お返事


http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080611/p1


ここのコメント欄に書き込んだので、その相手のid:NaokiTakahashiさんにお返事をいたしたいと思います。でも何を語れば?事件に対して、当初考えたことは以上に書き記してあるし、お返事といってもそもそも事の発端が横入りでコメントしたことなので、どうにもやりにくい感じ。


えーと、あれか。状況的にはhokusyuさんが今回の事件の加害者の名前を通りにつけることを主張して、その根拠として事件に対する安易な「切断処理」に抗するため、というのを持ち出して、それに対して大反発?みたいな*1


でも、通りに名前をつけることは正直言うと、あんまり興味がわかない。実効的であるのが過程でしかなく、ほとんど義務的勧告になりがちな倫理的要求しか持ち合わせていない行動というのは、どうにも違和感を持たざるをえないのと、事件それ自体が真面目に考えれば考えるほど意味を失うようなものであるため。だって、通り魔事件て殆ど考えても道理の伴った筋道だった議論を受け付けないように思えるし。あと、感情移入もできないよね。事件を物語化することの無意味さを、これほど露骨に示す事例もないと思うのだけれども。なんとなれば、今回の被害者って加害者と無関係なわけだし、被害者が抽象的な被害者性を保持することができるのもこの無関係性故なのだもの。だから、皆、週刊誌や新聞の書きたてる被害者のライフストーリーに違和感を持ったんでしょう。要するに最初から皆が興味があって、動揺したり、不安になったり、感情的に動かされた部分てのは被害者の人間ではなく、加害者であって、しかも被害者が純粋なものとして現れるのは正にその因果関係のなさ故であって、何だか知らないけれども、被害者は単なる死者それ自体としてしか扱われないことの方が事件の意味を考える分には丁度良かったってことだろうし、それで被害者の半生に感情移入し始めると今度は加害者を絶対化しなければならないから矛盾を来すってことじゃないか。


そういや、この事件を知った時に――まだ犯人が誰で何者であるかも分からない段階――反射的に思い出したのは、昔、退職金がらみで不満を持った労働者が会社に立て籠って爆死した事件で、要するに通り魔をある社会的不満の表現とみなしていたということなんだけれども、それ以上に思ったのが、あの事件は当時言われだしていた「不景気」という言葉と組み合わされて言及されたりもしたけど、なんだか直ぐに忘れ去られて口に上ることもなくなったけど、今度の事件はその場所も事件の有り様も時間帯も全てが一つの像に回収できないような後味の悪さを残すだろうし、そうであれば逆説的に事件は忘れられないだろうということだった。いやな話ではあるけれども、加藤某が工場にトラックで突っ込むという計画を実行したら、分かりやすい因果関係の中に回収されて終わったと思う。


そういうわけで、この事件についてはもう何と言うか気持ちの悪い感触があちこちから溢れ返っていて、ちょっと触りたくない感じがする。要するに露わにされているのは、またしても当事者たちの社会的属性や状況の事件との因果関係でもなければ、その事実の社会的価値でもなく、反対に我々自身の余りに惨めで粗悪な「消費」行動であって、正当性――被害者への配慮と誤って呼ばれている、単なる自己保身か物語化への希求――を真面目に論じ始めれば、どうあっても滑稽なものにならざるをえない。


さて、そうはいってもワタクシ様は一度ならず二度までもコメントを書き込んだわけだし、それに対するNaokiTakahashiさんの回答には多分応えねばならないのだろうと思うので、一応暫定的なものですが考えたことを記します。といって、この対話に何らかの生産性を期待するわけでもないし、そもそも自分自身の内的必然性が見当たらないのでどうにもこうにも困ってはいるのですが。


>今回通りに名前をつけてしまったら、それが今後の範になりませんか。本当は、生きている間にその不遇をどうにかするべきものが、死後の名誉なんて空手形で動員される人を見ていると、気の毒です。名前は彼の死後にも残ります。この事件があったからこの地名、ではなく、この地名の元になったこの人物、と逆転される瞬間は必ず来ます。多分オタクにこの命名はたいした衝撃は与えません。5年か10年でただの地名になるでしょう。


