で、結局左翼って誰のことなの?

madashan2008-05-04


気の乗らない総括その2を書きます。ワタクシ様としてはつい先頃はてなデビューをするまで、今回の騒動に関して、全体としては嫌がらせとして、あるいは建前として双方ともに「普通の人たち」ごっこをしているだけだと思っていたのですが、ちょっと見て回ったら本気でショックを受けたり、憤りを覚えたり、疑問を感じたりしている人たちが割合多くて少し憂鬱です。単にデモに参加するのに覚悟だの意識だのが要求されるようじゃ終わりですが、それでも皆さんが「参加」に対して普段どれくらい無自覚に自分自身を棚上げしているかが明らかになってしまったのが何とも悲しいのです。同時にやる気がなくなります。何時になったら俺は自宅に仕事を持ち帰らずに済むようになるのだろうとか思いつつも、政治的な紛糾だけがワタクシ様の心の糧なのでヤポネシア人民解放軍政治指導将校の皆様におかれましてはもっと過激にどつき合って頂きたいのです。おまけに変態ソング教えてくれたことで感謝をしていなくもないinumash氏*1におかれては相変わらずよく分からないエントリを挙げられていて、この人は政治的扇動がしたいのではなくて端的に「あたまがわるい」だけなんだろうかという一抹の不安すら感じさせます。ええ、そんなわけではてな村政治ウォッチャーの皆様が期待されるような理論的話題は止めます。もう少し、泥くさい話をします。そして、勘違いなさっている皆様にお伝えしておきますが、ワタクシ様は脳内・反日・電波の三拍子がそろった革命的ネットアイドルです。うんこはしませんし、労働はボイコットします。



さてはて、今に至るも私には不可解な点が数多くある今回の運動とその周辺の騒動ですけれども、結局「左翼」という語が、今回の運動に乗り気じゃない人たち程度の意味しか獲得していない感じがするのは気のせいなんでしょうか。別に「左翼」が誰だって構いませんが、何のためにそんな面倒な言葉を使って面倒な戦いを誰に対して挑んでいるのでしょうね。さっぱり分かりません。というか、別にある集団を代表して誰かが語っているわけでない以上、個々の発言について問うことや全体的な運動の傾向について云々することはできても、それ以上はできないのが色々と難点です。で、当該の運動においては何が問題とされていたのでしたっけ?ああ、隊列に馬鹿が紛れ込んでファナティックかつレイシスト的な発言をする可能性がある点でしたっけ。あるいはそのような連中が入り込む隙を与えているところですか。


そして、こうした部分にはとりあえず目をつぶるべきという御主張をされている御仁がいて、そこに噛みついて御高説をのたまうお歴々がいらっしゃったというような状況でしたね。さて、この二つは現れ方さえ間違えなければ共存可能な二つの立場だったかもしれませんが、事態の進行がそうした余地を残さず奪い取ってしまいました。この点に鑑み、まあ「既成左翼」とやらが「失敗」したと主張するのは政治的フレームアップとしては多少の有効性もありましょうし、従って妥当性もあろうかという感じがいたしますけれども、その場合、そう主張する側は己の政治的主張を詳らかにしないと意味がありません。要するに「俺はあいつ等とは違う」と言うだけではだめで、その後に「ところで、これこれこういうやり方が一番スマートな、そして正しい有りようじゃないかな?こうすると君たちの良心も、さして威張れたものではない欲求も満足するよね」と来て、はじめてオルグは意味をなします。活動家の皆さんは日夜そうした誘惑=説得の手練手管を磨いていらっしゃることと存じますが、今回の場合一番分からないのは「左翼」という語を使って非難の声に一枚噛んでいながら、本気で「左翼」とやらに期待していたらしい人たちがいることでしょうか。この中には最初から「諦めて」いる人も入ります。


