どっこい生きてた云々て何かの定型句だったと思うけど、思い出せない。

まあ、そんなわけで未だ生きてました。時々、はてな周りも見てたけどエントリ書くのはまだ無理よ。とか思ったけど、少しだけ。

あー、どうなんでしょう。きちんと説明するのが難しいつーか、俺自身もそれほど確たる信念やら論理やらを持って他人に強要できるほどの知識も理屈も今のところ未だ無いんで、実際どうなのか知らんのだけれども、とはいえ、なんでそのような反応をするかとか、なんでそう考えるか程度のことは説明できなくもないような気がしないでもないので、取り急ぎ幾つか。

まあ、mojimojiさんが何やらワタクシ様にあれこれ仰っていらっしゃるようなので、こんなのに因縁つけられて大層お怒りになられていることと思し召しますけれども、こちらとしても申し訳ないやら何やらな感じなのでお答しておきますことよ。

ああ、でもね、どうなんでしょうね。一読した限りでは特に大意に文句はないというか、まあ、そう言えばそうでしょうねという感じなんですけど、やっぱりどこか違和感がつきまとうので、そのあたりが分かれば、きっとmojimojiさん(だけではないけれども)のロジックの何処に問題を感じているかが明らかになるのでしょうけれども、いまいち読解に自信がありませんなあ。別に無理してケチつける気はないんですけどね、なんだろうね、このアレな感触は。うーん。


> 最近、ブログ巡回をほとんどおやすみしてて気づいてなかったのですが、僕への言及
>があるのを見つけたので。
>
>権利は個別利害以上のものである
>
> ああ、てかな、良い経営だとか適正な市場とか寝言はどうでもいいから金(飯)寄
>こせ、馬鹿。て言えないようでは権利とか意味あるんですか?つー話なだけです。
>
> まず、madashanさんの記事の核心と思われるこの部分から。
>
> まさに、このような意味で、たとえば「株主の権利」などが主張されてきたように僕
>は思います。労働市場や資本市場におけるルールの変更は、まさにこのようにして要求
>されてきました。まぁ、一応の「みんなのため」的エクスキューズはあちこちにありま
>すけどね。他方で、そんなエクスキューズはエクスキューズでしかないということを自
>明なものとして、本音爆発の人はあちこちにいるわけです(ちょっと古いですが、ホリ
>エモンとかそうでしたね)。
>
> こういう流れに対して、同様にこちらはこちらの「権利」を、madashanさんが言うよ
>うな意味で主張するというのは一つの道でしょうけど、それは既に「主張」ということ
>の意味を失っています。双方が大声を出しているだけで、双方の間にある共通の基盤に
>ある言葉たろうとすることをやめているからです。共通の基盤たりうるものとは、「普
>遍性」とか、「正当性」とか、「全体」などと呼ばれるもののことです。(で、結局は
>強い方が勝つということでしょうが、そのようなことに何か意味があるでしょうか?)


細かい話なのか、それとも本質的な話なのかは聊か心もとないけれども、単なる人間――それも一切の社会的属性を捨象した<同じもの>の最小限度の基盤たる単なる人間――でしかない限りで個々人の間には言葉を使う以上は、なるほど共通の言葉というものを持ちうるし、むしろ持たざるを得ないだろうけれども、現実における経営者と被雇用者とか、投機家とその対象となる財の受益者とか、あるいは共有地をめぐる共同体の成員と営利を旨とする私企業とか、もっと広く言えば結局貧乏人と金持ちという区分だけが残るわけですがとか、事実においてそうした対立項が構成されるならその時は共有できる言葉なんかないと思いますよ。むしろ、事実の中に無理矢理にでも――つまり力によって――何らかの関係性を規定させた上で、それを遡行的にであっても<公正>さの具体的な事例として、あるいはそれ以上のものとして、書き込むというだけなのではないかしら。単なる力のみの発現など実際には殆どなくどれほど些少であってもそこには何時でも正当化という過程があるし、つまりは言葉があるのと同様に単なる価値を謳いあげるだけの純粋な言葉の使用というものも現実にはあまりないと思います。


