろうけど、それのどこが社会なんだっつー。すくなくとも近代社会じゃないよね。福祉国家的な統制は確かにあったけど、それいうなら多かれ少なかれ戦後の国家体制の基本がある種の統制と介入によって成立していたわけで、その中でどういった形で具体的に当該の操作を制度化するかという点で日本は近代化以降の基本路線である国家の直接的なコストを抑制し、権利主体を何らかの集団的なものに置き、そこに社会的負担をさせることで自らの直接的応答を避けるという方針を貫いてきたわけで、その集団的なもの、この場合は一般的に言って企業であり、あるいは末端の地方自治体であったりしたわけですけど、そうした集団的制度の成員を一律に同じものとして扱いうるためには将に同じライン――同様な労働と消費の生活サイクルを守らせる必要があって、そこに成功したからこそ見せかけのみとはいえ平和と幸福を維持できたんだと思いますことですよ。きもーい。


閑話休題。土地と自由といえば、ロシアをはじめとする圧倒的な後発資本主義国家=農業国家における農民の闘争の主題であった標語ですが、最近、何の因果か農業問題の勉強をしていて、日本における近代化の過程での所有権の観念の定着においては土地の私的所有の排他的絶対権が何処に向けられたかといえば、ヨーロッパでの領主に対するそれではなく、むしろ零細農民や小作農に対してであって、その主体は既に存在した地主あるいは地主的な中間搾取者であったということを知りました。近代化においては、それでまでの中世的権利概念の複数性=上級所有権としての租税を課する権利と当該の土地を直接耕作する使用権、当該の土地での労働やあるいはその労働の成果からの一定量の搾取を行う地主的な中間の所有権といったものが解体され、領主の上級所有権が否定され農民の耕作地の所有が認められていくわけですが、この過程において使用権あるいは直接の耕作権というものがほとんど顧みられなくなっていき、土地を直接所有する人間が当該の土地における排他的絶対的な権利を持ち、それが自由の基礎に置かれたという整理をしている人がいて、まあ、この意味でいくと「土地と自由」ではなくて「土地の自由」なのかしらねとも考えられるわけで、そういえば不動産というか土地の所有というのが何か知らないけどやたらと絶対視されていて、何かと言えば結局、住んでいることや利用していることがあまり正当性の基盤にならないというか、事実に屈するにしてもそこに権利=正当性というものをあまり認めない社会的通念というものがそこかしこに見られる本邦は権利主体は土地の所有者なのであって、行為者ではないという極めて純粋な近代的論理を持ってらっしゃるわけですが、意外にその根は近代どころか中世〜近世以来の伝統であって、決して欧米化における借り物の観念なのではないというのは中々面白い話です。所有権なんて社会的には抑制されて当然なはずで、アメリカみたく絶対的な私的領域というものは確かにありませんけれども、かといってヨーロッパに見られるような直接の利用者に当該の土地に関する一定の権利を認める発想というものも弱くて、それはたとえば賃貸物件での居住を経験している人たちには大層よく分かるお話だと思います。


で、この話は意外と野宿者の問題にも通じるのかしらとか思ったけど、それはまた今度。労働と所有の二つの軸があって、そこから排除されているとノーマルな主体=正当な社会的人格として認められないのかしらね。それ以前に公共性というか社会的空間に関する合意について考えないといけませんけど、いずれにせよ世帯であり家であり労働する主体であるような人間こそが社会の基礎であるような世界は住みにくいのは確かなので、とっとと解体してくれないかしら。いや、解体しよう。破壊しよう。そうしよう。明日しよう。そうしよう。