>通りに名前がつくことが「表彰している」ことになるというのは何故ですか?<そうじゃない例を思いつきません。世界的に、地名に人名を取り入れるのは、その人物を英雄なり神なりとして称える意図があるのでは。日本の場合の、存在を無視できない大逆者・体制の被害者を荒ぶる神扱いで祀り上げちゃえ、というのも、ある種の切断処理な気もしますね。道真とか将門とか、怨霊を神に封じてしまおうということでしょう。


通りに名前をつけることが称揚であるか否かですが、何だって可能性としてすら否定的価値の付与を考えられないのかが分からない、ということを申し上げたかったのですが、まあ、そう言ってないだろうがカスと言われればそうであるようにも思えなくもないのでその辺は率直に非を認めます。


ただ、歴史上、ということで考えた場合、別段称揚ではなく、悲劇として出来事それ自体を犠牲者の名を以て刻印することだって通常の事例として考えられますし、あるいは挙げられているように怪物や怨霊といった存在はある一定の秩序を担保する装置に回収されつつ、また何処かでされ得ない、そのような不安定さを伴った状態で祀りあげられてきたわけですし、前近代の事例を以て近代社会に適用しようとは思いませんが、それにしても平将門であれ何であれ、神格化は切断であっても、その意味するところは一方的な善性の付与や肯定ではないし、そもそもの居心地の悪さを抱え込んだままでの、それ自体の衝撃の大きさを示しているとも考えられるわけですし、そのような神格化された存在に対する畏怖とか崇高といった感情は<良い>ことも<正しい>ことも意味していないはずであるし、出来事の記憶が悲劇の弔いや勝利の称揚といった観点からのみ正当化されているとしても、それは誰にとっての悲劇であり、誰にとっての称揚であり、誰がその意味を付与するかによって価値付けの方向性なんてものは幾らでも変わると思います。それで、こうした意味付けや価値づけのために争う、というのは社会的な常態のはずなのであって、道義的な満足を別にすれば被害者への配慮を最優先させることは単に一つの立場であるに過ぎないし、加藤某と彼が引き起こした出来事それ自体にとってはオタク性なるものは事実として現に存在しているけれども、かといって必然的なものではないでしょうし、また集団としてのオタクにとっての死活的重要性を担うわけでもないでしょうし、またそれのみに還元される事例でもないわけであって、本来的には事件が総体として如何なるものであり、いかなる意味があるのかは不分明な状態から始まって、問いや疑問として考えられ、各々の結論を巡っては相争う一連の過程において、はじめて暫定的な意味を帰結しうるものであるのではないでしょうか。


前半に関してはそれが事後の展開の一般的な蓋然性に基づく限りでは同意いたしますし、そうなる公算は高いでしょうが、それは通りに名前を付けることが容易である場合でしょうし、今回の提案は単に言われただけでこれほどの反発を食らうのですから、そもそも中々解消されないジレンマになるとも思います。実現される見込みがきわめて低いあたりを度外視すれば、ですが。(ただし、一点だけ。オタクが衝撃を受けるか否か、消費されるか否かといった問いは、まさに当該のエントリの主張を実効的なものとするための過程において賭けられているものでしょうし、そうであれば、そうしたプロセスは継続的で持続的なものとならざるをえないでしょうし、その明示的な目的の達成のためには、これがなされたその瞬間からまたしても今度はもっと能動的な形でその意味=価値を保持するために運動していかなければならないことになるだろうということは明白です。いずれにせよ当該のエントリの主張するところは社会的敵対の明記であり、その公然化であり、しかしまた具体的なものとしての出来事それ自体であるよりそれが機能する場としての社会であり、敵対関係であるような形式的なものにより重点を置くがために、それを実現することは永続的なものにならざるをえないのであって、単なる目的達成によって解消されるようなものでもないでしょうし、他人たちを受動的な存在のままにはしておかないよう働きかけることは当然にも当該の主張ないし運動が要求することだと思います。)


この点にこそ、当該の主張の逆説があって、そもそも広範な反対と不快感を惹起させるが故の「正当性」というものが織り込み済みであるのなら、つまりそのような不快感の噴出をこそ出来事総体の意味の予兆ないし徴とみなすということであり、静的な意味に還元されない出来事それ自体の想起こそが要求されているのであるのなら、表面的には当該の主張の根幹である実現は限りなく遠くなるけれども、その遠さや見込みのなさが一つの倫理的性格をこれに与えざるをえないだろうし、またそれが故に私自身はこのような主張ないしは、それに基づいて行われる運動というものに留保をつけざるをえないわけであるけれども、ただ、そのような価値づけの方向性それ自体が単に「被害者の心情」――それも慮られたものとしての――を損なうが故に否定されるべきだという言説はやはり違うと思います。