でも、mojimojiさんがそういうレベルの話をしているのではないということは分かっているし、恐らく僕はあまり意味のない応答をしていることになるのでしょうけれども、とはいえ、この間、問題にしてきたことの本当の根っこは、言葉であれ身体的な行動であれ思考であれ何であれ、その論理的な意味合いみたいなものは経験に先立って存在しているし、つまるところ人間が頭の中でどう考えようと、またそれを言葉に出そうとも、(発言も含めた)行為はどう足掻いてもその抽象的な観念の構図や論理それ自体から逃げることはできないし、その意味では要するに人間に非合理的な思考は不可能だし、そうした事柄はどうあっても各人の自由にはなり得ないという例の嫌な話なわけで、なんでそんな七面倒な話題に触れるかといえば、普遍性というものは何処まで行っても、たとえ人間が一人も存在しなかったとしても、在るものとして想定されるし、そう考えざるを得ない代物だと考えられるわけですが、ある観念なり思考なりの具体的な内実と形式の区別は普段そう考えられるよりも遥かに多くの場合、混在して――ようするに誤認されて――いるだろうし、全く純粋に抽象的なレベルの、もっぱらある観念の形式的な性質に関する話題として提出されたものであっても、現実にそれが持ち出される状況や文脈においてはそうはならないということも多々あるし、何の前置きもなしに始められたものであっても、言葉は使用者によってその意味するところを限定することは困難だし、行為はむしろ出来事一般と同じように見られたり聞かれたりしたことによって意味は変わるし、またそうした受動的な有り様もそれが表現されることなしには何処にも場所を持たないだろうし、恐らくは人間の応答というものがそこに介在することなしにはどんな観念も真理たりうることはなくて、というのも我々は時間の中にしか存在しないのだから、すべてを知ることも絶対的に知ることもなく、何時でも蓋然性と偶然性の中で過程なしにはどんな事実も事実とはならないのだから、公正さや公平が形式として普遍的であったとしても、そうしたものが事実の内にあるのだと考える以上は常に限定的なものにならざるを得ず、そしてにも関わらず観念の形式的な性格上は自らを全体的なものとして想定せざるを得ないから、公正さの基準が肯定的に記述されるならその時には何処かに損害とすら認められないものがどうしても出てくるだろうし、それは単なるあれやこれやの損失や被害てなものではなくてむしろそれこそ普遍的な意味における<不正>それ自体と呼ばれるに相応しいし、そうしたものを何時でも何処でも掬いあげて全体を織り直していく過程抜きにはどんな公正さや公平さも自らを裏切っていることになるだろうし、要するに我々は単にある観念を真実と看做すだけでは不十分であり、観念を真理たらしめる過程は正しい語それ自体を見つけ出すよりも遥かにその語の使用の仕方にあって、ニュアンスの付け方次第では言葉の意味合いなどどうとでも変わるということです。嘘をつかずに本当のことを誤魔化す手段はいくらでもあります。さて、何の話をしているのか自分でもさっぱり分からなくなってまいりましたが、元々電波なのでむしろもっと分からない方がよろしいように思われます。

ところで、大昔の話になりますが、なんかの講義でセンセイが「正義の観念は唯一絶対という性格を持っていて、これが普遍的ということです」とのたまわれて、それに対して学生の一人が「反対ではないですか。むしろ、現実には沢山の正義があるのではないですか。現に世界中で自分の正義を主張して争い合ってるわけですしー」と頗るアレ気な回答をされたことがありました。けれども、残念ながら人間がひとっこ一人いなかったときから正義はただ一つです。そして、人間がうじゃうじゃ群をなして言葉を持ち歴史を獲得した辺りからこの方、どつき合いの数と同じくらい正義を僭称する言説が存在しましたし、何処かに真理の担い手がいるのなら争いの起こりようもなかったわけですが、大変不幸なことに生きているという形式以外に存在しようがない否定的有限性の塊みたいな生き物に<絶対>は獲得できません。憐むべきことに人智の及ばざるところの真理様は人間がたった一人で生きていても想定されてしまいますし、現実に人間が一人でない以上何時でも真理は無くなりませんし、その性格からくる絶対性も無くせません。口先で否定しようとも、行為が存在する以上はそこから逃れることはできません。


