どうにもこうにもにんともかんとも

行きがかり上、書くことがすでに半ば要請されているようにも思えるし、この事件への言及の生産性が見込めないという理由はコメントして既に選んだそのときからアリバイにしかならないから、少しだけ秋葉原の事件について触れてみたいと思う。


この事件に限らず、局所的であれ広範にであれ極めて人的損害が大きく、一人ないし複数の人間たちの意志と行為によって引き起こされるような種類の出来事というのは、非常に奇妙な印象を与える。今度の事件でいえば、要するにそれは殺された人たちの死の無意味さである。というのも、彼ないし彼女の側には殺害されうる直接的な因果関係は端的にその場に居たこと以外にはないし、彼らを一つの集団として成立させるに相応しい共有されたものは偶然でしかないからだ。だから、いつものようには「被害者の落ち度」とか、「責任はないが愚かである」ような意味での瑕疵というものを探し求めたところで何も見つかりはしない。この点にこそ、我々があの事件の被害者への感情移入を阻害される理由があるし、またその詳細なプロフィールが紹介されればされるほどに戸惑いを覚えざるをえない理由が、ある。


反対に加藤某から事件を見ることは嫌になるくらい「理解」可能な様々な社会的属性・状況が用意されていて、即座に事件を合理化し、整理し、ケリをつけることを可能にしている。派遣労働のもたらす耐えがたい疎外であるとか(我々は、何時の間にか自分自身の生における苦痛や悲惨さを疎外として表象することを禁じられてきたけれども、今回の事件であればそれは全面的に開放されるらしい。奇妙な話ではあるけれども、このこと自体は別段拒否するつもり、否定するつもりも今のところ僕にはない。)、その内向的な性格というフレームアップに対応するオタク性に基づく実存であるとか、あるいはそれら全てを含み持つところの総体としての加藤某の半生を物語化することで得られるような共有可能な人間像であるとか、とにかく我々は加藤某に嫌悪や憤りを感じるとしても、少なくとも「支持はしないが、理解はできる」という例のセンテンスをそのまま適用しうるような理解可能性が予め用意されている。そう、支持はしない。でも、「理解」できる――と我々は良く言う。けれども、それでは「理解」するとは一体なんであるのか。何故、そう思うのか。そして、理解しなければいけないことなど本当にあるのだろうか。


先ず、事件の第一の印象である陰惨で衝撃的な暴力性がある。戸惑いや奇妙な葛藤、あるいはやりきれなさを感じるのは、我々が加藤某という個人を知る遥か前から蓋然性としての「抑圧の結果としての通り魔」という表象を知っていたからであり、また彼あるいは彼女と自分の決定的で絶対的な、それから客観的な差異というものが見出せないと薄々感じ取っていたからである。


自分自身から遠くに居る人間には寛容も配慮も、そしてまた理性的対応だって必要とあらばとることができるだろう。我々が本当に中立になれたり、どんな自己の利害関心をも抜きにして、単なる善意の発露として働きかけることができるような他人というのは、けっきょくのところ、我々から最も遠い他人たちなのであり、距離が質的な意味で近いことは我々を困惑させ、態度というものが何処まで行っても自分自身の選好や決定の主観性に掛っているのだと気付かせる点で不愉快なものですらある。媒介なしには辿りつけない他人たちのうち、遥か彼方にあって純粋な想像によってその正当性を無制限に算出するような他人像(チベットであれ、イラクであれ)は敵対するにせよ、支援するにせよ、何れにせよ個人的な信条や傾向に基づいて行われるし、それ自体に我々はどんな疑問も抱かないですませることができる。しかし、近くて遠い他人というものもあるし、我々の生活や生において危機的であるのはこうした人間たちの方なのである。彼らは何かを意図せずに炙り出す。


そして、加藤某は極めて密度の濃い――つまり、様々な周辺情報が個人の人生の要素として提示されているような――他人である。我々は通常の「犯罪」を捉えるようには、あの事件を捉えることができない。犯人を向こう側に置くことは意識的に操作することによってであって、その能動的な振る舞いこそが自分自身に苦痛を与える。そして、一度加害者を理解しようと努めはじめると途端に、いくらでも合理化するための手立てを与えられ息苦しくなってくる。


被害者に寄り添って憤りを露わにするためには、加藤某は世間に埋もれた日常的な他人――その他一般という意味における最も薄い他人像――でなければならなかったが、少なくとも僕はこの最初のステップで躓いているから、逆に彼を容易には「理解」など出来ないことを知る羽目になった。


そして、ここからさらに問題が出てくる。我々はあれやこれやの事件について野次馬的な鷹揚さと傲慢さを持って様々な角度から論じることができるし、他人たちとそれについて話をすることができる。このようにして、出来事は主観的で閉じられた個人的な意味から討議的であり敵対的であるような社会的な意味の最初の一歩を踏み出す。こうなると最早出来事の意味を特権的に確保できるような正当性を持った主体、というのは想定不可能になるし、事件は当事者間で収まりがつくようなものではなくなってしまう。


