西成蜂起について

madashan2008-06-16



http://kamapat.seesaa.net/article/100589547.html

暴動でも騒乱でもなんでもいいけど、まあ、各所の反応見てると愉快だよね。なんか、「野次馬」呼ばわりして「本体」の「暴徒」と区別してみたり、あるいは地区に住む人間たちを問題にしてみたり、面白がって来てようが、腹いせに来てようが一番大切なことはじゃあ、なんでそこに人が集まったかでしょうに。いうまでもなく、奴らがそこにいるからです。合法マフィアが存在し、それが一つのシンボルとして機能するから人はそこに集まるのです。


さて、この話は別に取り上げるつもりもなくて、というのも情報が殆ど出回ってないこともさることながら、多分収束した後の弾圧のが大きいはずだからそれをこそ取り上げないととか思ってたからなんだけど*1、気づいたら全はてな非常委員に先を越されてつい書いてみる。でも、あくまで日記です。特に論を立てる気はないです。だって、何も語る必要ないんだもの。というか、今回の出来事は何も問題はないどころか、圧倒的に正しいのでゴチャゴチャ言ってる馬鹿は自分の頭を検査したらいいと思う。


で、知り合いと飲みに行った時に西成地区の偉大さについて話していたんですが、まあ、最もワタクシ様が感動したのは雨とドヤの門限で帰宅して、またやってくるという、その闘争の日常性なわけですが、これがダメ出しされました。いや、それ自体はうけるんだけど、そこからその闘争を支持するか否かという話になると「お前が考えているようなことじゃない」とか「政治的ではない」とか、グダグダ言い返されたり。ノンポリさんは「そういうもの」として処理したいようです。でも、わかんないのは正しさに関する審級が働いていないわけではまるでなく、またワタクシ様のように原則的にも実践的にも支持するなどとは決して言わず、むしろあからさまに否定的な態度を形成しているのに、こちらが政治性を実践の中に見出すと途端にそれに異を唱えるということです。

つまり、「サヨク」っぽい(社会運動とか労働闘争とか。或いは抵抗それ自体でも?)のも嫌いだし、貧乏人が暴れてるのもダメらしいです。さらによくよく聞いてみると前者は偽善で、後者は道義的に悪らしいです。そして、今度の出来事は少なくともメインの部分は後者であって、その点からいえば、前者の持つ正当性の彼是は存在していないし、そう主張することは現実にそぐわないということになるらしいです。

出来事そのものを道義的に否定しておいて、でもオマワリを支持するわけではなく、良く知らないけど危ないことはいけません的な寝言を抜かすわけですが、それこそ偽善じゃないんですか。そして、一番不可解なのは、明瞭な政治性を抹消しようとするこの姿勢というか、そもそもそれ以前に政治性を感じ取れていないということです。つまり、彼らは何かを主張していないから判断できない、彼らには社会に向けてのメッセージもなければ要求もない(解放しろ!ってのと謝れ!ってのは「政治性」がないらしいです)、彼らは――すくなくとも、そこで現に闘争している連中は被害者ではない、元々が非常に「劣悪な環境」であるが故の単なる衝突であるが集団的な騒動に発展したというだけのことである――と、そういうことらしいです。

理解しがたいくらいにキモイんですけど。


要するに初めから準犯罪者とみなされている人間たちが集まって騒いだところで、それは出来事として鑑賞する分には十分消費に耐え得るけれども、そこに社会性など見出し得ないし、ましてや政治的な正当性などあるわけがないのです。こうして、実際的な出来事として――つまり、社会的な意味を持つ出来事として判断することを頑なに拒否するわけですが、ここに見られる醜悪さは単なる偽善故ではありません。


最初に切断処理をしておいて、「中立」を気どってから*2、今度は当事者の「正しさ」あるいは「まともさ」を云々するわけです。政治性を嫌うくせに、他人については「政治性」の厳格な基準を適用するのです。あるいは社会的なメッセージを持っているかどうかが判断の審級として持ち出されるのです。公然と掲げれば掲げたで厭う癖に、なぜかは知りませんが自称中立ノンポリの皆様というのは「正当性」について直ぐに云々したがります。合法マフィアのやりくちについては常識的な判断を下しておきながら、それを不問に処すわけです。


大人しく合法的で穏健な形で主張すれば無視する癖に、いざ爆発すると今度は非難し始めるわけです。階級性をそこに見出してもいいのですが、むしろプチブル小市民性でしかないので、客観的には政治性が明瞭に存在しても主観的には一切の政治的空間を括弧入れしようとするという志向性が極めて強く、扱いに非常に困ります。そして、それ以上に問題なのはこうした反応が極自然に受容される点です。

