「権利」ってのはそうする正当性ってだけじゃなく、(それを)成し得る自由があるという意味だと思ってたよ


http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.scribd.com/doc/11624092/

これね、当たり前のことしか書いてないのね。法律上もフツーの話。もちろん、君らと同じくらい法律なんて知らないし、有体にいってどうでもいい。ついでにいえば、法律なんて規範じゃなくて、結局強制力だろ程度にしか考えてないのも同じだ。ただね、任意ってのはそういうことだし、自らの意思において選びうるということ、もっと端的にいえば拒否しうるという点にこそ、法にあって維持されている権利の基盤じゃないのかね。

まあ、それはどうでもいいや。理屈遊びだっていうんだろ。君らは、それが実際に効力を持てるかどうか、言い換えれば正当性なんぞではなく、現実的かどうかを心配しているわけだ。だけどね、そんなこといえば、この正当性つーのは最低限の現実性を有するし、それが無いというのは制度的な現実には実のところ法も糞もあったもんじゃないって告白してるようなもんだよ。それはそれでいいけど、だったらなおさらポリ公のやることに従う必然性も、合理性もなくて、ただオマワリはその暴力によってのみ、強制力によってのみ現実の存在だつーてるようなものだ。平たく言って、押し込み強盗とかヤー公とかとどう異なるのか分からんよ。まあ、そういう連中は法だの秩序だのはんかくさいことは言わないから、どっちがマシかもよく分からんがね。

まあ、正義とか正当性の話は措いておこうか。君らのコンセンサスでは、正義とか正当性てのは権力関係の中でしか現実的には問題にならない観念なんだし。

ついでにいえば、現実的であるどうかは何時でもそうであるように全体的な状況に関わっていて、そこでは何事であれ自らの意思を明示して、他人たちに反対し、他人たちに当然のことのようにこちらの論理を認めさせない限りは何時でも相手に従わざるを得ないという、うんざりするような他人との関係のことだから、これまた君らにしてみればその時点で既に敷居が高いとみなされるわけだ。通じるかもしれないし、通じないかもしれない相対的関係、というのが君らにとっては桎梏となるし、諦念の起源ともなる。だって、自分がどんな些細なことであれストレスを感じず、相手が配慮してくれないなら、指一本動かしたくないし、結果が分からないことなんて最初から失敗と同じとみなしてるんだもの。



確実性のないことは集団的なバックアップがないとしたくないし、だから何時でも抑圧的な同一性の集団を維持したがるんでしょ。そこにいれば自分が「我慢」(しかし、本人たちが気に入ってるものを我慢とか抑圧とか、よく言うよ)する代わりに、何らかの利益が見込めるはず、てのが君らの集団の定義だし、そこにあってすら、自分と他人との対話において当該の集団性を組織するのではなく、専ら既にあった権力関係と暗黙のうちに押し通されるヒエラルヒーを通してしか築き上げられないんでしょ。自分が自然に身につけたものはどうあっても批判や問い直しの対象なんかにならないし、そうなるのは他人に見捨てられてると感じるときだけ、調和を乱すという形式的な問題においてだけで、内実なんて問う筋合いはないつーわけだ。逆に言えば、誰かが調和ある秩序を毀損するなら、当該の秩序の内実も他人がそれに抗する理由も何一つ関係なく不当だ、て話になるんだろ。あまりに馬鹿馬鹿しくて、涙が出てくるよ。


それで、今や、何故か知らないがそういう安定的な集団性が維持できないと感じてあれこれ理由を探しては、犠牲者を血祭りに上げたくて仕方が無いんでしょう?でもそれ、全部君らの問題だから。他人にはそんなもの関係ないし、責任も無いよ。選んだのも君らなら、維持したのも君らだし、そうしておいて満足すべきだって自分に言い聞かせて、あまつさえ他人にも偉そうに説教してたのも、全部君らであって、他人じゃないよ。いつから、自分のやったことを他人のせいにできるなんて話になったのかしら。一体、いつから自分が弱く何時でも従属的であれば常に既に何時でも自分の利益は配慮してもらえるし、受動的なままで正当性だけは確保できるなんてことになったのかしら。馬鹿言わないでよ。不作為は君らの問題だ。君らが自分で認知した図式の中で、君が何もしなくても正当性が明らかなら、それはすべて君の問題だし、他人はそんなものに関わる筋合いもなければ、知ったことでもない。道義的な話なんかしてないよ。単に何もしないなら、そのまま放置されて、君が予期したもの以上でも以下でもなく、君の認識の中において描いたあれやこれやが事実となって、全部君に跳ね返ってくるというそれだけのことだよ。単なる事実と蓋然性の話だ。モラルとか人間性とか正義とか、君らが自分のために、自分が何かしないでおくために用意したアリバイの話なんか、どうして赤の他人が気にかける必然性があるのか、まったく分からないね。


