今日という日を呪わなければならない、とセンセイは語られましたとさ。

madashan2009-02-10


暴動。てありますよね。まったく関係ありませんけど。なにと?電波って難しいからワタクシ様にはちょっと無理そうです。自己批判して、これからは単なる革命的反日分子として生きることにしました。そんなわけで電波の称号は返上致します。ふさわしい人物は皆さんが良くご存知です。そう遠くない未来に革命の礎となって赤いお★さまになってしまうtoledセンセイです。


皆様方が先刻ご承知のようにtoledセンセイは既に帰らぬ人となってしまいました。彼の敵と彼の友のいずれの側からも、彼は手の届かない存在となってしまったのです。確か。


けれども、センセイの屍を上に築き上げられる自由と平等の一致としての共産主義が事実となることによって、我々はセンセイと再び会うことが出来るのです。そして、その時まで、センセイの真意を理解できることは不可能です。ベスト3とは一体どういう意味においてなのか、大体なんで三つも選ばなければならないのか――これらの疑問は要するに矛盾なのです。党と指導者ではなく、人民と同志においてだけ革命という言葉は、自らと矛盾することなく存在できるのです。そのことが理解ではなく生きられる日こそ、革命の勝利が事実として自らを正当化する日なのであり、センセイの認識が自らを必然的なものとしておられた歴史が終わる日です。いわゆる一つの、本当の歴史はこれからだ的な何かです。大体、人間ならともかく無産者とかプロレタリアとかそういう人間以外の何かが、素朴現実主義の馬鹿がうわ言のように喚く歴史なんぞに従うわけがありません。センセイはあまりに革命的なため、自らを革命にささげることによってしか己自身に報いることができなかったのです。


職業革命家を選んだあの日からセンセイは既に自分を死んだものとして生きてこられました。一度も会ったことが無いし、話したことすらありませんが、センセイはかつて私に次のごとく言われました。


曰く――恥じるべきものがあるとすれば、今日という日が存在することだ。疚しさを感じなければいけないとすれば、未だにこの日があること以外にはない。他人たちへの義務の真の意味は、今日のためにある。なぜなら、我々は未だに国家制を打倒していないからであり、また主権たりえたことが一度もないからだ。まだ生かしておいているからだ。国家制以外のなにものでもないあの永遠の敵が、神話的な起源として偉そうにしているからだ。我々はこれを廃棄することによってだけ、現実の存在となる。我々は自由だとされる。けれども、自由は存在することでもないし、知ることでもない。選ぶことですらない。自由であるのは、我々が今日という日を終わらせるゆえにであって、そう欲するとかそう認識するとかいったことなど全く関係がない。意思や意識において自由であるというのは、我々が他人たちに縛られることなく、自らの必要と必然に応じて決めるということに過ぎない。我々が知っているのは我々は奪われているのでもなければ、欠けているのでもないが、絶対的な意味において損なわれた存在だということだけだ。その点で、我々は和解の機会を失っている。


あれら、人間の否定であり、幸福を不可能とし、我々自身をあまりに深くその悪業に巻き込む敵どもとの間に平和など金輪際不可能なのだから、敵と味方の糞忌々しい政治などという話をしているのではないことくらいは君にもわかるはずだ。私は革命の話をしているのであって、断じて救済や回復や解決の話などしていない。革命は言われるまでもなく、暴力だ。絶対があるというのはそういうことだ。それ以外にありようがないし、銃口の権力であろうが議会の権力であろうが、自分たち以外には自分を代表させることなど認められないのだから、既成秩序は必ず粉砕される必要がある。


君たちは確かに頭もいいし、実に礼儀正しく理性的だ。君たちは何もしないことが平和であるための条件だと信じて疑わないくらい、謙虚で慎み深い。すばらしい美徳だ。義務を知り、献身を忘れない家族的友愛を相互に暗黙の了解で成立させることのできるくらい、君たちは争いを恐れている。暴力が単なる物理的な強制力や破壊などではないことも、規則と規範のいずれもが一致して自分を律しなければ集団性は成立しないことも、抑圧と権力は秩序の根幹であることも、全部分かっている。


