人民の海を泳ぐ

madashan2008-06-14




割合どうでもいいことの一つに共感の原則があります。なぜどうでもいいかといえば、基本的に我々は生活の態度としてはこの原則を呼び起こさないで済ましているからであります。危機においてより一層深刻で真剣なものと受け止められるような共感、同情その他の転移の情動は、日常的な生活の場においては礼儀作法として、マナーとして、要するに明示されない沈黙の掟として身振りと発話による表現に置き換えられるのです。


さて、とはいえ、共感や感情移入と呼ばれるものは日々の生活でもたくさん体験します。その意味では、我々は情動の生き物なのです。我々はなるほど真剣ではありません。我々は確かに対象への愛着も然したる配慮も感じずに生きていけます。我々は自分の感情生活のためにこれらの情動をとっておき、客観的対象への能動的な行為として現実においてその情動を発現させるような真似は、我々にとって凡そ我慢しがたい苦痛です。とはいえ、そのような自己瞞着としてのアリバイづくりのためにであれ、我々は正しく当該の情動に頼って生活しているのです。

問題は情動が人間にとり根源的であり、その本質的な機能である決断や目的への排他的合理性の設置が常に冷静な判断や理性的応答を不可能にするという点にあります。


ワタクシ様は大抵の他人の暴力を見過ごすことができますし、ドン引きすることはあっても一々その被行使者に対して同情するようなことはありません。要するに「うわ…」とか「あー…」という感情であっても、それが現実の中で展開されるよう要請する意思を基礎づける感情ではないということです。

このことは暴力の応酬の中にあっても善悪とやらを判断したり、見世物小屋の真実を見極めるとか、状況を中立的に把握するとかいったしゃらくさいマネを可能にしてくださいます。被害者は一方的に被害者ではないですし、加害者もまた同様です。結構なお話ですこと。


暴力が一方的に見える時でも、我々はその被行使者を無条件に善玉と見なしたり、暴力それ自体を以て双方の素性を考慮せずに行使者を悪と考えたりはしません。「まあ、そうはいっても奴にはやられるだけの理由があったんだろう」くらいのことを思いかねません。実際、そうして仲裁することが中庸であり、協調であり、真の意味で調停だと考えている馬鹿までいます。


そうした素晴らしい人たちの妄言によれば、我々は状況のキャッカンテキ分析が出来るらしく、我々は事態への中立を自然な傾向として持っているらしいです。つまり、自然な傾向は必然であり、必然性は客観性に転化されるわけですね。なぜかは知りませんけど。「中立」が自然な傾向だとしても、その内容を「中立」と考える意識なしには中立は意味をなしません。ましてや、中立的立場の客観的な判断などお話になりません。


しかしながら、我々は臆病さや利己心、あるいは保身から争いごとからは身を引きたがります。そうすると見えてくる景色も変わってきますし、それが仲裁者の条件とも思えます。

そして、仲裁者というのは結局己の選好を元にして、穏やかで融和的に他人たちの実質的な行為によって平和をもたらすよう誘導することなのだと、小国民教育の修身教典には書いてあります。


ヒーローがダークだろうが何だろうが結局我々は自分自身の選好に従って、それに沿った感情を呼び起こしながら虚構を消費していきます。我々はともすると虚構だけでなく現実においても感情移入を己に許すことすらあります。色んな意味で「遠い」出来事を思い浮かべる時など、平然と一方に肩入れしてみたり、自分の感情的捌け口を探してうろつきまわったり、それどころかそうした態度それ自体を自嘲的に認識することで幾らでも感情移入の本来的な能動性を発揮してよいとしてしまうことすらあります。


もちろん、党中央に忠実な人民委員会司法部の下級官吏の皆様方も自分の好きなジャンルや対象は庇いたくなるでしょうし、他人の責めとかいうオモシロ想念に捉われて冷静な判断とやらをしようと努めたところで、心の底では対象の悪をそれと認めるつもりなど少しもないわけでございましょう。そうですね。我々は大体においてえこ贔屓が大好きで、感情的な愛着に従って他人を責め友人を庇いがちですし、感情の混乱を嫌って情動に対抗してみたところで、他人に幾分か下駄をはかせて、友人の瑕疵を荒さがしするという単なる反対物にしかなりません。それでいて、普段からの疑り深く悲観的で冷笑的な態度は何かの拍子で一方的な善、自分自身の良心のアリバイになるようなものを見出すと、今度は途端に情動に身を任せて抑圧への不満と一緒に感情を爆発させるわけです。