その意味から言えば、相対主義が胡散臭いのは自分を何処にも置かず物事を語るということであり、誰でもないものか誰でもあるものの何れも現実の人間の獲得しうる地位ではありませんし、この虚偽は自らが事実の中に確固たる場所を占めているにも関わらずあたかもそうでないかのように振る舞い、おまけに己の言説の内部に全体を収斂しうるが故に自らの偏向を問えないようにするという点で非常に厄介なしろものです。そして、そんなことより大事なことは何処にも場所を占めないような、誰にでも適用されるという意味での普遍性は何時でも有限的で局所的でしかありえないという人間の活動の基礎を誤魔化すということであり、にも関わらず我々はそれをこれまた絶対的な形で是正することも出来ないということであります。生成の観念を導入することなしには、言い換えれば人間に絶対知が不可能であることを前提にするならその基礎的条件たる時間の中での漸近進展という過程を考慮することなしには、この必然的矛盾は解消しようがないように思われます。


しかしながら、常に不十分でしかない仮初の真理(ひどい矛盾です)にたどり着く総合的かつ漸進的過程というものに同意するなら、その時には我々が物事を判断する基準は不確かな偶然性に左右されていることをも認めなければならないでしょうし、我々は自分自身の価値を普遍的なものとして措定するにしても蓋然性なしには言語の使用もないのだから、実際には我々がなにも知らない時でも物事の道理は各人の局所的な論理の中から導き出されるのであり、また他人たちのそれに対する応答があり、その過程において初めて共有されたものが生成されるのだということになりましょう。そうであれば、あるいは欲望や利害関心に基づく主観的な要求にも幾ばくかの正当性を認めなければならないでしょうし、本当に共有しうるものがあり得るのか否かも予めの判断は控えるのが真っ当な姿勢とも思われるのです。なるほど、我々は何時でも何も無いところから始めるわけではありませんし、むしろ判断を可能にする社会的かつ集団的な価値の織物に我々自身が織り込まれているという状態が通常なわけですけれども、だからといってその価値が歴史のなかで培われてきた単なる偶然的な代物でしかなく、またそれが価値あらしめられるのは事実の持つ必然性という力故のみではないとは断定することはできませんし、我々が我々という単位を獲得できるとしても(でも、本当にそうでしょうか?)、その集団的な価値の外にいる他人たちにもそれなりの正当性はあるのだということを認めないわけにもいきません。ある事柄に関する判断をそうあらしめる価値としての観念の持つ普遍性それ自体が否定しようのないものだとすれば、それは人間の活動の持つ所与の条件であるからであって、単なる恣意的な欲望にみえる主張や要求も一度、他人たちに対して提出されるのなら、その時はそれ自体が単なる主観性に留まることは不可能なのであって、むしろ己自身を他人たちとの間で事実たらしめようとする限りではいずれにせよ集団的な――いわば共有財としての価値の動的な再編成が行われるのです。なるほど、単なる私利私欲をそれと肯定することは理屈の面から言えば困難であるし、そのような主張が己自身を普遍的なものと看做すこともまた不可能ではあるでしょうが、けれども単なる私利私欲がある状況やある場合において妥当であり、またある意味では正しいと言われさえすることができるということは、けっきょくのところ、単なる力や事実の必然性故の重みばかりではなく、そうではなくある個人にとって、また人間たちにとってその当該人物の私的利益と見なされる事柄であっても、そのような利益の確保の有り様が諸々の社会的な関係上極めて正当であるという形で表現しうるが故にそうなのではないでしょうか。ある人が己自身にとっての利害にしか関心を払わず、普遍的であるような正当性の基準に照らして自らを正当化する過程を省みなかったとしても、そしてまた、そうである限りで単なる私利私欲の一類型にしか見えなかったとしても、それでもある私的利害関心の発露がその形式上正当であることは十分に考えられることであり、それをこそ権利と呼ぶのではなかったでしょうか。というよりは、権利として措定されるのならどのような要求であれ、その内実の可否は別として、いずれにせよ形式の点においては自らを普遍的な正当性のひとつとして表す以外にはありようがないのであって、権利を権利たらしめるのは形式と表現の一致した普遍的で絶対的な抽象的価値などではなく、それが人間の有限的で偶然的な闘争の過程において事実として定着すること――言い換えれば他人たちに認めさせることによってなのだと思います。


そして、そうであるが故にこそ「強いものが勝つ」などという素朴で粗雑な認識にも真理の一片はあるのだろうし、まさに我々は事実の次元において生存しているのだからこの具体的な闘争は十二分に有意味なものですし、また致命的なものです。