君たちは自分を本来的な道義的退廃と見なすが、それは人間の本性などというヤワなものでなく、権力と同一性が是が非でも守られなければならないと知っているからだ。我々は致命的なまでに過っているがゆえに、我々は暴力や悪から逃れられないし、逆にそうだからこそ贖罪意識は欺瞞以外のなにものでもないし、責任と義務はこの平和にあると、君たちは言う。


君たちはこれをどこから学んだか。人間よりも制度が、個人よりも集団が、価値よりも規範が勝ることが人間の幸福と一致すると、誰に教わったのか。そもそも君たちは加害者でもなければ、被害者でもない。そういうのは自由であるところの人間以外には不可能である。君たちは自分自身ですらない。今日がある以上、君たちに何かを決めることはおろか、何かを理解することなど到底不可能だ。君たちは他人を信用しないが、それは他人を信用しなくともいい世界に生きるからに過ぎない。行って、このことを話してきなさい」


しかし、センセイ。それは誤謬というものです。信用や信頼を安全と引き換えに制度の根底に据えることは、人間の社会設計上、あまりに非合理的です。平等や自由なら私でも分かります。その価値を信じてもいるし、賭けることだって出来ます。でも、友愛や同胞精神は仮に排外的でないとしても、その本性上どうあっても一般的で普遍的なものにはなれません。ましてや、センセイの仰る革命には理念と絶対精神の匂いがします。知識人や教養層にとって今や失われたものは、私たちには最初から与えられていなかったのです。私たちは他人との私的関係においてしか友愛や精神的紐帯を築けませんし、それを元に他人と平和に生きることは無理です。師は悲しそうな顔をして言われました。


「君たちは私の言葉を誤解している。それに、君たちは自分たちがシニカルで理性的だと考えているかもしれないが、事実はそうでない。君たちは個人ではなく集団や制度を信用している、というだけだ。他人を信用しないで済むのは、その場その場の集団に同一化することで自分の責任と意思を不明瞭なままにしておくからだ。何よりもまた、そうすることで集団の形式的同一性を公正さの起源とすることで、他人の権利や正当性を認めないで済むからだ。これが規範だ。君たちは、不正や暴力よりも規範への侵犯に対して怒りを覚える。君たちは、誰一人として不幸ではないときでも、それが規範をないがしろにしていると見なされるや否や、たちまち不快感を覚える。


http://b.hatena.ne.jp/entry/http://wiredvision.jp/archives/200508/2005083002.html


君たちは良識や道義を非常にきにかける、とみなされているし、自分自身をそう考えるのが大好きだ。だが、君たちが気にしているのは本当のところ、他者が蒙った損害でもなければ、不正でもない。他人の存在に対する敬意など、君たちの認識には一ミリたりとも現れない。


http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.asahi.com/international/update/0202/TKY200902020149.html


ここに現れている精神はグロテスクな道徳感情と過って考えられているが、そうではない。これはあからさまな規範意識である。それによって齎される実害がどの程度のものであろうが、あるいは相互の同意や平和的友好関係が利害関係者の間で保たれていようが、そんなものは関係が無い。君たちが認めがたいと考えているのは、この行為に表された否定性であり敵対性だ。規範を攻撃し、秩序を紊乱することが君たちにとっての本当の危機なのであって、その内実など何一つ問題ではない。だから、権利は存在しないし、また主権もない。君たちは言葉の上でならいくらでも主権を云々し、権力の基盤を国民だの市民だの好きな言葉で考えることが出来る。だが、君たちは他人との契約関係は問題を起こさないこと、敵対をあらわにしないことだと考えている。君たちには予め権力や権威を認めない考え方は理解を絶しているとみなされる。君たちは自分の責任を不明瞭なままで関係を保とうとするから、結果として実体としての抑圧や権力を配慮とみなし、あまつさえ善意とすら考える。それに従わず、抵抗し、あろうことか敵対を宣告するような思考はあまりに反社会的で、野蛮なものと映る。