そう語られるに相応しいか相応しくないかについて、予め決しうるような有効な指標というものは原則的にいって、あり得ない。どんな出来事であっても、その取り上げられ方やその状況や文脈の如何によっては意味を獲得しうると言えるし、何故かといえばどんな主張もどんな感想も発話主体の生が本来的に集団的であり相互的であることで人は何時でも何処でも社会的な存在でしかありえないためである。

しかし、社会的な存在であることはある意味で苦痛を生みだす元凶でもある。我々は自分自身を語る時にそれが自分個人に属していて、自分が特権的にかつ主観的に語ることの許されたものであると見なしたがる。個人の生を可能にするような私的空間という虚構を、我々は職場や家庭やその他公共的空間において措定することで社会や他人たちの無遠慮な介入を退けてきた。


死んでしまった人間たちはもう存在しないし、誰も生き返りはしない。存在しているのは死であり、死体でしかない。その不可解さを前にして日常的な生活に回復するための儀式が弔いであり、遺族の多くにとってこの過程は決して楽でないどころか、そうしようとすること自体がすぐさま事件の暴力的な介入という衝撃を想起することに繋がるだろう。死者はどんな社会的・集団的価値を与えられたところでそれをすり抜けていってしまうし、それは本来的に不当で不正なやり方でしかない。個人としての、地縁血縁の媒介としての――あるいはその他集団的な関係のうち、社会から一定の自律性を持った関係性を結びうるような――当事者=<関係者>にとっての事件の意味とは恐らく議論することでもなければ、その結果としての意味の暫定的な付与でもないし、ましてや集団的で社会的な価値が何処かに見出され、あれやこれやの社会的政治的枠組みのなかで回収されることを望むことでもない。人は政治的であるより他なく、社会的でないことなど望みようもないけれども、それでも他人たちを個人として知り、かつまた個人として共に生きてきた、不透明で分厚い生の膜に覆われた<この私>にとって彼らの死はどこまでいっても「個人的」でしかない。それは、つまり、社会内の集団的な意味の奪い合いを前にして吐気を催すような不快感と苦痛を覚えるということである。人生には政治以外にも大切なことが色々あるし、社会は個人を可能にしている。それはそうだ。けれども、こう言ってしまえば何事であれ個人としての自分と社会内存在としての自分を調停することができなくなってしまうし、前者のみを他人たちに割り当てる限りで大きな不正を犯している。他人たち、死者の直接的な関係者たちは我々と同じように引き裂かれた人間であるだろうし、場合によっては我々がそうと勘違いしているように前者のみを自分自身に見出しているかもしれない。


結局、なにをしても他人に干渉し誘惑し、その限りで暴力をふるう以外に我々が他人と関係を構築する方法はありえないのだろう。どんな最小の抑圧も最大限の配慮も暴力的でありうるし、事実の中で他人たちと意味を巡って争わねばならないのなら、どのようなカバーの下であれ、それは暴力と呼ばれるに相応しい。だから、僕は自分にも他人にも聞いてみたいのだけれども、果たしてこの事件はそれと語られ、争われるほどの意味を持っているのだろうか。


もちろん、そして残念ながら、十二分にある。事件の場所性であれ、或いは犯人の置かれた社会的状況であれ、その持つ社会的属性であれ何であれ、一つの有機的な全体を構成するモメントとして機能するよう促す何事かがあの出来事に凝縮されているからこそ、我々は途惑いと躊躇いを感じるのであるし、最も重要なことはこの戸惑いと躊躇い、そして途方に暮れた怒りの感覚である。これこそが、社会的な同質性を最早担保しえないことを暴露し、そこに還ろうとする反動とその場に何時までも留まろうとするカタプレパシーを同時的に産出する、出来事総体の意味の情動的な現れなのである。この混乱し怯えと不安を隠しきれない意識の動揺をこそ、そして、意識同士の和解不可能な相互の断絶と事実としての制度的集団性の間の矛盾をこそ、我々は考えなければならないのだ。


自分がそうなるかもしれないという観点からも、自分と異なりながらまた似ている、受け入れがたい他者という観点からも、様々な社会的理由を配備され補完されることで益々言葉を奪われていく我々の苦痛に満ちた生という観点からも、あの事件は語られ、記憶にとどめられることを要求している。