「いけないこと」とか「わるいこと」は直ぐに判断できるくせに、そしてそれに対する権力の介入には諸手をあげて賛同するくせに、「正しさ」――とくに非権力者のそれは抽象的で厳格な規則が適用されるらしいです。どっかで聞いた話ですね。


http://d.hatena.ne.jp/madashan/20080517


ここで挙げた話題と構図がそっくりです。存在自体が圧倒的に間違っている屑を相手に直接行動に出ると、決起側にお説教をするわけです。十代が90年の時と同様、今回もやってきたわけですが、これを見て「野次馬」を呼びよせ、騒ぎを拡大したと非難する正真正銘の偽善者まで出てくる始末です。フランスの「移民」子弟*3による蜂起の時も、似たような反応がありました。政治的な言語を以て語り始めれば、嘘だとかインチキだとか決めつけるし、あるいは活動家の卑劣さや欺瞞性を云々して、何も語らずただ事実に対する直接的な行動を以て応えれば、今度は犯罪者か社会の屑扱いするわけです。どっちをしても、自分の気に食わないものにはノーを言うという点で同じなのですが、彼らはそうしておいても自分たちは合法マフィアを支持しているわけではないし、その行き過ぎや暴力を看過しているわけではないと嘯くのです。事が様々なレッテルを貼られ、適当に「正しい」理由を観察者たちによって与えられたあとでは、誰も合法マフィアや行政ギャングどもの過失を認めないわけにはいきませんでした。けれども、彼らはそれでもこの騒ぎを非難しました。つまり、真の問題は行き過ぎであり、その暴力であり、むき出しの憎悪や怒りに基づく敵対にあるのだというわけです。まるで、彼らの味方をしたいけれども、とても庇いきれないとでも言いたげに!薄汚いやりくちですし、恥ずべき心性です。ついでにいえば、大層「開明」的で「進歩」的なリベラルさん――と、いっても消極的なそれも含めれば殆どのヤポネシア人民はこれに該当するわけですが――たちはどこの国であっても、「暴動」や「暴力」に眉をしかめます。彼らはそうやって、自分自身の偽善性を明らかにしているのです。


きっと、西成地区にいる人々はヤポネシア人民にとって遠い人なのでしょう。それも距離ではなく質として。在日外国人がそうであるのと同様に。*4しかしながら、疎遠な人間を前にしての己の道義的困惑や不安を覆い隠すために、彼らの行動を瑕疵として数え上げる振る舞いは勿論明瞭な政治的立場を選んでいるわけであり、それは「野次馬」が行為によって一方の側に加担するのと同様、完全な政治性を有しています。敵対性だけが根源的な政治の審級を示しているのです。その限りで排除し(しかし、必要とする)、抑圧し(けれども、平和を望む)、不可視化してきた(とはいえ、対象化して笑いの種にはする)人間たちは全員、合法マフィアの潜在的な支持者であり、今度の出来事はそれを浮かび上がらせただけのことです。そういう意味では報道による「野次馬」の心配をする人は自分もその一人であり、単に違う側に加担しているということを忘れているのです。ワタクシ様は野次馬や見物人や便乗者が続出すればするほど良いことであると考えております。第二第三の西成が現れるべきなのです。しかし、そういう小難しい話はどうでもいいのです。今回の事件はどこをどう見ても正義は明らかなのですから、問題となるのはオマワリの今後のやりくちの方なのです。というか、はじめからそこにしか問題はありません。そして、それこそが貧困や差別や搾取に繋がる大事な入口なのです。


オマワリはとっとと責任者を処分して、謝罪しろ!治療費と生活費を払え!

*1:本当は弾圧なんか認めちゃいけないんだけど、事実問題としてこういうことは当然予想されるし、最近はサミット絡みでどんな理由つけても活動家や運動関係者を引っ張るのが流行ってる。不愉快にもほどがある。

*2:合法マフィアを積極的に支持するような屑であれば、関係を暴力的に解消すればいいだけなんですが。

*3:これは不正確です。というのも、あの時に立ちあがった郊外分子たちは大半が2世か3世であって、法的にはフランス国籍を持っています

*4:とはいえ、これが単なる社会集団ないし社会階級の隔絶ということであれば未だしも状況は分かり良いのですが、どうも気になるのは同質性によって親近性が担保されているような人間たちであっても、ひとたび世間様のコードに引っ掛かると途端に切断処理され排除されているように思えることです。どれほど近い関係や親和性において判断される他人であっても、一旦逸脱した人間は切断処理しないことには、もはや日常的で一般的な人間たちの集団に入れないかのような強迫神経症がそこかしこに見受けられます。病んでるとしか思えません。