ポリ公が職質だの身体検査だのを要求してきたときに、これを事実において拒否できるかどうかは現実的で相対的な力関係かもしれない。実際問題として、連中がどのくらいそこに力を注いでいるか、言い換えれば本気かどうかにかかっている。これは、僕らにはどうしようもない権力との非対称性だ。でも、だから、相手が従っている論理を通して相手が不当であるなら強力に主張できるんだよ。連中は自分の意思においてそうしてるんじゃない、言い換えればそれを「仕事」としているし、「職業」上の要請としてやってるんだからこそ、連中にも弱みはどこにでもあるし、連中がうんざりしてどうでもいいと見なす程度に抵抗してやることは十二分に意味がある。仮に、最終的に譲歩したとしても粘って時間を費やさせることには意味がある。連中が日常的な業務の一環として、ノルマ稼ぎのためにやっているなら、君が自分の顔と名前を覚えさせるくらい徹底的に言い争い、時間を遅延させ、相手を疲弊させることが出来るなら、君は君の自宅や職場付近のポリから嫌がられる存在になれる。それは非常に貴重なことだし、大変有意義なことだ。ポリ公は何か問題があったときに君のとこに来るかもしれないって?馬鹿か、君は。なんで法律談義なんかするやつのところにわざわざくるんだよ。そんな事件、めったに無いぞ。それにそういう話なら、連中はオマワリ嫌いってカテゴリーをきちんと持っていて、余程のことが無い限りかかわりあいになりたがらないよ。少なくとも君らが日常で出会うポリは。


不審人物扱いって表現がブコメにあがっているけど、不審人物って唯一つのカテゴリーなのかね。またぞろ、君らが勝手にオマワリをおもんぱかってる、てだけじゃないの?頭悪いにも程があるよ。君ら、どんだけ臆病でどんだけ小心なんだ。大体、君ら、「政治的」なことがらに関わりあいにならないって決めてるんだろ。だったら、オマワリ嫌いに分類されたところでどんな危険性があんだよ。大体、オマワリにあれこれケチつける程度の連中を捜査対象にしないといけないような事件てなんだよ。オマワリに対してこちらが正しいということを理屈をこねて言う輩と、単にポリ公に敵意をむき出しにしてる輩の区別くらい誰にだってつくに決まってんだろ。それともあれか、君らの家や職場の近くでポリ公狙った犯罪でも起こるのか、公然と政治的テロでも起こるのか。だけど、昨今の公安がらみの事件なんて、大半が不特定で不明の容疑者捜すような類の事件じゃないだろうが。全部やったやつも、その日時も分かってて、お決まりのようにパクりに来てるだけだろ。それとも、あれか。いつか蜂起の日のために身を潜め、相手に目をつけられないよう隠密の生活を心がけてるってか。すごいな、君らは非公然活動家か何かか。君らの妄想がたくましいのは結構だけど、君らの言葉を借りればそんなもの一体現実的な予測ていえるのかよ。むしろ、日常生活で警邏のポリが嫌がって近寄らない方が余程、得じゃねえか。もの考えてから喋ってくれ。


もっと有体に言おうか?君程度の人間が、連中にあれこれケチつけたところで大した問題になるはずがあるかね。君は自分をよっぽど高く見積もってるんじゃないの?君らはセクトの関係者か、君らはナンチャラ弁護士会の一員か、君らは某党の活動家か、君らは反社会的と目されポリ公がそれを特別の業務対象として取っておく組織に関与する人間とでもいうのか。もし、そうなら既に日常において平然と関わりがあって、こんな些細なこと問題でもなんでもないだろ。アホかよ。当たり前のことが当たり前に出来ないのは、単に君らが舐められてるからだよ。


