差異の尊重とか言っても無自覚な人は単に自文化中心主義に走るのは自明の理のような気もするの。


最近流行りよね、共和主義とかヒューマニズムの普遍精神故の傲慢さ=狭量さ、みたいなの。レイシズムレイシズムでも色々ありますよ、ていう。ワタクシ様にはクズはクズ程度のことしか分かりませんが。

あー、でもさあ、ヤポネシアの場合に共和主義的原則によるレイシズムないし排外感情の正当化とか、あるいはその原則から導出された合理性故のレイシズムとかゆー説明って上手く適合してんの?って気はするよね。

だって、共和主義的原則なんか守ったことないし、それ以前に一体いつからヤポネシアは共和制国家になったんだつー疑問が湧くじゃない。


http://watashinim.exblog.jp/8355309/


いや、↑こことか読んで思ったことなんだけど。


まあ、単純に左派系メディアと了解されている雑誌にレイシズム丸出しの見出し文を掲げられる精神は何か、て話で、整合性(建前の領域に属する)取ろうとすると共和主義とか、あるいはリベラル的原則(排外的ナショナリズムへの原則的不寛容)を持ち出すしかないんだろうけど、それ以前なんじゃないのかしら。


まー、ほら、お行儀のよいレイシストと頭の悪いレイシストが右と左って形で仲良く並んでるだけじゃね、みたいな。無自覚に適応した支配的言説の中で対立項作ってるだけで、そんな政治的原則とか思想信条的合理性とか大層な代物はないよ、連中に。だって、本質的に内輪向けの話しかしてないし、だからこそ<他者>は道徳上の問題としてしか認知されないんじゃないの。


現実にはそんな内輪の世界を構成するに足るだけの同一で均等な社会なんて存在しないってのは確かだけれども、そうはいっても各人に想像された社会像によってこそ社会的現実は成立している側面もあるし、どっちかというと想像的なものに現実を従わせてきたんじゃないのかな。いや、ここ二三日、日本人て単位に対する嫌悪感が再燃してきただけだけどさ。


そういや、ナショナルなものに関連して思い出すのが例の家族会、というより曽我夫婦の発言で、奥さんの方だったかしら、「日本人はいつからこんなに冷たくなったのか」云々てなことをどっかで言っていて、でも、そもそもナショナルな単位が救済とか解決のために機能したことってあったのかしらと素朴に疑問を覚えたことがあって、だって、ナショナルものに肩入れしたり感情移入する人たちの言説において、当該の同一性の殆ど大半が何らかの形で<敵>を攻撃したり、非難するために使われている事例しか見かけたことないし、社会的に周縁の存在か或いは初めから排除された存在に対してしか機能した試しがないんじゃないの?基本的に僻み根性とルサンチマンでしか登場しない言葉に期待をかけても不幸なだけじゃないのかしらね、と感じたのを思い出したり。ナショナルな単位が同胞愛だの連帯意識だのと接続された事例ってあんのかしらね、ここ数十年のうちで。なんか、良い子ぶってる哀れな被害者ってのがないと同情すらしてないような気もするけどね。


まー、でも<国民>とか<民族>つー単位が何とはなしに機能していた時代もあったんでしょうな。皆さんの固執っぷりを見ると。で、じゃあ、今言われてる<日本人>てな単位が機能不全をおかしているように見えるのはきっと同胞意識とかいった時に期待される友愛とか連帯とかゆうお伽噺が欠片も存在しない点にあるんだろうけど、それって要するにこの言葉を通して社会の主語たることを展望できないってことなんだろうか。この言葉の指示する対象は特別の配慮と保護が期待される存在として認知される、みたいな感覚は何処にもないし、むしろ、どっちかというと余所者とはみ出し者を制裁するために呼び起されてるだけのような。つか、誰も社会において自分=我々が主人だとか思わないし、何事かを期待できるとも思ってなくて、精々が自分たちも一丁前に文句たれることのできる何事か=<不正>を探してきてはマッチポンプ式に不安も恨み辛みもまとめてぶつけて留飲を下げるくらいで、その非難を正当化するために持ち出される空文が<国民>ていう。まあ、ほら、例のアレですよ。金払ってんだ的なアレ。いやー、共同幻想って随分せこい代物だったんですね。


どっかで読んだ<外国人>化するってのはそういう状態を指してるのかしらね。でも、無理して<同じもの>探ししなくても、明らかに違う経済生きてる人たちの固まりが出来つつあるから、そこを軸に殴り合いをすればいいと思いますですよ。