さて、これから書くことがどの程度一般的な認識なのかは知りませんけれども、ある運動があったとしてですね、日本政府に反対するからといって新右翼に期待したりはしませんし、資本主義に反対するのに曖昧なリベラル右派に秋波を送ったりはしません。さらに、彼らの原則からいってその行動に参加する余地があるからといって、本気でこれらの人たちが運動に加担するとは夢にも思いません。利用可能な、有効的な批判手段として使うのが関の山です(とはいえ、非難するにたるほどの相手なのかが先ず問題でしょうが)。そして、今回、問題のやり玉に挙がっているのは「左翼」です。何ですか、この言葉は。漠然とした政治地図を描くとして、お望みなら左右の対立は相変わらず存続していると申しても構いませんが、一体どこに日本の政治状況における左派を代表する集団ないし団体が存在するんですか?共産党ですか?社民党ですか?あるいは民主党左派ですか?あるいは労働組合のどれかですか?あるいは新左翼セクトのどこかですか?あるいは、そうですね、穏健派知識人の皆様方ですか?*2それとも、まさかと思いますが、精々のところブログ上で息巻いているだけの「サヨク」の個々人ですか?――これが一番の問題です。誰を指しているのか分からない非難には応えようがありません。仮にある集団や個人が己を左翼と規定していて、さらに今回の事態に対して静観を決め込んでいたとして、この問いに応えるやり方は千差万別でしょう。


とはいえ、私たちは日常生活において左右の対立を云々することが出来ますし、またある政策や主張を左右のどちらかに振り分けることが出来ます。この限りで「左翼」はなるほど、存在します。けれども、そんなものは状況の中でそれと嗅ぎ分けることのできる空気みたいなものです。そして、その空気を読んで勝手に委縮したり遠慮したり、あるいは憤ったり不愉快になったりするのは誰かといえば私であり、あなたであり、彼や彼女です。自分を左翼とか右翼とか規定するのも結構ですし、他人たちと政治的共闘を望むのであれば持っていた方が良い感覚とは言えますが、そんなものに何か義務やら道徳的勧告やらを感じるくらいなら使わない方がマシなんじゃないでしょうか。しかし、まあ皆様、本当にこの手の言葉が大好きでいらっしゃいますね。ワタクシ様は今度の事態でこれらの言葉に罵倒以外の意味があるらしいと初めて気付きました。ところで、それこそ素直に疑問なのですけれども、まさか世の中の何処かに「左翼」集会みたいなのがあって、そこでは単なる穏健派市民から極左暴力革命主義者までが一堂に会してあれやこれやの議題を議論し合う、みたいな陰謀論的世界を本気で考えている方はいないですよね?そうであれば、当然、それぞれの派閥や党派はそれぞれの論理で動きますし、問題が仮に共通のものとして立ち上がったとしても同じ隊列を組むわけではない、ということも了解しているはずです。問題が個人に還元されるなら、話は一層単純です。いくら活動家の知人やら主催者やらがデモに誘っても、仕事があれば行きませんし、たまの休みは寝ていたいものです。ええ、これが当然の反応です。そして、それが何か責められる理由になると思っている人は、考えなおした方がよろしいかと思われます。普通、参加を募る活動家やら運動の主催者は勧誘はしても脅迫はしません。相手が道徳的勧告に弱いと踏んだ場合にのみ使われることもありましょうが、だからといってその場合は相手と余程誠実な関係を築けている場合ぐらいでしょう。*3そりゃそうです。動員しなければならない相手に恫喝してどうするんです?道徳的お説教ばっかしている人になら揶揄の一つも言いたくなるでしょうが、そういう場合は最初から相手が来ないと踏んだ上でやるものです。


話が逸れましたが、問題となっているのは依然として「左翼」の語とそれが指し示す中身です。ところで、最も単純な左翼と右翼の定義は、相手を非難するときの言葉によるものです。少なくとも、自分を何処に置いているかは良く分かります。連中はそれぞれをそれぞれの名前で呼びます。左翼は相手を「右翼」と罵りますし、右翼は「アカ」と罵ります。相手が実際に「右翼」なのか「アカ」なのかは問題になりません。そして、昨今では「左翼」は揶揄の一表現として広く認められ、ノンポリ諸氏にも大いに使用されています。しかしながら、「左翼」は頭が悪いかさもなければ変態なので、罵られても何の苦痛にもなりません。むしろ喜びます。そして、大喜びでにじり寄ってきては聞くわけです。「それどういう意味で使ってるの?むしろ、君は右なの左なの?あ、その問題に関してこれこれこういう理屈があるんだけど、どう思うよ?」と。イヤラシイ連中ですね!さて、こうした性格のねじくれた気分の悪い人々を大まかに指して「左翼」と呼ぶことは確かに可能ですが、その場合には活動家も単なる暇人も電波もまとめて一緒くたにしてしまうことを了解しなければなりません。そこで再び、問いが蘇ってきます。「左翼」なんて曖昧で適当なカテゴリに対して非難やら批判やらが意味をなすでしょうか?そんなことはそもそも可能でしょうか?もちろん、可能です。当たり前です。政治的扇動やアジ文で一々具体的な固有名ばっかり出していれば、聴衆や読者は混乱します。そこで分かりやすい地図を描いて、その中に個々の具体的な競争者や敵対者をあてはめるのです。このようにしてこそ初めて政治的なアジテーションは意味を持ちうるのです。