ああ、公安関連で名前が挙がるって?そりゃ、凄いね。オマワリ批判すると公安に狙われるのか。君ら、警察国家に住んでるんだね。そらあ、すまなかったよ。君らが平和そうにしてるのも、シニカルさを気取っていられるのも、なんでもかんでも権威と権力関係を楯に偉そうなことを言うのも、君らの生き延びるためのやり口だったんだね。それは本当にすまなかったよ。僕は君らを誤解してたよ。君らはそれほどまでに日常生活の根幹に秘密警察を招き入れてしまっていたのか。それは哀れだし、むごいね。いや、ほんとに同情するよ。


つまり、君らは何時でも権威や権力に脅かされて生きているし、身近な他人は密告者や制裁者になりかねないわけだね。つまり、一般的に言って他人は信用できないわけだ。安心なんて全て嘘で、無いから余計に服従の安息を脅かされるのはご免だ、て話だね。すばらしいね。いやいや、まったく。ほんとに大したものだし、凄いよ。褒め称えたいくらいだ。


そりゃあ、法律だのなんだのは一切関係ないし、何か抵抗したり敵対したり、それどころか悪意と敵意があれば既にそれだけで「有罪」なのもうなづけるね!君らに言わせれば無政府状態とは所謂一つの「北斗の拳」状態らしい。僕には申し訳ないが全く意味が分からん。でも、君らが意識と精神においては「北斗の拳」的世界に生きているのだけはよく分かったよ。うん、ほんとに哀れだし、悲惨だし、あんまりだね。ほんと。そりゃ、不愉快だよね。一生懸命「我慢」して「みんな」で平和に生きようとしてるのに、揉め事を持ち込むんだから。ただでさえ、放り出されたら何も保障されないし、何もかもが奪われるような極限的な世界に生きているんだから、それは怒るのも無理ないし、法に書き込まれた妥当な権利なんてどうでもいいよね。むしろ、そんなもの本当に認めたら、他人が好き勝手なことはじめて自分が一生懸命はいつくばって手に入れたたった一つの平穏さまで滅茶苦茶にされかねないものね。


ほんとに、お気の毒様。僕が君らに出来ることは殆ど無いよ。いや、ほんとにすまない。今まで誤解してたよ。僕が悪かった。この通り、君らにしてやれることなんて何もない。そうだね、一つだけ言えるとすれば、寝言も大概にしてよってことくらいかな。君ら、自分の日常は安穏としていて、それ自体大して害もなければ、支障もないだろ。というか、もっと言えば気に入ってんだろ。君らが持ち出す論理がな、どういう経路をたどっても、どんな形式の下に披露されようと、どっちにしろ胡散臭いのは、君ら自身は一ミリだって被害を蒙ってなんかいないからだよ。ええ、ええ君らはよく言うよね。「それが現実だ」とか「皆がそうやってる」て。いやね、そんなこと誰も聞いてないんだよ。「君ら」がそうしたいかどうかなんて誰が聞いたよ。ばーか。勝手にそうしたいなら、どうぞしてくれ。君らの理屈が汚らしいのは自分たちも告発者と同じくらい被害を蒙っているけれども、それに耐えてこの平和を贖ってるんだ的なガキみたいな戯言をほざくからだよ。それは、全部君らが自分で選んで、自分で望んだんだよ。そんなもの他人に押し付けるいわれなんかねーよ。他人はこんなもの要らないって言ったんだよ。こんなものは間違っているし、自分の責任でもなければ、自分の望みでもない以上は、それを拒否するって言ってるんだよ。君らがそれに反対するのは君らの自由だ。でも、そうだとしたら、君らと他人の間には敵対しか残らないし、そうなったのは他人が拒否して、君らが同意しているからではなく、君らが他人も同意しろと脅迫するからだよ。君らが線を引いてるんだ、間違えないでくれ。君らが自分からやったんだ。それこそ「関係も無いのに」のこのこやってきて、誰に頼まれたわけでもないのに、連中のお先棒を担いで喚いてるだけだよ。