だからこそのうんざりした疲労感と躊躇を生みだすのだ。我々は加害者についてなら幾らでも語り得るし、またそうすることが自然の反応とみなすこともできるけれども、偶然的で如何なる瑕疵も発見できないような、人格的価値と無関係に被害者性が付与される死者たち――殺された人々については、どんな語り方もできない。実際、言うべきことも語るべきこともないのだ。彼らはたまたまそこに居たから殺されたのであって、何も彼あるいは彼女であるべき必然性はまるでないのに、今や事実の中で必然的なものとして彼らは殺され、あるいは傷つけられた。彼らが自分の内的な衝動や志向性から語り始めるなら、我々はその時はじめて別々の各々の立場から発言することが出来るし、そうすることが相応しいと思える。けれども、彼らは――彼らのにとっての事件の意味は、我々からあまりに遠く、人を寄せ付けない。同情や配慮は事件と無関係である。何故なら、そのような情動はたとえ彼あるいは彼女が何者であれ、不幸一般に対して他人たちが見せるそれと大差ないものだからであり、今回のケースに限って言えば、そのような情動を基底部に据えれば据えるほどに被害者たちからは遠ざかり、しかも事件について語る言説の内に封じ込めるという最悪なものにすらなり得る。


以上のようなわけで、この出来事について語るのは僕には苦痛だし、他の何事をも後回しにしてでも取り組むべき出来事と考えることは、その徒労感と憂鬱さを前にしては、とてもじゃないが出来ない。どうあっても他人たちに暴力を、不正を差し向けるのなら、その目的が、目的によって獲得される集団的な価値が、そしてそのための方法論が必要になる。でも、今回の事件についていえば大事なものがあること(いくら横領され、意味付けの権利を奪われたとはいえ、様々な社会的表象=オタク・非モテ派遣労働者はその根源的な有用性と意義を失いはしない)は了解できても、どこから作業をすればいいのか分からない。僕には加藤某を排除することができないし、その行為が殆ど無意味で孤独なテロルだとしても、それだけで即座にすべてを退けるだけの大義名分にはなりえない。そして、社会的な態度とは僕にとって第一義的に政治的であること、それも明瞭にイデオロギー闘争に基づいた形でのそれであるからには、この範疇に相応しくない対象をそれと分からない形で論じることは出来ようはずもない。他方で、無意味に殺された人間たちという虚無と断絶があり、こちらは何も訴えない代わりにその存在を永遠に刻印し続けている。そして、あの場所――秋葉原にはそれなりの思い出も思い入れもあって、好悪を含んだ感情を覚えているけれども、それだからといってあの事件が即座にそこに影響力を持つのか、またそうであるべきなのかも判然としない。


政治的な教義であれ、人生哲学であれ、社会的な規範価値と実利のバランスのとれた関係であれ、およそ人の考える疎外の解消と自律的な自己の自由、実存的な苦痛からの解放といったものを絶対的な形で約束することはできない。あるいは、それが経済的境遇の改善であっても事情は同じだ。誰も何からも救われはしないし、一切が人生にとっての苦痛の原因になりうる。それでも、たとえそうであっても、現状の不快感と苦悩に満ちた生が終わるのだということを他人に信じさせることが出来るのなら、それは恐らく正しいのだ。その可能性は信念において、そしてそれと分ち難く結びついた実践において、すでに潜在的な形で現在の内に見出されるのだから。政治的であることは敵対を起原におくとしても、それ自体が肯定的な契機――一言で言えば希望を告げないのなら、そのような政治性は単に十全に満ち足りた人間たちの手慰みに過ぎないし、実存的なものを政治から排除したところで実生活の延長としての政治的闘争は自分自身を巻き込む形で実存の有り様そのものを変化させ、再度政治的な言語によって自分自身を表象しようとするだろう。というのも、本当のところ我々が自由であるにも関わらず抑圧されていることが真の問題なのであって、我々が我々の人生においてすら、その存在の様態においてすら主人たりえず、権力を持ち得ず、他人たちに巻き込まれ他人たちに干渉され他人たちと共に地獄にいるということこそが、あらゆる政治の原動力なのだから。政治が終わる時とは、他人が消滅した時でしかありえない。


未組織末端労働者の実存の苦悩は、人間の共同性の全面的転覆とやり直しを要求している。単なる生活上の彼是の個人的な生があるばかりでなく、そのような生を根底から支えると共に具体的な形でそれを構成している集団的な制度があるのであって、これを自分自身で他人たちと織り上げていくことが本来的な人間の共同の形式なのであって、これらを見過ごし、あるいは排除して、生活の外に政治を持ってくるやり方ではどんな具体的で実際的な施しも何の効果をも齎さないだろうし、今回の事件を口実にガス抜き的に派遣労働を違法化しようとか、それによって正社員という伝統的な枠組みを解体しようとかいった試みは、すべて恩恵でしかなく、また端的に時代の要求に経済的制度を暴力的に従わせることでしかないが故に馬鹿げている。お為ごかしに適当な「解決」を与えて、関心を解消し、あたかも問題が解決されたかのような演出を以てある志向性をその芽が出ぬうちに摘み取ろうとする政府の姿勢は最初から如何わしい。労働は永遠であり、資本制は搾取を止めたことなど一度もないし、国家は人民を抑圧することでしか統治をおこないえない。そして、我々の実存はそのすべてのモメントから成り立っている。