それで、今回の場合は、待ってましたとばかりに「左翼」批判が出てきました。中国で問題が起きれば「右翼」と「左翼」嫌いの出番です。彼らはこぞって「左翼」の対応を攻撃しました。その非難は一定の有効性を持っていました。元来、運動嫌いで政治嫌いの人たちにとってこの不快感や嫌悪感はそれとなく共有可能だからです。とはいえ、問題が単にヤポネシア左派勢力に関する嫌悪感や反発であったのなら、「左翼」がこの運動に参加する必要がないのと同様に応答する必要もありません。けれども、批判は普遍的な問いに置きなおされたか、あるいはそのように装われていました。いわく、人権問題というやつです。これに関しては「左翼」は応答の責任があると見なされているようです。そして、「左翼」の利用主義的傾向が云々され、それに対する反論が提起され、非難と野次と怒声が飛び交い、毎度お馴染みの愉快な騒動になりそうな予感が立ち込めてきていました(少なくともワタクシ様には)。そんな中、inumash氏が仰いました。「左派の失敗を認めたうえで運動を展開すべきだ」と。これはこれで一つの立場たりうるものですし、それなりに立派な代物です。けれども、その根拠が提示されませんでした。そして、さらにその先も提示されませんでした。短期的目標すら掲げられず、展開されるべき運動の原則も示されませんでした。どのような思惑があったにしろ、そのまま見るなら彼の発言は単にレイシストを許容するか、あるいはそれに準じてレイシズム的傾向を大目に見ることを要求するものでした。これは、しかし、「左翼」の中の一部あるいは大半(彼の言う「左翼」がどこまで含めるのか分からないのでこうします)にとっては大問題です。案の定、ひねくれ者のD_Amon氏が噛みつきました。「理屈が先だ、ボケ」というわけです。個人的には勝敗は関係ないとか運動以前から言うのもどうかと思いますが、そもそも彼は個人にすぎませんし、個人が個人の道徳ないし倫理としてそのような姿勢をとることに反対はできません。*4


ところで、(話が前後しますが)大方の人々にとって「左翼」批判ないし問いかけは最初から集団的なものでした*5。集団的な問いに対して個々人のそれぞれの(それも、必ずしも政治的原則というよりは幾分かは倫理的な原則に基づく)判断を提示してみせてもあまり効果はありません。とはいえ、この問いに応えられるような政治的に明快な論理というものは現在の日本の政治的対立の中にはありません。マオイストなら、そして未だに「中国は労働者国家」とほざく電波セクトなら、あるいは明確な政治的原則に照らし合わせてこれに応えられたかもしれませんが、そもそも共産主義セクトは人権なんてものを認めたことがないので問いかけが成立しません*6