http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090203/p1


こういうエントリがあって、何万回繰り返されたか分からない「左翼」論議と「非政治的存在たる権利」てな主張が飽きもせずまたぞろ姿を現している。一方は他方の前提を否定していて、他方は一方の想定された無謬性を批判する。この議論によれば「観客席」と「闘技場」の比喩が問題になっている。一方が「巻き込むな」といえば、他方は「関係ないやつなんかいない」という。闘技場しか存在しないという論理と、見世物の見物人はそれ自体現実だし保障されるべきだという論理だ。この上もなく明瞭なことは要するに敵対関係が発露されている、ということであってそれ以上でもそれ以下でもない。どっちが正しいかなんか問題にするつもりはないよ。そんなの、どっちだっていいもの。ただ単に「お前も関係者だ」つー論理と「俺は関係ない」て論理の間には和解なんてない、ていうそれだけの話じゃないか。関係なくて傍観者でいたいなら、どうすればいいか君ら、百も承知だろ。いつでもそうやってきたし、可能であればそうし続けたいんだから。それは結構だし、勝手にすればいい。そうするのは君らの問題だし、君らの行為だ。結果も含めて君らのものだ。正しいかどうかみたいな話じゃないよね。

ただ、僕に分からないのだね、呼ばれてもいないのにわざわざ見物に来て、適当に野次ってるうちに巻き込まれて文句を言うときの君らの理屈の幼稚さだ。君ら、なんて言う?そういう時に、他人になんて言ってる?必ず、自分の方が「妥当だし、正当だし、まともだ」て言うだろ。そう、言わざるをえないとか思ってんの?でも、君らが選んだのは君らの欲望に従ってだし、現に喚いてる根拠も君らの欲したものでしかないし、それ以上の理屈なんかどこにもないじゃない。


野次馬がそこにいれば巻き込んで騒ぎを大きくするに決まってるだろ、馬鹿。おい、今更「正しさ」を云々するなよ。最初から相手の正当性を認めない論理で真っ向から敵対している人間たちに、何だってそんな理屈が通るんだ?頭悪いの?威されたら、威し返すし、やられたら、やり返すんだよ。泥仕合は望まないって?そのための秩序と平和だって?おい、君ら、本気で言ってるのかよ。君らがはじめに排除したんだろ、その平和とやらから。どうして、排除されたものが君らの理屈に従うんだよ。なんで同じものでない人間たちが、同じ理屈に従うんだよ。他人てのはそういうもんだろ。他人がいる、てのはそもそもこっちの道理も理屈も正当性も原理的に通じないて話だろ。誰が他人で、その中の誰が敵かなんて誰だって日常的にやってるじゃないか。君らはほんとにそそっかしいな。君らのストレスフルな日常生活はそういう他人を排除するためにあるんだよ。君らの平和とか日常てのは、君らが他人たちと一緒に相互の抑圧と監視によって互いに守るから成立するんだよ。そんなもの受け入れるつもりがない赤の他人に、なんで君らのたかだか狭い人間関係でしか有効でないゴミ屑以下の論理が通じると思うの?


大概が頭の悪い論理というのには一つの共通点がある。自分を合理化して正当化するために、物事の敷居をどんどん高くしていくからだ。絶対、なんて言葉は誰も使ってないし、誰も全てが、なんて話はしてない。それを先回りして、テロやら暴動やら暴力やらを蓋然性の中に組み込んで、究極的な水準でしか物事を判断しないし、そこに依拠しようとするから馬鹿って言われるんだよ。間抜けだし幼稚だ。どうしてかって?相手の理屈を絶対的な形で否定すればするほど、君らの平和も高くつくことになるからだよ。どうでもいい話に究極的なものを持ち込めばどうなるか、目に見えてるじゃないか。同じ理屈で相手にやり返されるんだよ。権力の有無を言わさない強制力と威嚇という担保以外に、そんな平和は維持できないからだよ。他人を好き勝手に断罪して、排除して、どうでもいいレベルの日常的な利害関心にまでその手のロジックを持ち出すなら、もっと言って調停や和解を予め目的にすえて、それから漏れそうなものを前提として否定するなら、その時には相手も同じ理屈で今度は君らを排除するからだよ。馬鹿か、君らは。どうして、自分が否定して拒絶した人間たちが自分たちの平和や利害や正義を配慮してくれるなんて、どうしてそう思うのかしら。ほんとに頭沸いてない?


