■怒られるんだろーなー


中国といえば、トロツキストやらアナキストやらの労工闘士たちはどうしているのかしらん。大弾圧を食らいながらもしぶとく地下に潜ってるらしいけれども。返還前までは香港が拠点だったのかなー。ま、どっちにしても弱小も弱小だろうけどな。


http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20080516/1210869250
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080515/p2
http://d.hatena.ne.jp/demian/20080514/p1
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080515/p2


さて、この辺の絡みについて。一応、コメント欄に書きこんだことだし、この問題についてワタクシ様なりの所感を書いておくべきなのかしらん。色んな人に怒られることを覚悟して正直なことを言ってしまうと「どーでもいい」で終わるんですが。

でもね、どうでもいいといえばそれで済んじゃうんですよ、どんな問題も。だって、疑似科学市民運動の緩々なところに浸透しているからといって、それがどうしたのっていう感覚もあるしね。第一にヤポネシアンは疑似科学か科学かなんか何一つ気にしてないじゃない。真実らしさへの漸近的接近なんてものも大方の合意がとられているとは言えないわけだし。君ら、大体にしてからが世にあまねく愉快な商品について、一度でも真面目に問題だと思ったことがあるんですか。健康になるとか、頭が良くなるとか、酸素がたくさんとか、視力が回復するとか愉快な商品でスーパーの棚は一杯ですし、テレビをつければ朝から星座占いなんぞを平気で垂れ流して、通勤電車に座ったOLが読む雑誌には癒し系の特集が組まれており、顔色の悪いチンピラ中年は手に持ったエロ雑誌に載っている金運を呼ぶブレスレットに心動かされ、眠たげに吊り広告を眺めるダークスーツの爺様は奥さんが近所の霊感婆に勧められた数珠だが水晶だかのリングを手首にぶらさげ、地方出の無学な若者はビジネス本の受け売りで片言隻句をぶつぶつ暗誦しつつ、皆皆様、今日も一日元気にクソ労働に励んでいるわけですが、そうした状況について我々の誰もが深刻に受け止めてはいないでしょう*1。本気で信じてないけど、それはそれで一応アリみたいな態度を取っている人たちが大勢いる社会で、唐突に護憲運動における陰謀論がどうたらとか、エコだのロハスだの眠たいこと言ってる人たちが疑似科学ビリーバーであるから云々とか言ったところで、それ深甚な影響力持つんですか、という気にはなりまさあね。政治的影響力とその反動に関する見通しが立たないのに一々取り上げるなんて消耗なことしたくないもの。批判はイクナイ!つーのはその手の市民様方にしてみればそう言うでしょうし、さりとて誰もそんなもの支持しませんけれども、別段その人たちだけが運動やってるわけでもなしに、デモやら運動の中にオモシロさんが紛れ込んでたとして何処までが許容しうるかは流動的かつ不安定なわけで、その辺全部すっとばして一般的な論としての疑似科学陰謀論批判を立ちあげられてもね、という。だって、それやったところで行きつく先といえば、合理的知性への信仰共同体を立ち上げるか、さもなければハードな原則論を振りかざす人認定されて引かれるかのどちらか一方でしかないことは目に見えているわけでございましょう?前者はアホの反動も呼び込むし、後者は極々一般的な反応として現れるだろうから、そんなんだったら「バーカ」の一言で片づけて、自分の仕事してた方が遥かに楽しいんじゃございませんこと。