道義的な良し悪しが基準になっては、社会的な意味をめぐる敵対はそもそもが正当性を失いますし、被害者は被害者でしかなく、それは当事者が当該の出来事に負うところの諸々の不正が損害としてしか認められないことを意味していますし、本来不正は端的に不正であるはずですが、このような不正それ自体は如何様にしても他人たちと共有可能ではないでしょうし、そうすると非対称性はどこまでいっても消え去らないと思いますし、そのような非対称性を認めないことにはどのような行動の社会性をも評価し得ないことになってしまいます。


別に遺族やら被害者やらに好き好んで暴言を吐く筋合いもなければ、当然にも彼らの立場というものへの一程度の妥当性の感覚に基づく配慮という措置がそれ自体で否定されるべきではありませんが、かといって、出来事それ自体の意味に関して特権的立場を彼らが持つように思えるのは、そのような関係性の持ち方を肯定するような観念が社会的に支持されているということに過ぎないように思われます。これに抗する言説は当然、被害者を特権的なものから引きずり下ろしますし、そればかりか恐らくはご想像のように遺族感情を逆なでするという意味で損害を与えるものではありましょう(でも、本当に必然的にそうかといわれると疑問を覚えますが)。


というよりは、当該のエントリで一貫して問題にされていたのは件の「切断操作」――理解はするが支持しないといった微温的立場から吊るせ!という公的なパージを声高に主張するものまでのバリエーション豊かな、しかし要するに排除しか意味していないような言説――だったはずなので、その操作とやらが社会的良識やら個々人の良心の疾しさという形で植えつけられた、あるいは反射的な嫌悪感という形で刻み込まれた精神に基づいているのなら、当然にもこれに反対すること、それも全面的に――従って形式において否定することは「被害者」なるものの不可侵にして無謬な性質を毀損するものであろうことは当然、想像がつきます。で、この出来事にそれほどの価値があるのかどうか僕には疑問ではありますが、とはいえ、当該のエントリへの非難の声高さを見るとそれなりの意味があるようにも思えます。要するに大騒ぎしてみるほどにこの出来事に価値を見出すのであれば、実際的な困難を別とすれば当該のエントリの原則的方向性それ自体は否定しえないものであるように思えますし、そのような本来的な性質をまともに考慮にいれないという点であらゆる事件への言及――よしそれが「理解」であれ「非難」であれ、およそ何であれ――は欺瞞的でありましょう。


最後に個人的な所感を述べさせて頂くなら、通りに名前をつけることを公的なものとして承認させる、というのはあまり居心地の良いものではないでしょうし、あまり嬉しい事態でもないのであってみれば、ただ単に個人ないし親和的な集団において確認され想起されるところの出来事それ自体の矛盾や違和感といったものを指し示すものとして、加藤某の名前を忘れないし、彼の漠然とした幼稚で杜撰な怨恨感情を一度は引き受ける、という方向を僕としては支持いたします。要するに集団的で自律的な価値を創造する方が、単に敵対それ自体を社会に認めさせることのために出来事を結節点として評価するよりは妥当であろうと考えているということであり、それは出来事の評価が本来的に何がしかの加担と敵対の線引きを具体的に行うことであって、その過程においてそれに勝るとも劣らない重要性を持って前提としての社会的な諸敵対というものあるのだと理解されなければ、単なる抽象的な価値の無意味な祭りあげになると思うからです。


お答えになっているかどうか甚だ心許ありませんが、以上です。返答が非常に遅くなってしまったことに関しては申し訳ありませんでした。あるいは、そのような応答に何の期待も意義も認めていらっしゃらないかもしれませんが、それはともかく私としては以上のように考えます。


(追記080704)NaokiTakahashiさんの名前を間違えていましたので修正いたしました。失礼いたしました。

*1:あれー?でも、そうするとこの状況それ自体が既に当該エントリの目的を半分くらい達しているんじゃないの?まあ、いいけどさ。