共通の基盤たる普遍性は、むしろそうした暴力の次元を伴うことでしか存在し得ないと思いますし、実際にはその共有は略奪であったり強制であったり搾取であったりしますが、いずれにせよ社会における対立が常に調停可能で和解可能なものと考えられるのなら、こうした力による結果の無理矢理の押し付けという常に付きまとう次元をネグレクトすることになりましょうし、この憂鬱な次元を否定したところでそれがなくなるわけではないですし、むしろそうすることで現に我々が押し付けられたこの社会的不均衡、不正、不平等がそれ自体で普遍的なものになってしまいますし、奴らがこちらのことを考えないのはある意味で当り前の話ですし、それが間違っていると考えるのは我々であって彼らではないし、彼らにそれが<不正>であると見なすよう強制するのは結局力です。けれども、この力は単なる暴力ではなく、むしろ正当性を形成するような力なのであって、その性質はそれこそ人間の活動の普遍的かつ一般的な条件ではないのでしょうか。そしてまた、それが事実のうちで普遍的な正当性の基盤足り得ないうちは彼らにとってこの我々の価値それ自体が認めることのできない不愉快な代物であり、また「不当な」代物であるのも当然の話ではないのでしょうか。


> もちろん、その「普遍性」や「正当性」や「全体」が、「予め定められたところの」
>ものであるならば、そんなものは犬にでも食わせてしまえばいいと思います。そうでは
>なく、こちらは、「経営者」や「株主」が主張するところの(エクスキューズするとこ
>ろの)「普遍性」や「正当性」や「全体」とは違う内容の「普遍性」や「正当性」や「
>全体」を示し、それに拠って対抗していくわけです。大事なことは、提示された「普遍
>性」や「正当性」や「全体」の内容に反対することと、それらを概念として拒否するこ
>とは別のことだ、ということです。

> その意味で、「権利ってそもそもその権利者の利害関心を反映させるためにあるんじ
>ゃなかったかしら?」というのは、「権利」概念の半分でしかないと思います。それは
>個々の当事者の利害関心そのものの反映であると同時に、「普遍性」や「正当性」や「
>全体」という概念と結びつけられたものです*1。そうでなければ、逆に意味がないでし


したがって、このように述べられている内容それ自体には反対いたしませんが、それは単に普遍性や正当性が包括的なものでしかありえないし、また如何なる要求も己自身を正しいものとして措定するのならそのような全体性の中でしか表現され得ないというロジックの問題であって、誰かが自分を正当なものとみなすや否やその価値を局所的であると考えようが、それこそ一般的で普遍的なものとみなそうが、そうした各人の思考や価値と無関係に正当性の観念に由来する普遍性が介在せざるをえないというだけの話です。


>「普遍性」とか「正当性」とか
>
> だから、僕は「良い経営だとか適正な市場とか寝言はどうでもいいから金(飯)寄こ
>せ、馬鹿」とは言わないし、そのような言い方に、一般的には同意しません。
>
> 誤解のないように注意を促しておきますが、「一般的には」です。個別的に言えば、
>一定以上の資産家がこれを言うときには同意しませんが、不安定雇用等々の境遇にある
>人がこれを言うときには同意します。それは、この文言が一般的に正しいからではあり
>ません。不安定雇用等々の境遇にある人においては、その人たちの生存権等々の「普遍
>性」や「正当性」の基盤についてあらかじめ僕が了解しており、ゆえに、それらと結び
>つけて「よこせ」の主張が成り立つだろうと、僕が(補って)理解しているからです。
>その一方で、十分に「持てる」人においては、そのような喫緊の要請などないと僕が認
>識しているから、一定以上の資産家については同意しないわけです。
>
> ここはmadashanさんへの批判というわけではないのですが、意外に大事なポイントな
>ので丁寧に述べておきます。「普遍性」とは、「普遍性」の語法に基づかない主張に対
>しても、「普遍性」の語法をうまく使えない人たちの利害に対しても、同様に適用され
>て初めて「普遍性」であるはずです。ゆえに、仮に「普遍性」の語法から外れた主張で
>あっても、そこに「普遍性」の語法で理解しうる内実があるならば、その内実を擁護す
>ることは、「普遍性」という概念からすれば当然に要請されることです。「普遍性」の
>語法とはずれた語りにおいても、「補って」理解する、という態度が当然のものとして
>要請される、ということです。それは「能力として」いつでも可能であるとは限りませ
>んが、少なくとも、私たちの「あるべき態度として」いつでも要請されている、という
>ことです。
>
> 別様に述べてみます。僕は「良い経営」だとか「適正な市場」について考えること、
>語ることは必要だと思いますが、しばしば、「語れない人の利害は無視されて良い」と
>いう状況が作り出されています。その原因は、「良い経営」や「適正な市場」について
>語る/語れる人たちが、自分たちの利害に関わる「良い経営」や「適正な市場」につい
>て語る一方で、語れない人にとってそれがどうであるかについては誰かに指摘されるま
>で知らんフリをし、指摘されても「わからない」フリをし、といったことを平気でする
>からです。つまり、「普遍性」概念を「普遍的に」使用していないのです。ゆえに、仮
>に「普遍性」の語法を用いているとしても、そこに「普遍性」ではありえない排除と選
>別があるならば、そこを「補って」批判するという態度が当然に要請されるわけです。
>これも「能力として」いつでも可能であるとは限りませんが、少なくとも、私たちの「
>あるべき態度として」いつでも要請されている、ということになります。
>
> こういうことを指摘すると、「なんで利害対立している自分が考えてやらなきゃいけ
>ないのさ」みたいなことをいう人がいますが、それは「普遍性」という概念に訴える以
>上は当たり前のことです。なるほど、都合の悪いところには知らんフリをする、という
>インセンティブがあるということは事実です。しかし、それは、このような態度が正当
>であるということは別の話です。で、正当/不当という文脈でいうならば、このような
>態度は明らかに不当です。「普遍性」は「普遍的に」適用するのでなければならないの
>は自明でしょう。