君たちが本当に恐れているもの、心の底から嫌っているもの、それは形式的な規範それ自体が否定され攻撃されることだ。君らにとって、実際のところ「被害者」などどうでもいいし、「正義」などましてや問題にはならない。君たちが唯一心配しているのは、責任の所在が明らかになり、権力が明示され、権威が権威として認知され、それによって抵抗や反抗が合理化されることだ。


君たちは知っているからだ。君たちのみせかけのシニシズムも、偽装された諦念も、すべて半ば公然と嗜好された形式としての規範への服従なしには成立しないのだということを。見ないで排除することは君たちにとってはなんら苦にはならないし、距離を稼いでくれるなら自分の意識を事実から守ることだってできるのだ。しかもまた、これは単に中身の無い形式的なものであるわけではない。何故ならば――」


センセイは言葉につまり、俯いてしまいました。これはすべてtoledセンセイが語られた言葉です。皆様方には聞こえないかもしれませんが、彼は語っていたのです。一文字も読まなくても私には分かるのです。


「しかし、君たちは自分のシニシズムをもう一度点検してみた方がいい。君たちが思っているほど、君たちは状況の必然性に応じているわけでもないし、テクノクラシーの合理性に依拠しているわけでもない。近代をその否定であれ、肯定であれ、君たちは好んで語りたがる。だが、君たちは昔から、ずっと同じことしか繰り返していない。君たちは、本当に自分が近代人だと思っているのかね?君たちはそんなものではない。以前は平和と平等が主題だった。最近では自由と安全になった。それで何か変わったわけでもない。どちらにせよ建前だ。君たちは決して建前を守ったことが無いが、そのことで心乱されることなどない。というのも、君たちは君たちの本音を単純に建前の否定であると考え、あまつさえ、これを自分であるより遥かに他人でしかないような人間一般の問題とすることで、認識と行動を分離するのと同様に意識を二つにした。一方は他方を超越し、自分を絶対精神と誤解している。



役人仕事のように自分を扱うことには慣れている君たちは、他人を物や動物のように扱うことを平然とやってのける。付随的でありながら必然的であるような犠牲を論じることは正常で健全な精神の能くするところではないと道徳の精神を笑いとばすが、自分の感情的事実には頑ななまでに忠実で否定や批判に極めてナイーブな反応をするくらい脆弱だ。それは君たちにとって否定できない最後の一線なのだ。自由の前提となる他人と自分の公正なありように関して、自分で自分の首を絞める形で不用意に「現実主義」を標榜した結果、当然のように貧相になってしまった人間の残骸が、自分自身を守るためにどうしても必要とする抑制的で非能動的な社会的正常性こそがそれだ。



君が君の認識を保てるのは秩序が正常性を恒常的に維持できるという予測が成り立つうちだけで、それは本来的に社会契約を知らないということだし、なにより事実として君が一度たりとも敵であるような他人の存在を考えてみたことがなかったということだ。だからこそ、君たちは躊躇うことなく、他人を排除できるし、それが制度的な平常性の中で維持管理されている分にはいくらでも暴力を必然の名の下に合理化できる



君たちはけれども、またしても誤解している。君たちはその自分の認識が他人たちに何を許すのかを、全く理解していない。君たちの正常性の感覚が無前提に正当性の根拠になるのなら、他人も絶対的敵対しか君たちとの間には持ち得ないし、これは事実ではなく、君たちの能力であり、決定であり、自由の結果だ。つまり、すべての責任は君たちにしかない。そう考えているのが他ならぬ君たちだからだ。



選ぶ余地のないくらい自明なものという肯定性は、他人にも平等の機会を与えるが、それはただ単に他人たちが君たちの論理を返すことが出来るし、そうする当然の合理性を持つというだけではなく、全く反対に事実として誰一人反対しなくとも君たち自身の論理の否定という形でしか排除の論理とその正当性が成立しないのなら、それはすべて君たち自身の責任でしかないということだ。