そういうわけで、我々は虚構を見る時でも現実を対象化する時でも、要するに端的に自分が当事者でない時には常に、感情を操作して良い様に感情生活の欲求を満たすのです。気分によっては勧善懲悪や敵への苛烈な攻撃とその粉砕を望むでしょうし、他の時は人間たちそれぞれに理由や動機の妥当性というものを見出しては起こり得る暴力にやりきれない気持ちになってみようとするでしょうし、本来的に自分自身でコントロールできないような感情の奔流というものは大方が規律訓練によって管理され抑圧されているということになりましょう。我々はこの自分でもどうしようもない強烈な志向性を持った感情に囚われることを死ぬほど恐れ、日々それへの警戒を怠らないわけですが、そうすると不思議と生活は穏やかで安寧に満ちており、偽善や傲慢の徒にあっても寛容な心で接することができるのです。誠に世の平和は素晴らしく、人間は静穏と諦観による一種の犬儒学派たることが肝要なのです。


我々は日々の生活を不快を避け、また避けがたくそれに出会う毎日に不満をため込み、ひたすら不快で感情を逆撫でするような対象への憎悪を膨れ上がらせていますが、一方でそれが望ましくまた正しいと思って感情を抑圧します。抑圧は意思による決定ではなく、単なる規範意識の自動的な制御でしかないので、もちろん我々は他人たちを恨みます。静かで安穏とした生活は何時になったら来るのでしょうか。


そして、その割には自分の感情的捌け口を肯定的にであれ否定的にであれ抑制的に利用して、感情を慰撫しているわけです。喜びであれ愛着であれ、愉悦であれ、それが如何なる肯定的情動のカテゴリーに分類されるかとは関係なく、我々は感情を満足させ自分自身に幸福を与えるために対象を必要としているわけですけれども、我々は決してそれらの対象に真剣になったりはしませんし、あの燎原の火の如くに意識の隅々まで浸透して我々を支配する感情的沸騰など断じて認めません。それは絶対だめなのであります。


ワタクシ様は哀れなゾウさん哀れな被害者たちに感情的な転移を起こして情動を発露させますが、だからといって彼らに必要以上に自分を与えるような真似はしません。加害者への制裁的感情は容認しますが、被害者を気遣う細やかな感情的配慮など考えられません。少なくとも、制裁や攻撃への欲望と同程度の真剣さなど到底望めません。助けるよりは吊るし上げるべきなのです。もちろん、ワタクシ様は現実の生活において面と向かってそのようなセリフを吐くことはありません。それは無礼であり、社会的なルールに反しており、野蛮な証拠です。しかしながら、冷静な庶民(笑)感覚に基づく判断により悪は今や明らかなのですから、制裁は正義です。ワタクシ様は絶対的に当事者ではありえません。


しかしながら、たった一つだけ例外があります。それは世界の何処であれ、またその統治が平和的か暴力的かに関わらず、国家の暴力装置が実効的な手段として力を行使する時は――その時は、どうしても抑えがたい怒りがこみ上げてきます。国営クソったれ共や合法マフィアども、ファシスト男根主義者、それにあらゆる制服を着たギャング分子ども――これらの屑が何をするにつけ、本能的に不快感と憎悪が爆発しそうになります。その暴力の被行使者が何者であれ、また状況がどうであれ、まさに一方の力が他方に振るわれたというその事実がすべてを決定して抑えがたい感情的な爆発が意識を駆り立てていきます。なぜかは知りませんが、頭で判断などする以前に身体が全身で拒否するのです。あれほどまでに冷静で、あれほどまでに穏和な日和見平和主義者のこのワタクシ様が理性的な態度を取ることすらできず感情に流されてしまうのです。制服を着て武装した山賊どもが人間に手を出すなど、絶対に許すことはできないのです。逆にいえば連中への直接行動はすべて肯定的にとらえることができます。その判断は感情が決めたものなので間違っても動揺など経験しません。これだけは本当に不思議なんですが、革命権力の警察活動ですら気分が悪いのです。もう、紫の斑点が体中にできてもだえ苦しむくらいに不愉快で猛烈に憤慨するのです。やられている側が何者であれ――例えファシストであっても!*1――、制服ギャング部隊が目につく限りでどちらに同情的になるかは目に見えています。奴らは敵です。シュミット的な意味でも、パルチザン的な意味でも。破壊活動は非暴力直接行動であって、暴力ではないというあの正当な教えも、この屑どもの前では無力です。暴力的で徹底的な攻撃への欲望が、どうしても芽生えてしまいます。ましてや、このようなことなど↓…。




ほんと、何でこいつらこんなにムカつくんだろう。

*1:ああ、反革命