恐らくはニュアンスの問題に過ぎないのでしょうし、そうであれば些細な表現に因縁をつけるかのような態度は慎まれるべきことかもしれませんが、けれども、ある権利の保持者と見なされる――当人にであれ、他人たちにであれ――人間自身がその権利の観念に含まれる普遍性を了解しているか否かは凡そ問題にはならないと思います。大切なこと、と仰いますが補って理解するのは他人ですし、他人がそれを正当であるかどうかについて判断する次元と当事者が己の利害関心の表現として<権利>に訴えることは別ではないのでしょうか。全体を考える人がいることを否定はしませんし、それが一概に間違いだとも申し上げませんが、そのように考えるのはその人の問題でしかなく、当事者の問題ではないと思います。別に当事者自身が全体の適正さに訴えることが過ちであるとは申し上げませんが、同時にそれが「あるべき態度」として要求されるというのは凡そ奇妙な話だと思いますし、そのような思考ないし論理展開が「能力」として理解されることは端的に過ちであると思われます。何が正しいかについての問いを提出するのなら、何時でも何処でも人は普遍性に足を突っ込んでいるわけですし、それが当人に理解されているか否かなど問題ではありません。また、同時にそうしたことを考える能力などというものも存在しないと思います。何故なら、何が正しいかという問いそれ自体が既にして全体に関する適正の基準を予期しているからであり、またある価値が実際には如何に局所的であるとみなされようとも、いずれにせよそのような主張それ自体が当該の主張を根拠づける価値を以てして普遍的であるとみなすからです。それが<正しい>という表現であり、また言語の使用における実態だと思います。そしてまた、事実における語り得る人間と語ることのできない人間という位相ないし対立軸を人間の能力の問題とみなすのは大変危険であるし、一層極端に偏向した態度であるように思われます。語ることができるのはその人間の社会的な立場であったり、当該社会における価値の序列に由来する知識量であったり、また文法であったり、あるいは端的に言って当該社会が妥当なものと看做す言説の総体であるような教育や教養や知の有無であったりするわけですが、それは本来的に人間の能力の問題とは関係ありません。あるいはこうも言えます。何かが間違っているとか、不当であると感じ取り、そう主張することは人間に備わる基本的でそれこそ普遍的な能力であり、要するに正当性に関しての異議申し立てや他人たちとの間での敵対と同盟の闘争それ自体に関わり、他人たちとの間で己自身の幸福や利益の配分を決定するための過程に参与する権利は誰にでもあるのだと。今、権利であると申し上げるのは単なる言葉の問題ではなく、権利の観念の内包する普遍性に依拠してのことですし、まさにそれがそうあることが<正しい>し当然であるという意味において、それは<権利>なのです。権利とはそうする能力があるし、それを決定する自由を持つ、ということでなければ一体なんだというのでしょうか。観念や言葉や知識や思考の<能力>における不平等など、この意味における各人の絶対的に平等な<能力>の前においては意味をなしませんし、また事実にあってもそうあるべきです。<正しく>物事を理解する誰かが、そうでない人間に比べて優れているなどというのは、この次元においてはあり得ないし、そう主張すること自体が不当であると思います。