例えばですけれども、9.11陰謀論にしたところで別段大きな影響力なんて持ってなくて、かといって、きくち某みたいのが運動の中でカルト立ち上げてるかって言えばそんな風にも見えないし、そりゃ個々の運動の末端のなかで脳が湧いている人たちがいるのは事実でしょうし、そういう人たちが一程度集合として認知されうるのもその通りかもしれませんけど、ちょっと目先を変えて周囲を見渡してみても誰も陰謀論を真面目に受け止める人なんかいないじゃございませんか。で、じゃあ、どう受容されているかと言えば、誰かが「こういう意見もあってね」とか飲み屋なり職場なりで言い出して、それに対して「またまた、ご冗談を」とか「へえ、そんなものですかね」とか適当な相槌打って終わりですよ(実話)。そういう席でそれは陰謀論だとか、そんなものに合理的根拠はないとか言ったところで、まーるで通じません。何でかって言えば、誰も「信じている」とは言わないし、常にそうした不確定の状態に置くよう予めエクスキューズをしてから喋ってるからです。じゃあ、信じてないかといえばそうでもなくて、あくまで可能性として認めてるわけです。あるいはこれは現実の可能性の問題じゃないかもしれません。単に情緒的共感(アメリカに対する不信感や反発)を軸にして、極めてあいまいな形で共有された一定の認識の中では許容されうる「意見」であるが故に誰も真剣に反論しないし、反発しないんです。世間には電波なことを真剣に語る愉快な人々がいるのではなく、ノラリクラリとどうとでも言い訳する不愉快な人たちがいるだけです。そして、それはビリーバーであろうがなかろうが大差ありません。そこいらの人相手に「お前ら馬鹿?」とやってみたところで、ハードな合理性を忌避する傾向からむしろ反感を持たれるのが関の山です。信じてるとか信じてないとかいう問題以前に、そもそもが言葉とか言説について誰もまともに受け止める気もなければ、自分自身や他人たちの言動に責任を持つ気もない社会で、今更「疑似科学」がどうこうとか言われても、そら知性と教養に溢れ、推論的悟性と理性的態度を以て選良たるを自認する党公認知識階層の皆様がたにとってみれば大問題でしょうが、今更感もひとしお、あらあら、お嬢様方は運動の問題としてじゃなく端的に馬鹿が嫌いなだけでございましょうと下種の勘ぐりもしたくなりますことですよ。


で、市民運動の比較的緩いところにその手の言説が受け入れられてたとしても、そりゃそうでしょとしか言いようがありませんな。元々、市民運動になんか不信感しかもってないから*2、その手の人たちがいますよとか言われても、あーそうねえ、という感想しか浮かばない。


大体、全体的な意味における社会運動ってそういうものですよ。親和性の高いところに応じて、各種の偏見やら誤謬やらが入り込むし、事実がそれを裏書きしているかに見えれば一層真実らしさを纏って受け止められるだろうし、状況の変化が論としての陰謀論を否定しても、当該の出来事に対する陰謀という認知の枠組みそれ自体を合理化してしまうことだってあるわけだし、そうした傾向や現象を全部否定してみたところで何もならないし、そもそもそういう免疫力の極めて低めな層を取り込まないことには運動は拡大しないわけで、拡大しなければ力になりません。尤も、ヤポネシアでは力とかまるでなさげですが。


まあー、じゃあ、そういうハードルの低い人たちが陰謀論に取り込まれたら問題じゃないかといえばそりゃあ問題ですけれども、そういうのはあくまで個別に、しかも当該の運動の中で批判していくしかありません。で、そんなものは非常に面倒なので、そんなことするくらいならデモの時とかその手の集団から離れておくくらいの方が健康的です。一般論としての疑似科学陰謀論批判は結構ですし、むしろそういうことが出来る体力のある人たちには率先してやって頂きたく思われますけれども、ワタクシ様の個人的な所感を述べさせて頂けば以上で尽きますし、要らぬ心配を焼いて一言多く申し添えておけば、またぞろ馬鹿が個別の問題を全般的傾向に還元して責任を云々しはじめるのは頂けません。


