政治的なものについて
たかが揶揄の一つや二つに、いちいち言及するのもどうかと思うし、なによりエントリを立ち上げることで相手のそのような態度を合理化するのもどうかと思ったのだけれども、何だか状況が妙なことになってきて既に当該の言説が合理化されているようなので、そのような事態にコミットメントした人間として気の早い総括めいたことをしようと思います。
■前置き
さて、ナイーブさを装って他人に対して野次を飛ばすことを伝統と格式ある政治用語においては「アジる」と言います。要は相手を挑発することです。それ自体、個々の文脈から切り離してみるならばそれなりの妥当性を持った批判も、アジテーションとして示されるのなら額面通りには受け取られません。もちろん、扇動家はそのようなことを百も承知で行います。なぜかと言えば、扇動する人の狙いはと言えば相手を説得することでも論難することでもなく、その場に存在するであろう潜在的な同調者をして相手と敵対関係に入らせることにあるからです。敵対党派主催の集会にわざわざ参加する活動家がやることは(趣味者でもなければ)一つしかありません。聴衆やシンパを主催者から引き離すことです。そこに新たな敵対の線を引くことです。挑発行為は美しい行為とは言えませんが、卑しくも政治的な圏域においては美的審級は最も重要視されないものの一つなのでそれ自体は大した問題とはなりません。よくある戦術のひとつです。
こうした振る舞いは外部の観察者にとっては単なる内ゲバですが、当事者たちにとっては死活的です。たとえどれほどに不毛であったとしても。さらに言えば、扇動する側もそれに相対する側もシンパにありがちなそうした動揺を上手く利用することを考えています。挑発の言動が発せられるなら、不注意で素朴な人々は混乱して己の立場について自問しはじめます。扇動家にとってはまたとないチャンスです。もちろん、相対する主催者側にとってもこれはチャンスですらあるのです。何故なら、集会に参加する(意識的な支持者でない)個々人や同調者はその集会がメインターゲットとしている批判対象についての姿勢を共有してはいても、党派的立場にはさして興味がないか、或いは不快感を持って眺めているからです。そこで、双方は支持者の青田狩りをしなければなりません。支持層が狭ければ狭いほど闘争は激化していきます。十分に訓練された支持者しかいない集会に出た扇動家はあまり出来ることがありません。やれることと言えば、精々、自陣営に対する意味の分からない、けれどもある意味「勇敢な」応援くらいでしょうか。とはいえ、扇動や挑発は常に敵陣において行われるというわけでもありません。自党派の組織した運動や集会において、その内部から敵対党派を挑発することも考えられます。というよりは、普通はそちらの方がはるかに多いものです。この手の小競り合いは我々がよく見知っているものです。自民党は民主党に対して『批判ばっかで対案がない』と非難するかもしれません、共和党は民主党に対して現今のイラク戦争への態度という観点で曖昧さや優柔不断さを非難するかもしれません、あるいは社会党は共産党に対して非協力的な態度をして右翼の勝利を導いたとして非難するかもしれません。もっと言えば、議会内左翼は議会外左翼が広範な、しかしまた脆弱な支持層を分断したといって非難するかもしれません。もちろん、これらはすべて相互に入れ替え可能です。要するにありふれた現象です。
挑発にはそれと分かる単純な悪意を明示して、違わず相手に届けられる場合もありますが、大抵、事後の経過や事態の動静に従って元々の意図などというものとは独立して動き出します。その結果、挑発者や扇動家と呼ばれる人々にとって政治的利益をもたらすかどうかとは関係なく、挑発に潜在的に仕込まれていた敵対の線を彼ら自身がそれと予測しない地点にまで引き延ばすことになります。こうして不毛な中傷合戦は露骨な敵対関係へと成長していきます。望むと望まざるとに関わらず、政治的であるということは現在の状況あるいは過去から継続する文脈の中である特定の位置を占めるということです。そして、ある人の政治的立場とはその人の意図によってではなく、その発言や身振りや行いにおいて決定されます。もっと言えば、他人たちの目に映った姿こそが彼の、彼女の政治的立場です。この点に関しては誤解という表現は妥当なものとはなりません。仮に誤解であり自らの意図がそこにはないと主張したいのなら、他人たちにそのように看做される形で提示される必要があります。他人たちの目に映る姿とは様々な外的な要因=偏見に由来します。当然、アジテーションもそのような要因の一つになりえます。漠然とした曖昧な概念でしかない左翼/右翼が有意味でありうるのはこのような前提に立った上でのみです。
ところで、説得しなければならない他人たち以外の人間にどのような姿で映るか、ということは最初から問題にはなりません。問題なのは支持を訴えねばならない層とは誰なのかを知ることです。そして、政治的集団ないし党派にとって、そのような層とは政治的原則を共有する人々のことを第一義的には指しています。けれども、卑しくも政治的な集団である限りにおいては、己の政治的利益を換算し、他人たちとの妥協点を見出すことも同時に要求されます。この妥協点は理論において答えがでるものではなく、実践において見出されるものです。だから、戦術的同盟や協力は渋々のものであれ諸手を挙げてのものであれ、常に批判にさらされます。「左翼の更に左には、左翼を『政治的卑劣』として非難する極左がいる」というわけです。さて、一方が他方を卑劣漢と罵るなら、他方は当然にも相手をして道徳的潔癖主義と非難するでしょう。教養あるはてなの皆様方におかれましてはよくご存じのとおり、こんなものははるか昔から知られている事例であります。