>まとめ
>
> madashan さんは「「良い経営」や「適正な市場」についてなされている現実の語り」
>を相手にして批判しているわけです。その部分においては、僕はまったく同意するもの
>です。「そんなものは当事者たちが守らなければならないものでもないし、彼らの行動
>を彼ら自身が決めるにあたって考慮すべき事柄でもないだろうし、ましてや道義的必然
>であるかのように押し付けられる筋合いはありません」というわけです。そこは完全に
>同意できます。
>
> ただ、先にも述べたように、それに対抗するときには、僕らは異なる「良い経営」や
>「適正な市場」を提示するのであって、提示された「良い経営」や「適正な市場」の内
>容に反対するのであって、「良い経営」や「適正な市場」という概念を拒否するのでは
>ない、ということです。提示された「普遍性」の内容に反対するのであって、「普遍性
>」という概念を拒否するのではない、ということです。madashanさんの議論は、その点
>を踏み外しているように見えますので、そこには僕は同意できませんし、はっきり「ま
>ちがっている」と主張しておきたいと思います。


それは闘争の過程において、対立やら敵対やらの具体的な内実と物事の進行においてなされるものであって、否定は否定ですし、その時点において如何に「良きもの」の存在が予告されていようとも、敵対する一方の側の存在に配慮し、全体を常に想定し、また他人たちとの間での和解を優先しなければならないとは少しも思えません。何かを提示する能力は何かに反対し否定することの中で幽かにそれが予告されているという意味においてなら常に既に我々は<良きもの>を前提としているでしょうし、またそれを求めているとも言えましょうが、現実的にはそのようなものが具体的な内実や全体像を提示していると考えるのは凡そ不合理であるように思われます。我々は別に対案など持たないし、他人にも自分にも公平で真っ当な良く出来た世界などを予め想定などしていないし、単に何事かが誤っており、己自身とまた他人たちの間でも親密なものと考えられた特別な人間たちが不当な扱いを受けているし、不利益を被るであろうとの蓋然性があるのなら、その時には我々はそれは間違っていると主張する能力があり、これは正当なものです。和解が可能なのか、敵対は致命的なのかはその時点では未知数ですし、社会全体がどのような公正さの内実を持つべきなのかについても未だ不安定で偶然的なものにとどまっていたとしても、それでも我々は拒否し反対する権利がありますし、それは誰にも否定できないし、誰もが持つ人間の他人たちとの共同の有り様をめぐる闘争における基本的な能力それ自体です。