行動のまえにそれを絶対的に判断する根拠とか論理を欲するだろ、君ら。それでもって現実的な――君ら自身が共犯関係にある現実的な権力関係を正当性とすりかえるだろ。出てくる結論はなんだ?敷居を高くして、むき出しの力を肯定してるのは君らなんだよ。そうしたら、どうなるかなんて目に見えてるじゃないか。関係があるとかないとか、問題になるわけがないだろ。どうあっても、何かが起これば関係は発生するよ。君らがそういう全体的なレトリックでしか語ってないんだから。他人の正当性を無関係な人間が一々裁断する、てのはそういうことだよ。君らが選んで、君らが望むんだよ。他人の所為になんかするなよ、ハゲ。



ついでにいえば、「左翼」てな言葉が極めて胡散臭く響くのだね、君らが一方的な関係しか想定していないし、そうあるべきだと露骨に考えてるからだよ。君らの論理に従えば、左翼とやらは君らもそこに含まれているある全体の正義を代表しないといけないらしい。左翼は君らの声を聞き、君らの当然の欲求に慮り、君らを丁重に扱わないといけないらしい。どんな理由で?国民だから。権利の保持者だから。社会の一員だから。なにより「左翼」の論理とみなされたものの中に、原則的に君ら自身の正当性も関わっているから。馬鹿言わないでくれ。一体、いつから左翼とやらはそんな全体的で、総合的で、公共的な単一の救済機関になったんだ?左翼って言葉が有効なのは行為とは別にそれを客観的蓋然性の枠組みで認識する限りでだ。君らの大好きな言葉でいえば、メタ視点に立つからだ。状況を分析するのには有用かもしれないし、理解という次元においては有効かもしれない。でも、それは正当性に関わる基礎ではないし、ましてや道徳的な必然性でもない。君らはいつも傍観者でいようとするくせに、傍観者が必然的に陥らざるを得ない距離をすぐに無視したがる。いくつもの利害関心や敵対関係の網目の中で、その現在において何を敵とするかに応じて分断された一方の側でしかないカテゴリーに、全体的で、それこそ諸々の敵対関係というよりは敵対性それ自体を無効にするような絶対性を導入しようとするから、君らは間抜けと言われるんだよ。

実際のところ、一体に「左翼」てな言葉になんだって規範的価値を求めるのかさっぱり分からないし、この言葉に「正義」をかけて平然としていられる神経もさっぱり分からない。分断も敵対もどこにだってあるし、いつだって利害関心と正当性の論理に従って人間は相互に敵対しあっているし、その中でどこで味方し、どこで敵対し、何を駆け引きして、最終的に何を手に入れるか、それこそたくさんの分岐がある。そういうのを全て打っ遣っておいて、君らが君らの頭の中でしか成立しない全体的な理屈で語るなら、君らが避けようとしている現実的なリスクは益々増大するよ。子どもでも分かる論理だろ。


抽象的な理屈遊びってのはそれ自体ひどくもろい。容易に裏返しの理屈で否定できるってことは、当該エントリのコメント欄に沸いている馬鹿の発言にしてもそうで、これが悲惨なくらい幼稚な論理だってことは君らにも分かるよな。絶対的正義があるかないか、なんて現実的な暴力を正当化するかどうかと関係が無いし、ましてやそれが実行されるのを防ぎようがない。絶対的正義は不可知だ。そうだね。あらゆるものには誤謬性がつきまとう。そうだね。それで?じゃあ、なおのこと今現在の法秩序にも権力にも正当性なんてないし、そこに生活する人間一人一人が既にして不当だって論理は十分成立するよ。どんなものでも、現実の行動を問題にしてるときに過度の抽象性を問うなら、相手と和解できないことを前提に暴力は蓋然的なものになるんだよ。そうしたくない、と望むのは君らだ。他人がそう考えるかなんて分からない。だから、交渉するときは他人の利害関心に配慮するだけなく、他人よりも有利でいようとするんだろ。相手を威しつけて、言うことを聞かせられるようにさ。権威とか権力とか暴力ってのはそのためのものだ。他人と自分のあいだの規則を築くには欠かせない力だ。でも、この力は究極的――というのも、そういう話をしているのは当該の馬鹿なんだから――には同じものを返されるリスクを抱えている。