繰り返しになりますが、この集団的な問いかけは、政治的な諸力の一方のカテゴリに向けられ発せられましたが、それはこのカテゴリが全体として当該の情緒的ないし道徳的観念に対して一定の責任を負うものとみなされたからでした。少なくとも建前としてはそれが根拠らしきものだったのです。しかしながら、集団としての「左翼」――仮にその中に幾つもの集団を内包していたとしても――には、何時如何なる場合においても問いかけに応えられるような、道徳的観念の政治的適用に関する原則なんてものは、もちろん存在しません。そして、日本の政治的地図は昨今すこぶる不透明です。誰も何かを代表できるような状況にはありません。さて、それでは個々人はどうだったでしょうか。個々人にとっても状況は苦しく芳しくないものとなります。然程、政治化されていない層にとっては事態はより単純で原則論を持って中国当局を非難すれば良いものでしたが、ある程度の政治的思考に慣れている人間たちにとっては出来ることと言えば、相手の矛盾や道徳的腐敗を突き以て相手の道義的基盤を崩すことくらいでした。しかも、後者は単純に中国当局の側に立つことを良しとしないのであれば、様々な留保や慎重な姿勢といったものの中で微妙なニュアンスを含めながら相手を批判するしかありません。そして、これは結局、この問いかけに応えるものではありません。というのも前提が少しも共有されていないからです。他方は自分たちと本質的に無関係であると考える人々への同情を感情的なフックとして、また気分の悪い隣人への不快感をその補強材料として、今回の問題に対して判断を下しています。一方は、自分たちもその中に包み込まれているところの現下の状況の中での問題として、この出来事を捉えています。彼我の差は明らかであり、しかも、彼らは当然にも憤っています。この状況では批判的応答は単に政治的対立を明らかにするだけで、そのように最初から考える傾向の人々にしか支持されません。憤りを装う者や己の政治的あるいは排外主義的目論見からこうした状況を利用しようとする者を別として、曖昧で自己欺瞞的で、しかし、それなりに誠実でもあるような人々はこうしたやり取りの中で何を感じていったでしょうか?理屈は大切です。原則は必要です。物事は単純ではありません。けれども、政治的であることは他人たちを動かし、また動かされることです。そして、他人たちになされる呼びかけには常に幾分かの妥協や誘惑や退行を伴っています。感情的なものの共有が必要とされているのです*7


さて、この曖昧で危険な状態に対してinumash氏が参加を呼びかけました(好意的に考えれば、あれは呼びかけだったのでしょう。最初見たときは、またぞろ何時もの「左翼」アレルギーを発揮しているだけにも思えましたが、シニカルで常に自分を状況から切り離してしまうのが彼の文体の特徴ですから)。問題は彼の呼びかけが、あからさまにこの対立の中でしか行われなかったという点にあります。つまり、一方に加担し他方を非難するのです。それはそうです。自分が関与しようと考えている運動を我有化し、彼らを動員したければ相手の非難の中で許容できそうなものから賛意を示すのがまともなやり方ですから*8。inumash氏の呼びかけはある人々にとっては単なる道徳的詐術にしか映りませんでしたし、彼が念頭において批判した「左翼」*9の人たちは喧嘩腰で彼に対応しました。この状況を見て、彼はいつものように議論を宙づりにして「俺は先に行くよ」と現実主義的な装いの下で聴衆に自分の優位をアピールしました。


そうこうするうちに長野の聖火リレー当日がやってきて、デモ隊は官憲と中国人支援者たちによって包囲され、攻撃され、参加者たちは傷つき憤慨しました。そして、その感情を素直にネットで公表しました。ネットにおける常でナイーブさは嘲笑され、揶揄されました。そりゃそうです。今まで散々愉快なことを抜かしてきた連中が自分の時だけ純情ぶるなんてのは馬鹿にされて当然です。カマトトぶるのも止めてくれというわけです。inumash氏は当然にも参加者たちの側に立ち、彼らを小馬鹿にした記事に対して強い調子で罵倒の声を浴びせました。俺は両方の論理を理解して、なおこちら側に立つのだと言ったわけです。さて、はてな有閑階級の皆様がこれらの茶番劇をアフタヌーンティーとくそ不味いミンスパイ片手に鑑賞しているうちに、事態の動向ははっきりしてしまいました。その前からそうであり、かつ今後もそうであるように、これらの運動は己自身の漠然としていて曖昧な「左翼」嫌いの故に、彼ら自身をそのようなカテゴリに属する如何なる集団・個人とも切り離していくわけです。とはいえ、「左翼」の駄目さを云々しそこから脱却しようとする運動は常にありました。運動はそうやって、その度に新しい装いを手に入れきたのです。だから、彼らが「左翼」がダメであるというのなら、別段そんな人々を打っ棄っておいて自分たちで運動を展開すればいいだけのことです。彼が「左翼」を名乗っている以上は尚更です*10。しかし、運動を総括し、それを以て自分たちを現存する諸力の中で位置づけることができなければ、そのような運動は解消してしまいますし、あるいはまた既存の文脈の中に回収されることになります。彼は、問題は正当性にはないと言いました。その点においては既に勝敗を決していると。しかし、理屈において正当性の勝敗がついていたとしても、正当性を体現するのは現実における力です。そして、運動に加担することは正当性についての教説を多少なりとも放棄することです。この中で、彼は運動それ自体を己の望む「左翼」的なものとして位置づけねばならないでしょうし、また他人たちを説得しなければならないでしょう。そしてまた、運動を本当に持続的で、ある一定の政治的有効性のあるものとするためには、自分たちの政治的原則を他人たちに対して提示せざるをえなくなります。何故なら、様々な人が参加可能な運動ないしは集会というものは、政治的主張をそれぞれが発言しないことによって成立しているわけではなく、そのような共闘が可能となるためにはまずもって議論が立ち上がり、それに続いて一定の共有された価値が提起される必要があり、最後にフリー・チベットは合言葉であっても結局それのみでは広範で消極的支持層を見出すことが出来るに過ぎないからです。そして、語られず暗黙の了解で押し通された共闘は個々人が個々人として参与するのではなく反対に無名の群衆になることでしか成立しないものだからです*11