と、まあ以上のように考えるわけですが、なんでこんな抽象的な思弁を一々こねくり回さないといかんのか自分でも大層不愉快なわけですが、かといって何でそんな風に考え、それが妥当なものと思うかといえば、結局、答えは一つで、ある社会なり共同体なりをどうとらえるかということを巡って、いきなり全体を読み込んで限界づけられた上でしかありえない人間の実際上の活動や言説や価値をあらゆる全体を包括するようなものとして措定するのはおかしな話だと思うし、かといって単なる局所的で個別的な利害関心の衝突として理解するのも粗雑な話だし、まあ、それでもいいんじゃないのとは思うけど、そういう話を持ち出したとたんに、あるべき社会とは従って全体の調整であり、利害の調停であり、パレート最適だか何だか愉快な言葉で説明されるような最大公約数における平等だの公正だのを以て良しとするようなお頭の湧いた人がでかい面をするような世界にあっては、好き勝手に操作可能な対象としての全体を捏造されないためにも、正しさが偶然的で可変的であることを認めるにしても、単なる局所利害の衝突の総和で人間の共同の有り様に関する話が済んでしまうかのような錯覚は打ち壊しておくべきだとしても、そうかといって有限な全体を包括的で普遍的なものと看做される危険を冒すのは得ではないし、ここはひとつ、具体的な対立やら敵対やらの関係がその内部において<公正さ>を生成し、それがまた他の対立を生み、同盟を生み、全体は常に動的に再編成されながらも決して単一の全体や静的な同一性に回収できるようなものにはならずに、むしろ複数の致命的な対立や一時的な同盟や和解を通して何時でも何処でも自分自身を変化させていくところの複合的な総体であると見なす方が人間にとってより良い共同性を構築するのに有用であるのではないかしらと思うからであります。まー、ボトムアップ式に皆全体を見渡さずにその場その場から積み上げていけば良くないですか、つー。というか、そうしないと何時まで経っても社会における公民というか公的な権利主体が個人としての人間にならず、何時まで経っても自由は否定的有限性の中でしかとらえられず、何時まで経っても共同性は否応なしの不幸や負担としてしか理解されず、何時まで経っても単なる道義や個人的な心情の問題としてしか共同性における主体の能力が語られず、何時まで経っても在りもしない抽象的なノーマルな主体を全員が何となく分有して、しかもその全員は何時も本当の住人の総和ではなく、何時まで経っても国家からしか社会を定位できないままなのではないかしらんとか思うのでございます。だって、社会が確かにあると言えるのは現に既に他人たちとのその全体的過程に自らが関わり、その中でこそ社会的存在としての己自身を具体的に形成していく時にだけなのに、徒に自分をオミットしても客観的に存在する社会なんつーものを呼び起こしていたら、要するに具体的で局所的で有限で偶然的な現実の<私>なり人間なりは社会から着脱可能な余分な何かとして理解されてしまうし、そうすると確からしいものなんて精々が法律だの行政府だの統治機構だの言説上の主語たる国民だのといった例の糞下らない代物だけになってまうでしょう?いやなこった。だーれが俺さまちゃんよりそんな詰まらないものを優先させますかね。くーだらない。そんなんだったら、たとえ欲得づくめでもそこいらの単なる一個人がその個人の欲望に基づいて他人と殴り合い、足を引っ張り合い、かつまた馴れ合い、他人を見下し、そうかと思うと嫉妬にまみれてあれやこれやの間抜けな価値観を持ち出して相手をやりこめようとしながら、進み続ける世界のが遥かにマシですわん。ゴミでしないならゴミらしく、事実におけるゴミと瓦礫と屑の廃墟を言語と価値においても認めて、その上で何事かを成す方が余程人間らしい共同性は生まれると思いますよ。


> まとめついでに言えば、労働組合の活動について、「利用可能で有効な道具立てがそ
>こにある以上はそれを使用して自己の利益を確保するのは自明な行為であるでしょうし
>、それについて一々予め正しさを云々する方が奇妙です」という主張には同意できませ
>ん。こんな理屈がまかりとおるなら、御用組合さえもが、「利用可能で有効な道具立て
>がそこにある以上はそれを使用して自己の利益を確保するのは自明な行為である」とし
>て批判できなくなってしまいます。


まあ、そういうわけでmojimojiさんにおかれましては成程ひどく不条理に思えましょうが、赤の他人が何を利益とし何を損失とみなすかなどこれまた赤の他人でしかない人間が気にする必要はないし、自分たちの利害関心やら価値観やらの内部において集団性を構築し、敵が誰かを理解してよろしく御用組合だの企業内組合だののアホくさい代物を攻撃すれば良いと思っております。


> というより、「それが規範化を生むとか、あるいは既得権を作りだすとか、従って選
>別と排除が行わるとか、組合それ自体が特殊利害を持って組合員個人を搾取するとか、
>そうした理屈の問題は成程現実のものとなれば理非を問わずには済まないでしょうが」
>というところ、むしろ、既に事態はそういう段階にあるんですよ、ということ。「一々
>予め正しさを云々」しないところでは、いつでも即座に、この種の「選別と排除」が顔
>を出すように思います。だったら、最初から「一々予め正しさを云々」すべきなんです
>よ。むしろ。



そうですね、でも、それは他人がどうこう言う話ではなく当事者たちが――つまりこの場合は損害を蒙り、もしかするとその損害すらも認められないような人間たちが問うことで初めて意味をなすものだと思います。しかも、その時には自分たちは自分たちであって、決して彼らと同じ土俵に立って物事を考え話すわけではないということを前提にしてね。


そういう感じです。まあ、もうすこし今回の一連の流れの具体的な有り様を検討するとか歴史的に構築されているのであろうこの社会の有り様に基づいてのワタクシ様なりの考えみたいなお話は次回ということで。じゃー。