アカいスキンヘッドと「正しい」弾圧

madashan2008-05-05



ネットは広大とかいう戯言があります。そして、また下層階級は反動になりやすいという戯言があります*1。けれども、世界はネットより広大です。物理的な空間である地球もまた、すくなくとも日本語ネット環境よりは広大です。




世の中にはAntifa Skinheadsとか呼ばれている人たちがいます。別名Red Skinsとも言います。わかりやすく言えば左翼の愚連隊です。主にフランスに生息しています。名前の通りアカです。活動は界隈のネオナチを見つけて襲うことです(偏見)。もちろん、お行儀のよろしくて中立性とやらを求めたがる進歩派市民の皆様は眉を顰められていることと思われますが、ワタクシ様は大好きです。腹を抱えて大笑いすることはあっても、ファシストへの暴力に一々感情移入したりはしません。


さて、世の中にはこんなこともあります。



警察GJ!とか言うと思いましたか?違います。本当の意味で真摯なオマワリ批判とはここから始まるのです。こうした事態にあってこそオマワリへの批判的問いかけが必要とされているのです。対して、皆さまが今やっていらっしゃる警察GJごっこは間が抜けています。何故なら判官贔屓を恐れるあまりに、単に政府の抑圧的統治を正当化し、かつ合法化するからです。敵に塩を送るという言葉がありますが、皆様のされていることは自分の首をお盆に載せて差し出すレベルの愚昧な振る舞いです。自分の味方であるような場合にすら、あるいはその時にこそオマワリ批判は生きてくるというのに、皆様方はそれよりも遥か後方で最初からオマワリを免罪されていらっしゃる。皆様は敵味方の空間を厭うあまりに、ご自分を消去して何処にも立たないことを望んでおられます。


確か、H・アレントの反動クソババアあたりが全体主義を指してテロルの政治と呼んでいましたが、皆様におかれましては分断統治どころか社会における徹底した原子化と自己目的化したテロルの反復に生きておられるご様子。社会的共同性や自発的集団性を自分たちから遠ざける振る舞いを倫理的態度とお考えであれば、要するにそれは皆様方がよく訓練された全体主義者だということです。どうやらヤポネシア民共和国にあっては内面の統治は良心の自由とすり替えられているようです。まったく、すばらしいディストピアですね。


さて、上記の動画ですが、ここにはある政治的敵対に基づく象徴的なレベルでの戦術があります。別段、そこいらに繁茂している極右のチンピラを逮捕させたところで実効的な意味などありません。けれども、日常的にこれらの連中を抑圧することには十分に意味があります。政治的には大層正しいふるまいです。けれども、同時にある種の気分の悪さ・不快感が残ります。その不快感こそオマワリへの批判的問いかけへと誘うものです。統治する組織という枠組みそれ自体は何処まで行っても消え去りません。そして、当該の秩序を担保する暴力装置(暴力の二つの機能――すなわち実力行使と威嚇を持つ)は人間が他人たちと共同で生きていく限りなくならないでしょう。革命はこれをなくしますか?いいえ、革命はその反対です。単に暴力装置の合法的基盤を未来に置き換えるだけだと申し上げてもいいです。革命は積極的に暴力を解放します。法*2を設置しようがしまいが、革命的暴力は敵対者を容赦なく弾圧します。警察は解体されるかもしれませんが、代わりに自衛組織が作られ武装トロール隊が秩序維持にあたるだけです。要するにオマワリは永遠です。自由が悪徳(の可能性)を担保するように、権力はオマワリ的なものを担保します。


とはいえ、一々これらの観点にまで遡って、現行の警察のやり口を評価する筋合いはどこにもありません。抽象論としての暴力論にとっては、これらの問いかけや視座は大切なものかもしれません。けれども、皆様方は何処にいらっしゃるのでしょうか。現在の内にあるのです。我々は過去もなく、したがって時間の概念もなく、社会的関係もなく、したがって何処にでも在りうるような、そのような存在ではありません。我々には歴史があり、人生があり、過去があり、そして他人たちとともに、また他人たちの中で、他人たちとの関係において生きています。我々は原理的に言えばどんな立場にもなれますが、同時に二つの場所を占めることはできませんし、それ以上に如何なる立場をも占めないことは不可能です。そして、皆様が問題の様々な側面を勘定に入れて時に他人たち――わけても敵に理解を示したり、味方の偏見を正そうとすることと、自分を問題からオミットし両者に対して不偏不党な立場を占めようとすることは全く別のことです。前者を望む人は大抵後者になりがちです。


我々は普段から、友人たちの不和や敵対に対してはとりあえず一歩引いて考える癖があります。要するに、利益の観点からであれ、道義的な観点からであれ、中立を望みがちです。けれども、他人たちとの関係というものは他人たちの面前においてであるか否かによって、またその場に敵対者が同席しているか否かによっても変わってくるのです。それと同時に、発言や立場もその意味を変えるのです。友人たちとの私的な会話において彼/彼女の瑕疵を考慮に入れたり、敵に理解を示すことは、成程個人の次元にあっては有徳な振る舞いと看做されてしかるべきです。けれども、単に不同意をそれとなく示すためにこうした振る舞いがなされるのなら、それは敵や他人たちをダシにして、自分を公平で不偏不党な人間であるかのように印象付けようとする、姑息な振る舞いと看做されるでしょう。そして、他人たちの不和の現場に居るにもかかわらず、単に両者の欠点や瑕疵を数え上げ以て中立を装うのは、卑劣であるばかりでなく愚劣です。我々は各々の性向に従って、あるいは心理的傾向に従って、偏見やえこ贔屓をその偏り故に批判します。けれども、偏りのある立場の方が相応しい時というのがあるのです。いずれの立場に立つにせよ、公平さや不偏不党性を望むあまりおのれ自身を問題からオミットしてしまうことに比べれば、偏見に満ち溢れた一方的な立場の方がずっと「公正」である場合というのがあるのです。そして、それは、問題が公的であればあるほどに、当てはまります。


有り体に言わせて頂ければ、皆さまはもっと好き勝手に振る舞われるべきかと思われます。

*1:被抑圧階級は足の引っ張り合いをしがちだとか、貧困層は本来的に右傾化しやすいとか、反知性主義的であるとかそういう類の馬鹿な言説のことです。

*2:つまり、誰のものでもなく誰でもがその下に置かれるところの、所謂規則というやつです。