M・ウェーバーは結果責任の原則と信仰あるいは良心の原則を対立させました。「我ここに立ちて他に立つこと能わず」はアリバイにはなりません。あるいは、こう言ってよければ、単なるアリバイに過ぎません。けれども逆に、政治的な妥協は常に原則的には政治的裏切りでありうるし、望んだものであれ何であれその帰結を引き受けざるをえなくなります。要するにどちらも破廉恥な振る舞いになりうる、という点では変わりありません。前者は実効性や他人たちの同意といったものを度外視しているが故に愚劣なものとなりうるわけですし、後者は逆にその政治的な原則に含まれる諸価値を己の良心や観念的生活のためにとっておいて、実践においては導入する気がないが故に卑劣なものとなりうるのです。善意や誠実さは共にそれ自体では政治的には何の価値もありませんし、単なるシニシズムも同様です。そもそも、意図が問題にならない以上シニシズムはそれが同調した(黙認した)立場の単なる肯定でしかありません。
いうまでもなくこれらは原則であり、つまりは極論です。そして、自由主義者というものは政治において常に複数の立場があり得、かつ共存可能であると見なしたがります。事態が致命的なものとなる時、すなわち戦争や革命といった非常事態においては敵か味方しかありえませんから、自由主義者に言わせればそんな場所では政治は存在しないということなのでしょう。*1状況が致命的なものであるなら、いかなる立場を取ろうとも、結局のところ、敵であるか味方であるかでしかないのです。大変に不毛ですし、悲劇的ですらあります。そして、多くのことがらがそうであるように悲劇的なものとは幾分滑稽であり、アイロニカルなものです。
賢明にして洞察力に優れた皆様がよくご承知のように、私は無政府共産主義が大好きです。けれども、そのような主義を自認したいとは思いません。そうした立場を堅持しようとすれば現今の日本社会においては政治的行動の幅がほぼ限りなく無に近くなるからです。*2一番、簡単で安全な有り様はリベラルを名乗ることです。リベラルは大変幅広いカテゴリーをもたらして下さいます。右から左へのバリエーションも豊かです。ここに落ち着けば都合の良い時に己の良心を慰撫し、また常に政治的な満足感をどこからでも引き出すことが可能です。少なくとも日本におけるリベラルという意味においては。しかし、リベラルを自認しないのであれば、一体、私のような者はどこに分類されるのでしょうか?左翼でしょうか。もちろん、それは妥当な表現足りえるでしょう。けれども、左翼が原則的に選ぶべき諸価値あるいは理念というものは何なのでしょうか?イタリアのある学者はそれを「平等」だと言っています。あるいは他の人々は「自由」だとしました。他にも「再分配」や「人権」、それに「公正」なんて代物まであります。これらの観念の示す諸価値は、なるほど、私の同意するところのものでありましょう。けれども、政治的であるとは現在の状況における具体的な立場のどれかを占めること以外の何ものでもありません。ということは、同じ価値を共有しているとしても、原則的に対立することは可能なのです。現今の「リベラルな」資本主義社会においてそうした諸価値が建前として共有されている以上、それらは有意味な対立を形作りません。*3どこにどれほどの妥当性を見出すか、ということに関して異論の余地がないという事態を想定する方が困難です。結局、左翼という観念は観察者にとって、あるいは分析者にとっては有効な観念になりうるかもしれませんし、具体的な政治的立場や対立が明示される限りで(文脈が固定される限りで)有意味なものとなりうるかもしれませんが、何らかの行動の原則を引き出したり、その直接的な動機付けという点ではかなり脆弱なものでしかありません。
ということで、またしても元の場所に投げ出されるわけです。狭義の意味における政治的原則――特定のイデオロギーを選択し偏狭なセクト主義者として振る舞うにせよ、己と他人たちを明確に関係づけるところのそうした原理を持たずに状況に応じて行動するにせよ、いずれにせよ行動の基盤となる原則から戦術を決定する過程に至る絶対的な指針というのはありえません。お望みなら、こうした困難を政治におけるありふれたアポリアとして表象することも可能です。外部に立つ、あるいはそれが可能だと考える人間にとってはアポリアは其処彼処に見られるものです。けれども、参加することを選んだ人間、一定の条件付きであれ行動することを決意した人間にとってはアポリアは最早ありえません。彼ないし彼女は既に決断したからです。政治的な態度を示したからです。今度はこの外的な装いが彼らを拘束するのです。*4
(続きます)
*1:しかし、自由主義者以外にも似たような危機というのは当然あり得ます。というのもどのような政治集団であれ単独で切り離すのなら、その内部においては常に右と左が存在するからです。左右の語が気に食わなければ指導部と反対派と言ってもかまいませんが、同じことです。右/左という相互補完的なカテゴリーは具体的な状況や文脈、あるいは制度や集団、あるいは諸価値といったものに応じてしかその有効性を保てないのです。
*2:当たり前ですが、そのイデオロギーが射程に含める諸価値の実現、という意味においてです。
*3:余談ですが、日本における建前とは守るべきものではありません。建前とは他人たちとの対話において自分の持ちだす諸価値を他人に強引に認めさせるか、あるいは他人にそれとなく容認してもらうためにあるものです。つまり、ここには責任のアウトソーシングがあります。聖☆おじさんは普遍的です。もしかするとスプレー缶かもしれません。
*4:そして、或いはしかしまた、あらゆることが潜在的に政治的なこの世界にあって、沈黙は状況の肯定以外の何ものでもありえず、要するにそれ自体一つの政治的な立場を占めることです。