何故なら他人たちは君たちの影でもなければ分身でもないし、君たちの否定は精々のところ君たちの恐怖の源でしかなく、君たちがそうであるように他人は他人たち自身にとって全く肯定的な存在でしかないからだ。君たちが全く問う必要がないと心の底から信じているあの素朴な常識的認識こそが、自分自身の不安を解消するために幼稚で残忍なシニシズムを呼び出すのであり、また、こうした無自覚で全く無思慮なナイーブさを維持補完するのだ。君たちはすべてを語るが、実践や行動だけは注意深くこれをすべて否定する。こうした場合、君たちはまったく他人の疑問など許さない。いつものエセリベラルぶりはどこへやら、君たちは他人にはその自由を認めないあの絶対主義者としての正体をあらわにする。


本来、程度問題でしかない不作為と平和主義の問題は君たちにとっては死活問題となる。君たちは正常性それ自体を作り変えることを他人たちに本気で認めたことなど一度も無い。たとえ、君たちにも平等にそれが許されているといわれたところで、拒否するだろう。問題は不平等ではないし、そもそも君たちは自分の自由を憎んでいる。


他人と争い物事を互いの間で取り決めることそれ自体が君たちには不愉快なものでしかない。そのくせ、自分たちの永遠の現在だけは保障されることを無前提に条件としている。君たちはあまりに幼稚で馬鹿馬鹿しい。他人が自分の決めた規則に従わなければ即座に絶対の敵対以外には考え付かないくらい、どうしようもない怠惰さを他になんと表現したらいいのか。


君たちは敵と味方という観念が嫌いだという。けれども、現実においては君たちくらい敵味方で物事を考える連中はいない。君たちが嫌がっているのは、敵対が自分たちのものであるはずの空間の中に現れることであって、言い換えれば他人が存在することであり、それが公然化されることだ。君たちにとって、他人を平等に扱うには外に置かなければならない。内側においては、常に同質性は恒常的に維持されるべきで、異論や反論はこの同一性を脅かすことがあってはならないのだ。


他人たちを排除することで完成する君たちの正常性は、自明なものと見なされる必要がそれ自体である。それが具体的にどんなものであるかは状況に応じて変わるが、いずれにせよ最初から既に決着がつくようなロジックがない限り、他人との公正な関係など考えることができないし、自分でも他人でもないものによる抑圧という形で自分たちの権力関係を覆い隠すことによってしか、他人との間に平和を築くことが出来ない。君たちが恐ろしいくらい暴力的であることができるのは、君たちにとっての永遠の現在であるような自明さ以外には如何なる正当性も受け付けないし、他人との論争など最初から有り得ないものとして排除しているからだ。


そして、その自明さこそが君たちいうところの捩れであり、半世紀以上前から続く不能さや不全感を基礎付けている。捩れのゆえにそうなのではなく、全く反対に自分たちの考えていることの客観的意味と自分の行っていることの矛盾に目をつぶろうとするかこそ、「ねじれ」などというものが存在するのだ。


君たちのそうした怠惰さは、すなわち国家制が自らの正当性をどこに基礎付けているかに由来している。いうまでもなく、天皇制の話を私はしているのだ。単なる天皇天皇家ではなく、また単なる権力や権威ではなく、社会的正常性の代理としての天皇制を言っているのだ」


「君たちが残忍で容赦の無いリアリズムを僭称するわりに、他人にはそれを認めないで平然としていられるその形式は、そっくりそのまま天皇制の論理にも現れている。君たち自身が認めるように、天皇は「日本人」の自明さの担保となっている。だから、我々はこれを攻撃しよう」