警察に対する評価とか日本政府の対応への評価とかいろいろあるけど、疲れたから今日はこの辺で。次はブラックブロックについて書こうかな。

あ、BlackBlocってのは↓こういう人たちね。現場共闘型でアナキスト及びその親和者で構成されている(と言われている)。まあ、実際、どこまでがBlackBlocなのよとか言われると旗でも持ち出して固まっていてくれないと分からない側面があるけど、基本的に直接行動派で暴力的応答を躊躇わないので、体制側が運動を分断する際の理由にもなってた人たち。








*1:Perfumeはちっとも聴けないけどな!

*2:湾岸戦争の折には大分ご活躍されていた皆様も昨今はあまり聞きませんが、どうしてるんでしょうね、あの人たち。尤も、ワタクシ様がその手の情報に興味がないために知らないだけかもしれませんが

*3:相手が批判対象であればこの限りではありませんが、むしろその時は分かっていて怒るのです。怒ってみせる、と言い換えても良いです。大体、こうした振る舞いこそが、活動家が嫌われ煙たがられる理由でしょうに。

*4:ええ、議論を順を追って提示するのが面倒なんですが、はてな的にはどのくらい紹介するのが妥当なんでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/inumash/20080401/p1

ここに挙げられている各エントリとこのエントリのコメント欄があって、そこから、

http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20080404/p1
http://d.hatena.ne.jp/inumash/20080407/p1
http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20080408/p1
http://d.hatena.ne.jp/inumash/20080409/p1

こんな感じ?ていうかこの人たち、単純に性格が合わないひとって気がしないでもありませんが、それはそれとして発言は発言ですのでそれとして扱いうると思います。

*5:ネット社会は個の運動を促進するとか何とか言われておりましたけれども、少なくとも日本語のネット環境ではそんなことはないようです。ここでは各人が好きなことを言い募りますが、相手には集団の論理や責任をかぶせます。素晴らしい退行現象です。もう少しで人民裁判を通した全体主義運営が獲得できると思うので、政治局員の皆様にあっては倦まず弛まずアジテートを続けて頂きたいと思います。

*6:奇妙に思われるかもしれませんが、政治的諸力としての左翼ないしはその一部にとって、人権という言葉はそれほど馴染み深いものではありません。人権というのは道徳的であると同時に政治的であるような観念です。いくつかのイデオロギーにとってこれは利用しこそすれ、決して遵守するような対象ではありません。人権は以前は確かに「左翼」政治の合言葉でしたし、もしかすると今でもそうかもしれませんが、昨今では左右いずれの陣営でも平然と使われます。そして、大方の人々にとってはこの言葉は道徳的か、さもなければ同情心や友愛を他人たちに押し付けると共有する際に使われる合言葉以外のなにものでもありません。おそらく皆さまは政治的でないことを旨とする余りお忘れになっていることかと思われますが、政治的な諸力としての「左翼」は別に道徳の教師でも何でもありません。単に己の政治的利害関心に基づいて行われる敵対と同盟の関係における一方の側というだけです。そして、そこからすると、日本政府や資本主義陣営の大半を利する振る舞いは、道徳的に妥当な反応だとしても政治的には間違った振る舞いにもなりうるわけです。尤も、未だに中国を社会主義国と看做している人たちは殆どいませんので、今や文句なしに中国を支持する、という政治的選択は余り見かけなくなりましたが。

