知らない人、略して知人*1
本当は総括というか自己批判というかチラシの裏というか、まあ、自分自身の行動の顛末について発見や考えたことも含めてこの週末に書こうと思っていたし、それは王様の耳はロバ状態になる可能性もあるし、何だかアップするのもどうかと思うようなこと*1でもあるんだけど、同時に頭でっかちな観念から少し離れてみて、何も余計なものを持たないで書くという訓練を実のところ、僕は二十云年生きてきて殆どやったことがないことを少し前から痛切に感じていて、それを克服していくリハビリ的な作業を兼ねてやってみようかと思っているのだけど、今は行動を優先させたいし、話すこと、考えることの大切さはよく分かっているけれども、僕は考えることが行動から遅れていくことをアリバイにしていた、或いはしている節があるから、それでは何時まで経っても何一つ変わるわけがないし、もしそれで満足してしまったらどうしようもない。そういうわけで、まあ、今日の行動から戻ってきてから札幌については書くことにする。それに書くと言ったって、他人にとってはまるで情報性のないエントリにするつもりだったし、どちらかといえば自分自身へのひとつの言い訳であると同時に切断点として想定していたから、何れにせよ時間の多少のずれは大した問題ではない。
でも、今回の事件をきっかけにして、反サミットとか反資本主義ってのがそもそも分からないし、何を主張していて、何を抗議しているのか知りたいという人に自分で理解できる範囲の、そしてなるたけ個人の思想信条を脇に置いた、解説的なエントリを書けたらいいのかもしれないし、というよりそれの方がずっと価値があるのかもしれないし、実際のところ、自分自身のためにも再勉強するのもいいかもしれない。というのは、俺みたいな頭のネジを子ども時代にネジ穴ごと総破壊して生きてる人間は勘というか感覚だけで政治的な物事とか枠組みを把握するきらいがあって、それはそれで良いんだけど、やっぱり全く何も知らない人に対して語る言葉がないのは結構痛いところでもあるから。
あるいは、たとえばデモが「楽しい」ことであると同時に切実で「まじめ」であることの二重性をきちんと理解してもらわないと、結構そのあたりで既に引っかかってる人もいるだろうし、逆に「楽しい」ことから社会的なもの、政治的なものを排除してしまう無意識の操作にどう抗っていくかという問題もあると思う。そして、一番理解されていないかもしれないことは参加者の非統一性とか単一性の無さで、参加者だっていろいろだし、実務にあたっているグループにしたって様々で、それぞれにニュアンスやアクセントの付け方が違うし、それは時にはシビアな対立や敵対を生む可能性をもったものであって、しかも、今の運動はそうした雑居性を肯定するところから始まっているということだ。もちろん、一望性とか全体に関する客観的スケッチなんて誰にも出来ないだろうし、そうでなくとも俺みたいなある種ミーハーなだけのお調子者が語るのは色々な面でまずいのかもしれないけど、それでも自分と他人とに双方に語る形式というのを見つけたいし、それが出来れば自分の問題(ここでは他人と話す、という一番基本的な部分)への処方箋にもなるし、他人との折り合いのつけかたも見つけられるかもしれないし、他人がそれを読んで少しだけ自分で何かを考えてくれるのなら、それ以上は望めないくらいの僥倖だと思う。
それで、「政治」なんて本当はそれほど堅苦しく考えるものではないし、何か語るのに資格がいるようなものではないし、生きていることに条件だの優劣だのがないのと同様、自分が何かに抗うこととか戦うことはまったく正当なことで、自分もその一部であり巻き込まれているところの社会への発言は何かこれといって枠にあてはめて「正しい」語り方をする必要はないし、他人たちがそれについてとやかく言うことは本人の発言や行動を基本的な権利として認めることでしか可能とならないという単純な話を分かちあえれば――ちょっと、要求が多すぎる気もするけど――それは、他人の役に立つことだと思う。