むしろ、皆さま方の批判的理性が要求しているのは、運動に参与しない層を含めての最も包括的かつ一般的な水準における問題と接続した形での個別具体的な陰謀論(あるいは疑似科学)の浸透に対する問題提起であって、単なる個別の運動におけるお花畑さんを笑うことでもなければ、何処にあっても適用できるという意味における一般的な批判のロジックを徒に組み立てることでもないのです。そもそも情緒的共感を軸にして、しかも一定のエクスキューズさえしちゃえば、どんな"信仰"だって平然と認めてるじゃないですか、ヤポネシア人民の方々は。正月神道と葬式仏教を受け入れるようにして、どんな怪しげな疑似科学だって受容できるんじゃないですか。事実の領域にまでそうした信仰を持ち込む人はあまり居ませんし、居たとしてもそのような振る舞いは当然の如く低脳で無教養なものとみなされるわけですが*3、だからといって、予め事実の圏域をかっこ入れして、ある集団の共通感覚(習俗や世間知、それに曖昧で鷹揚な共感原則)に基づく受容であるとしてこれが許容されるのなら、どっちが現今において問題かつ悪質かと申せば後者でございましょう。だって、ヤポネシア人民の一般意思において根拠となっているのは、圧倒的に後者なんだもの。誰も事実なんて気にもしてないじゃないか。


9.11陰謀論大好きっ子の皆さんについて言えば、恐らく冷やかな目で見られるでしょうし、その手の団体それ自体は揶揄の対象にはなると思いますが、それは別に当該団体の主張が合理的水準に達していないからではなく、単にある一定の政治的傾向が付与されているからでしょう。平たく言えば、例のプロ市民嫌いでしかありません。それじゃあ、翻ってエコだのロハスだの言ってるオモシロさんたちについて言えば、スピリチュアルだろうがカルトだろうが結構平気で受け入れられると思いますよ。雑誌でもテレビでも、平然とその手の人たちを紹介してますし。でも、それを批判したらどうなるかといえば、「あーそうかもね」でスルーされるか、さもなければ不快感を持たれるかのどっちかです。「普通の人」信仰の中では、善意や素朴な感情が確認され、かつ既成秩序や一般通念が耐えがたい程にあえてそれらに対抗していない限り、何事であれ問題になどされません。例によって例の如く、合理的説明や批判は好まれないでしょうし、仮にヤポネシア人民がそれを受け入れるように見えても、本当のところ、関心があるのはその批判が誰を(或いは何を)俎上に上げているかであって、結論や過程なんぞ誰も気にしてないのが実態でありましょう*4




(追記)読み返したら相変わらず論が適当なので、エクスキューズしておきますとイワシパンやら酸素水やらと同レベルで問題だと言っているのではなく、一般的に陰謀論もスピリチュアルネタもそれと同列の次元でしか判断されてないんじゃないですか、という話です。あと、こういう場合って全員にトラックバックすべきなのかしらん。日付分けないで書いてるから何かやりにくいなあ。

(追記の追記)あー、でもね、よくよく考えたらエクスキューズを許さないように不断の抑圧は必要だよねー。どんなに鬱陶しがられてもさー。あ、あと、はてな内務人民委員部のチェキストに「普通すぎてつまらん」とか言われた!むきー!!

(追記の追記の追記)文章全体を整えて、余計な揶揄を加えてみました。

*1:ちなみに、今ここをお読みのあなたが自分はこうした世間のありように真剣に苛立ち、不安を覚えているのだと仰るのでしたら、それは単なる神経症です。病院に行きましょう

*2:まー、愉快な罵倒をたくさん浴びせてくださいますことですしね、市民の皆様ときたら。

*3:蛇足ながら、そうした価値判断にはありとあらゆる愚劣な差別意識が混入しましょう。

*4:ついでに言えば、マスメディアが今に至るも平然と疑似科学やら陰謀論やらを曖昧な形で取り上げてしまうのも、同様の根っこを持っているのではないでしょうか。学者センセイや知的教養の高いエライ人たちの言うことなんて詰まんないし、抑圧的なんだもーん、ていう。そして、NGOやらNPOは「普通の人たち」の善意やら素朴な感情やら故に共感を呼びうることがありますが、明確な政治的原則をもつラディカルな批判はそれが苛立ちを呼ぶために嫌われます。やれ、インテリの遊びだとか思想から入ってるとか言われてね。前述のとおり、9.11陰謀論に関してはエコやらロハスやらと違って、一定の政治的傾向が見られるために冷めた目で見られると思いますが、だからといって9.11陰謀論それ自体が忌避されるかと言えば、仮にアメリカの運動として紹介されるなら、その限りで十分に許容されうると思います