*7:とはいえ、当該の運動に対してコミットメントすることが「左翼」としての絶対条件であるような如何なる客観的条件もありません。チベット問題はつい先頃降って湧いたわけではありません。ご承知の通り、中国共産党人民解放軍は過去60年にわたり当該地域を占領・統治してきました。そこで如何なる政治的再編成が行われ、また如何なる統治が行われてきたにせよ、この支配が正当化できるわけでもありませんし、抵抗に対する暴力的対応が問われずに済むわけでもありません。そして、チベット人民が如何なる政治的選択を取るにせよ抵抗には支持するに足る根拠があります。状況は明白です。そして、この問題にコミットメントする団体が無かったなどということはありません。利用主義的なものも含めて過去いくつかの集団がそうした問題にコミットメントしてきました。今、それらの運動に参加しなかったことを悔やむ人はいらっしゃるでしょうか?個人的態度としては立派だと思いますが、それは単なる良心の問題です。そして、さらに言えば、チベット問題は聖火リレーが日本を通り過ぎれば、あるいは五輪が終われば、そして仏教徒のボスと中南海が頂上会談をすれば、それでチャラになる問題ではありません。昔から今に至るまで、そして残念ながらこれからも(中国のチベットに対する政策が何らかの形で変更されるにしても、その統治がそう簡単に終わるわけがないことは皆さんだってよくお分かりのはずです)チベット問題はあり続けます。その中で、単純にメディアによって伝えられた惨状の感情的インパクトだけを以て、今回の運動に参加するか否かがチベット問題に関与する試金石であるかのように見せかけるのは余りに見え透いた政治的奸智に過ぎません。特に今回の運動というのは主催する側が何者であれ、ある種、自然発生的に参加の気運が高まりを見せていったわけですが、その発生した状況や場所を考えれば二の足を踏みたくもなるでしょうよ。なんせ、ここはヤポネシア民共和国です。レイシズムはお行儀や礼儀の問題だと考えているような人たちと一緒に行動したとあっては、知性と有徳の志に溢れる道徳家諸子の自尊心はいたく傷つけられるでしょう。「左翼」がこの問題においてキャスティングボードを握るべきだと考える人たちは、そのような自らの主張を実践されればいいだけですし、そうでない人でこの問題にコミットメントしたい人はそれぞれの判断で個々のイベントに参加されればよろしいだけでしょう。ワタクシ様としては、日本政府の難民政策その他を含めた過去の経緯を一切視野に入れない運動には積極的な賛同はできませんが。

*8:しかし、今に至るもこの辺は不明です。というのも、彼は相変わらず己の立場を正確には示そうとしないからです。

*9:ちなみに言えば、彼がエントリで挙げている人たちは教条主義的であるというよりは道徳的な人たちだと思いますが。特定の政治的立場というよりは一般的で原則論的なお話しかしませんし。

*10:ところで、ワタクシ様には未だに良く分からないのですが、彼の言う、そして彼自身の「左翼」ってのは何を基準にして言っているのでしょうか。ワタクシには、彼は良くいるタイプの漠然としたリベラル右派という感じなんですが。まあ、確かにリベラル右派が左翼を名乗ってはいけない理由など何処にもないのですが、彼は彼に味方をしてくれるはずの勢力を間違えているような気がします。反戦団体やら人権団体やら、あるいは既存左翼政党でも構いませんが、その中で彼の主張を十全に取り上げてくれるような政治的勢力というのはいないように思います。民主党とか如何ですか。あそこは国家主義者から社民主義者までいますから、呼びかけてみればいいのでは?あとは自民党とかも意外とお薦めですよ。官製デモだとしても、一定の利害関係の中でまずまずの満足を得られるんじゃないでしょうか。あとは、そうですね、ナショナリズムに親和性があるところと言えば共産党だと思います。ただし、連中は自分主催じゃないと参加したがりませんが。それとも、G8闘争を持ち出していらっしゃいますけど(そして、その取り上げ方がまた意味不明ですが)、あれですか文化祭的なノリで皆で騒ぎたいんですか?別にそれならそれで、そう言えばいいじゃないですか。一々、左翼がどうこう言わずに。そうじゃないなら、中途半端に自尊心を満足させようなんてせずに、政治的敵対を真面目に煽ってください。

*11:とはいえ、このことは外部に対して徒に提示する必要もないので、inumash氏におかれましては当該の運動において積極的に参加者たちと議論して内部にカードルを作るなりしていくのがよろしいのではないでしょうか。ワタクシ様の個人的趣味としては、ミリタンだのカードルだのが運動の結節点としてあるような在り方よりは、現場共闘型のそれこそBlackBlocみたいな在り様の方が好きですが。