遅ればせながら


こんな僻地を訪れの御奇特な、もしくは特定の如何わしい目的をお持ちの、良識的市民様方は先刻ご承知のように7月5日札幌でのサウンドデモの逮捕者三名*1が7月16日(水)の午前中に順次釈放されました。注目して頂いた方や、ブログ上で取り上げてくださった方におかれましては、ありがとうございました。


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さて、救援サイトにあるように、問題はこれで終わりではありません――と、いうと又ぞろ文句を言う人が出てきそうですが、しかしながら、良く考えて頂きたいのは今回の逮捕とそれへの抗議の根本にあった制度上の不正は釈放があろうがなかろうが維持されたままですし、なにより三名の釈放にあたって不起訴であるか否かも未だ不透明なままです。また、そもそも、勾留の正当性を担保しているのは「逃亡の恐れ」だとか「証拠隠滅の恐れ」といった条件の妥当性にあるわけですが、これ自体が今回のケースにあっては該当しないのは明らかではなかったでしょうか。現行犯の「証拠」とやらはどこにあったでしょうか。罪状の理由は「公安条例違反」「道交法違反」と「公務執行妨害」です。これらの「犯罪」の証拠の隠滅は事後において、しかも本人がどうやって隠滅するのでしょう?トラック及び機材は真っ先に警察が持って行きました。あたりまえですが、当の本人たちも拘束済みです。


政治的案件における逮捕とはそういうものだとしたり顔で仰る方は、御自身が法*2の原則を踏みにじっていることをご理解頂けているのでしょうか。それがどうしたと宣う方は諸々の破壊活動や実力行使に対する原理的な正当性を自分自身で失効させていることをご承知でしょうか。目的によって手段を正当化するなら、後に残るのは殆ど支離滅裂な暴力の合戦です。なるほど暴力は人間の諸活動につきものですし、誰も建前を心の底から信じてなどいませんし、規則や建前は利用するものであって信仰の対象ではないと我々は教わってきました。けれども、物事には程度というものが依然として存在し、世界には単なる抗争か否応なしの平和かの二者択一だけでなく事物の間の蓋然性や妥当性の――流動的であったとしても――判断があり、行動があり、結果があり、それぞれの複合的状況が厳然として存在しています。さて、今回の事案において緊急的な拉致とそれに続く拘禁は妥当なものでしたでしょうか。非常措置として、必要悪として認められうるものでしたでしょうか。なにより、そうした司法権力の措置に関して個々の事例について判断する能力を、我々は現状において所有しているでしょうか。言い換えれば、社会がその可否を判断する積極的かつ能動的な、そして実効的な契機を我々は持ち得ていると見なしうるでしょうか。単なる文面上のあれやこれやの「権利」でも、行政のサービスとして制度化された上で初めて実体的なものとして与りうるような「恩恵」でもなく、我々が潜在的に我々自身に対して与え、かつ行使しうるとされるところの本来的な意味での権利を、実効力ある形で――つまりは、一定の判断とそれが社会的に有意味なものとして成立するところの帰結――実現してきたでしょうか。


脇道に逸れたので話を戻しますと、今回の事件に関しても様々な側面から問題を指摘しうると思いますし、そのすべてについて同意する必要はありませんし、各々の問題意識において判断をされればよろしいかと思われますが、いずれにせよ現状においては、政治的社会的争点になりうるような事案に関しての、オマワリの殆ど野放し状態の暴力という事実は消えません。「フツーの人」の「生活」には関係がないと仰る方は恐らく大勢いらっしゃることと存じ上げますが、その「普通」はどれほど能動的で積極的に定義されうるのでしょうか。他人たちとの共同に関する決定権は一人一人に等しく与えられてあるものですし、事実においてもそうあるべきですが、それを可能にするのは実践においてであって観念においてではありません。そして、他人たちと共にあるしかない社会生活において、その有り様を問うことは、またそれを事実においてあらしめようとする努力は、何時でも潜在的には敵対や対立を含み持っています。しかし、そのような敵対を通して我々は我々の生活を、生を決定する能力を培うわけですし、また何よりも実現させていくわけです。それに対する一定の規制を認めるか否かはまた別の話ですし、そうした制度や決定機関が人間の共同生活においてはどうあっても無くし得ないものであるか否かも議論の余地のあるところでしょう。けれども、今回の問題(と、それが指し示す領域)はそうした高次の抽象的な議論のレベルにあるわけではありません。警察的な機能を持つ機関を認めるか否かと、その規制を実効的に決定する能力を単なる司法制度上の一機関に付与して良いか否かは全く別次元の話です。そしてまた、それなりの分権や監視や規制の緩和措置が法文上認められており、制度としてもそのようにあるか否かという問題は、即座にそれが事実として機能しているかどうかというレベルにおいて問われなければ有意味なものとは言えないでしょう。

「お前はアナキストを名乗っているくせに法だのなんだのについて偉そうに講釈するのか」と仰るようでしたら、お伺いしたいと思いますが敵が何者であれ、またそれに反対する者があろうとも、自分自身の原則を貫徹しえず、そして単なる実力行使と現状の追認を正当化できるとお考えなら、その時は皆様方御自身が反転した鏡像としての「無法者」を名実ともに体現されておられるという事実について如何に思われるか、そこのところをよろしくご思案頂き、判断して頂きたいと思います。端的にいって、これらの司法暴力の圏域は住民全員に関わる――しかもそれぞれの立場に応じて意味も価値も(増減ではなく)変化するところの、致命的で恒常的な問題だと思われますがいかがでしょうか。


ま、小難しい話はおいとくとですね、未だに不起訴なのか起訴猶予なのかといった点についてさっぱり先行き不透明ですし、そこには恒常的に維持され続けてきた制度上の問題が横たわっているというわけで、関心のおありの方は今後も注目されて、個別に判断していけばよろしいかと思われます。逮捕自体もそうだし、勾留決定に関しても(毎度のことながら)非常に疑問の多い代物ですよ、と。そんなところかしら。


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*1:四名のうち、ロイタージャパンのジャーナリストは7月8日に釈放済み

*2:Whooooooooooops!