「君たち自身の論理に従って、私は君たちの間に不和をもたらそう。平和ではなく戦争だけが君たちと共にある条件だ。今日という汚辱にまみれた日は国家が勝利を宣言し、永遠の従属へと人間を閉じこめることを正当化した輝かしい記念日であり、また同時に、君たちとあまりに同一化してしまったために固有性すら失ってしまったあの歴史的な正統性としての天皇制が、自分自身を特別でありながら一般的であるような普遍性とみなし、事実によって支配と搾取を代表することを誓った称えられるべき記念日だ。だから、我々は議会や代表制からは程遠く、単なる全体であるような一般意思とは無縁の、絶対的民主主義の名の下に、ひとつの歴史に終止符を打つことで自らの解放としよう。王の殺害が次の王を呼び出すような単なる軍事暴力による政権転覆としての革命ではなく、正真正銘の正当性の主であり、人間の平等と自由を友愛によって可能にする起源としての革命が起こるときにだけ、君たちと私は顔と顔をあわせ、互いに和解することができるだろう。どちらかの死体を見出すことで」


センセイは突然うんざりしたように頭を振り、もう何も言いたくはなさそうでした。まだ、あの大きな体を揺さぶっていましたが、声は掠れたようなブツブツ言う小さな音になっていました。toledセンセイは革命は起こすのではない、起こるのだと古いテーゼを繰り返していました。党が、本当の党だけがプロレタリアートの意識となることが出来るが、それはプロレタリアート自身によって鍛え上げられ、下からの不断の運動がすべてを動かしているときにしかあてはまらない、そのプロレタリアートが規則を守り、資本の倫理を職業的規範として生産性に従事するような単なる労働者であるはずがあろうか、階級からの脱落者たち、まだ組み込まれていないという未熟性を永久に留めてしまった階級未満のごみくずの中から生まれるのだ、とそこで不意にメガネの奥でワタクシ様をにらみ付けると、打って変わって神経質そうな鋭い声で問いました。


「君は敵を正しいと考えられるか?それも完全な意味で」


ワタクシ様はあいにく革命的電波の道はとうに諦めたのです、と恥ずかしそうに答えたことは覚えています。しかし、そもそもセンセイはワタクシ様なんぞを見てはいなかったのです。先生は相変わらず自分自身が心底気に食わないといった声で言いました。


「完全にだよ。自分に許すのと同じくらい寛大で、自分に課すのと同じくらい厳格な公平性を保ったまま、敵を正しいと認識できるか?憎しみや怒りをそれは消してしまうだろうか。しかし、そうなら君には革命は無理だ」


答えを聞く気がないのは明らかでした。私はこうしたことを一切経験していませんし、まったくもって事実ではありませんが、しかしこれが真理です。最後から二番目くらいの。残念なことにワタクシ様は単なる革命的反日分子に過ぎないので、センセイの真意は半分も理解できておりませんが、真理は万人に開かれてあるものだという信念からセンセイの最後から二番目の言葉を皆様に伝えるのです。センセイは苛立ちを隠せないようでした。


「敵はある意味で正しいのではない。まったく完全な意味で、絶対的に正しいんだ――そう考えてみたまえ。人格的にも、道徳的にも、政治的にも、あらゆる点で敵は正しいし、自分と同じくらい敵もまた合理的で妥当性のある十分な根拠を有していると。人間の欲求や幸福や充足という面からも、正義と公正さという観点からも、真剣で誠実なものだと、そう考えるんだ。絶対というのはそういうことだ。すべての正当性や正統性を洗いざらい捨て去ってみたまえ、残るものが革命の価値だ」


何一つありはしなかったとしても、センセイは革命を希望でも願いでもないものとして深刻に受け止めていたことは事実です。何故ならセンセイは未来の中に既に自分を置いていたからです。こうしたことを皆様方にお伝えするのは、センセイが自らを語るよりも、為すことのうちに十全性を見出していたからです。道のりは長く、始まってもいませんが、センセイは失望したり自棄になったりなどしてはいませんでしたし、常に後悔とは無縁でした。センセイと我々は今や互いの顔を見ることすらできなくなってしまいました。けれども、革命が真実であるなら、センセイもまた現実のもとなるのです。明日決めたことは昨日の事実なのです。今日という日を祝うものすべてが粉砕されるから、明日はあるのです。


そして、センセイは静かに、けれども力強く仰いました。


天皇制解体!