DQNはドラクエの何かだと思ってた時期が俺にもありました。


特に参照先はないのですが、ネット上では一時期の盛り上がりは過ぎたとはいえ相変わらずDQN非難が一程度の支持を保っているようです。


DQN嫌いの人たちは、ドラマや漫画でDQN(と目された人)たちが美化されているといって憤ることが屡ですけれども、その彼らの主張というのは単なる消極的否定性の付与以上のものになることは先ずなく、あったとしても奴らが如何にクズかという駄話にしか行きつきません。けれども、これは奇妙な話です。社会的に劣った(と考えられている)集団が、想像的なものの領域において称揚されていることに怒りを覚え反発しているわけですが、この称揚に彼らは嫉妬しているのでしょうか?このオリエンタリズム満載の視線を浴びたいのでしょうか?


反社会的存在が一時的に、あるいは一定の条件下で、社会内のマジョリティ―に称揚され持て囃されるという現象は、古今東西広く見受けられるものです。これは反社会的存在が、抑圧的な既成秩序に抗う単位として機能する可能性を持つからです。成程その限りで一定の評価はされるわけですが、とはいえ本質的に(権威や抑圧に対する)反発の補完としてしか認められませんし、そのことを踏まえれば、決して社会的に認知されるわけでも、身分序列の優位を占めるわけでもありません。また、その機能は大抵の場合、批判や反発の急進性を骨抜きにすることでしかありません。


犯罪者は金持ちや外国人を襲う限りで<義人>としての価値を持ちますが、だからといって彼らが社会的に即座に承認されるかと言えばそんなはずもなく、危機が過ぎ去り秩序が回復されるなら制度の余剰として排斥されるのがオチです。あるいは、官憲が徹底的に締め上げるなら、農民たちは彼らを当局に売り飛ばすでしょう。そして、彼らはこのときを以て農民たちとの同盟関係を破棄し、敵対的な関係を築くことになります。


さて、DQN非難ですが、ひどい場合には、ほとんど同列の人間が相手をDQN呼ばわりしていることもあります。と、いうよりも基本的にDQN非難(とその支持)はルサンチマンによってその正当性を担保しているようにしか見えません。犯罪者や社会的逸脱者をして言祝ぐ金持ちの道楽も大概に気分の悪いものですが、それを見た反社会的存在が僻んで憤りの声をあげるというのは(ありがちな話とはいえ)どうすればいいのやらという感じです。非難されている者も非難している者も社会的には等しく無価値で、通常の社会秩序の中では精々のところ単なる労働力としてしか有用性を認められていないわけでして、目くそ鼻くそを笑うという言葉がありますが、この有り様はまさにそれでしょう。俺たちもチヤホヤしろというのもどうかと思いますが、それにしたって、パンダになれない人たちが見世物のフリークスを指さして、(見物人の有閑階級に対して)奴らを俺たちよりも下等なものとして扱えと要求するのは如何なものでしょうか。


それほどまでに日常生活が圧迫されていると仰るのなら、いっそのこと、旦那さま方の家に火を放ってはいかがでしょうか。ゴミが自分と毛色の違うゴミを見て反発するのは致し方ありませんが、ゴミの本分は暴動であり、その仕事は革命以外にはありえないので、その辺を御理解頂いて余計な瑣末事に心奪われることなく反社会的活動に一意専念して頂けないものかと、無用なゴミ屑の一人としては切に願わずにはいられません