同時にそこで嘘をつくつもりはないし、誤魔化したり、詐欺的な手口を使うつもりもなくて、どんなことをしてみても最後には自分の問題は自分でしか片をつけられないし、他人たちと何かやろうとしたって、その他人たちは結局僕らが普段顔を合わせては遠慮したり、誤魔化したり、不機嫌になったり、戸惑ったりする同じ赤の他人でしかないから、その辺の躓きや障害はなくなるものではないし、救済や解放なんて夢幻のようなものだし、そこから先に行くことはおろか、それを手に入れることでさえ極めて困難なものであり続けるということも率直に認める。他人を説得することは最小限度であっても誘惑の手口を免れ得ないものだったとしても、それは何でもいいから引きずりこめばいいというものではないし、自分を尊重することは他人にも自分にも誠実であることが要求されるだろうし、俺は別段活動家でもないし、組織の一員でもない以上は、他人との関係の持ち方は利害関心に基づくにしても、それでも労働ではないのだから何も他人を欺くことはないのだし、必要以上に自己防衛に走る必要性も感じない。
まあ、それはそうと今日の高円寺の報告会&デモだって、一つの団体なり組織なりが企画したものでしかなく、それが反サミットを代表するわけではないのは勿論、その運動体のもつカラーとか方向性だって一つのオルタナティブでしかないし、それは――というのも、俺はそこに関与しているわけでもないから――俺自身の考え方とか方向性とも食い違う蓋然性なり可能性なりはあるし、それでも例えば右翼の集会やら既存政党の集会には俺は行かないし、そいつらはハッキリと自分と異なり、かなりの頻度で敵対的であると感じるのとは違って、積極的な動機付けとか参加への意志を可能にすることができる程度には親和性がある。この微妙なニュアンスをどう説明したらいいのか分からないけど、自分自身ではないから他人や他人たちの団体が自分と食い違う相当度の蓋然性があるという最も広い意味でもそうだし、たとえ異なっていも許容可能だし共有できるものの方が多くて、それ以上に基本的に「良い」と思えるという意味でも、それはそうなのであるわけだけれども、この距離を縮めたり広げたりする努力というか運動というか、そういう基本的な人間の活動はどこまでいってもなくならいだろうし、それはそれで厄介だけれども、それでも他人と何かをやろうという時にはどうしてもその段階は踏まえなければいけなくて、結構しんどいけれども、楽しいこともあるし、それなりに得るものだってあるだろうし、失敗しても喪うものなんてたかが知れているわけだから、することもなくボンヤリと休日を過ごすかわりにデモや集会やその手のイベントに出かけるというのもアリではないだろうか。出不精でめんどくさがり屋の俺が言うことではないし、前向きな人間ってどこか胡散臭いイメージを持ってるんだけど、適当に何でも試してみて、失敗してから考えるくらいの気楽さは持っていたい。
そんなわけで(どんなわけ?)、最近はDIYにも興味がある。違う生き方、違う消費の仕方、違う生の形式というのは全く別次元の世界を作ることではないだろうし、それは現在のうちに既に含み分かち持たれている何事かから出発することだろうし、そこからどう積み上げて、ある方向を目指す持続的な運動なわけだから、自分のことを、自分の人生を、自分の存在を、そして何時でも問題でありつづける他人との関係を――より実体的には経済活動や社会生活の仕組みを――変えるためには何でもかんでも購入することで済ませることではなくて、あるいは全く節約して消費を絞り続けることではなくて、その全体的な意味を変えていく作業なんだろうし、そのためにはDIYって一つの選択肢なんじゃないのかな。それって、たぶん、例えばパソコンやらネットやらの技術的な知識であるとか、実際的なその習得だとかいうことと近いものだと思う。まあ、だからって爆弾作ったりするのはDIYかって言われると迷うけどな!
*1:他人の話ではなく自分の私事として。だから、要するにイタイだけのアレなエントリになるんじゃないかという心配ね。