君らは自分が人生においてなんらかの形で関わらざるを得なかった集団の中でいつも我慢してきたし、そうするのが規範的な振る舞いだと考えてるのかもしれない。大体において、他人と自分の両者を超えて存在すると仮定された規範が、他人の利益も自分の損害も調停してくれてきたから、それがすべての他人にも通じると思ってるのかもしれない。でも、他人にはそうしない自由もあるんだよ。これは正当性じゃなく事実の問題だ。だから、君らは強制力をいつでも担保したがるんだろ。お望みとあらば、この暴力を正当な抑止力だとか秩序の担保だと言ってもいいが、それは君らの平和だし、君らの秩序だ。なんらかの<正しさ>なんてものは共有されないなら無力だ。君らが望み、君らが好んで、それを選んだんだ。忘れないでくれ。敵と味方しかないなんて台詞は、まず自分に向けてから発言してくれ。君が敵を決めたんだ。他人がそうしたんじゃない。

とはいえ基本的には他人にしてみれば、君らが何を望もうと、何を欲しようとどうでもいいと考えるだろう。赤の他人なんだから。個人的には、邪魔にさえならないなら、ほんとにどうでもいい。心の底からそう思う。他人は他人だし、他人には他人なりの自由も欲望も正義もあるんだから。でも、君らは自分からどうでもいいことに首を突っ込んできては「間違ってる」とか「おかしい」とか喚くわけだ。あげく、理屈を提示すればいきなり「迷惑だ」とか「巻き込むな」と来たもんだ。誰が、お前らに話しかけたよ。あのな、無関心でいたい自由てのは単に自分の行動が強制されるか否かという点でしか保障されないんだよ。当たり前じゃねえか。どんだけ幼稚園児なんだよ、君らは。他人の行動は巡りめぐって、何らかの形で社会に影響を及ぼすなんてのはその通りだけど、それを否定するってのは本質的に個人の「自由」も「権利」も「正当性」も何一つとして認めないって言ってるようなものじゃないか。いつでも、全体化された総体としての共同体なり集団なりを問題にしないと、行動ひとつ出来ないってのは個人なんか最初から認める気がないって言ってるのと同じだろ。不作為の自由も、無関心の自由も、単に放置されるって意味でしか自由なわけないじゃない。それを望んだのは君らでしょ。知らないよ。自分のケツくらい自分で拭きなよ。


一つだけ、同じことを繰り返すけど、君らと一つだけ分かち合えるかもしれないものがあるとすれば、多分、君らの利害に関わる事柄だけだろう。そして、その点においても君らの幼稚な理屈は、巡り巡って自分の首を絞めることになるという話はできるかもしれない。それは君らが君らの平和を維持したいなら、なおのこと些細なことに君らの馬鹿馬鹿しい理屈を持ち出さない方がそれこそ君らにとっても得だ、ということくらいだ。君らの相手を批判する論理はね、相手があらかじめそれに従う合理的で実際的な担保がない限り、まったく意味をなさないんだよ。簡単にいえば、相手が君らと同じところに属していて、君らをあらかじめ仲間だと思わない限り、はっきり言ってどうでもいい、酷く内向きの理屈なんだよ。ということは、どういうことかすぐに分かりそうなもんだけどね。「現実主義」を標榜するってのはそういうことだよ。相手に配慮してもらえる余地を一切なくしてるのは君ら自身だ。


たかだか職質とかポリの職権乱用程度のことで、それを抑制したり、やりこめたりする行動を「治安」とか「防犯」と絡めて論じるなら、そのときには君ら自身が「権利」も「自由」も要らないし、そんなものどうでもいいって告白しているようなものなんだから、この論理が裏返しで何を意味するかよくよく考えてみてほしい。つまり、他人たちがそんなものは不愉快だし、当然のように拒否したいと考えた場合、どうなるかを考えてみてくれ。それこそリスクの問題だ。これをいわゆる治安機関の必然性と秩序の担保みたいな抽象的な話にするなら、どうなるか少しだけ真面目に考えてみて欲しい。何度も言うけど、君らの論理なんざ君らが選んで、君らが決めたことでしかない。そこにどれほど現実的な理由があろうが、あるいは単なる怠惰な無思慮ゆえであろうが、どっちにしろ関係が無いし、他人たちを説得する道は君ら自身が塞いでいるということをよく覚えておいて欲しい。行動の敷居を高くすればするほど、リスクも増えるんだよ。それが君らと本来的に関係あるかないかはどうでもいい。ただ単に事実において巻き込まれるかどうか、だけが問題なんだ。だって、そういう状況を望んだのは君らなんだから。



まあ、面倒なことになるとかならないとか、そもそもポリ公が現れた瞬間から巻き込まれざるをえないんだから、嫌がらせくらいしとかないとね!そんなかんじー。あ、オマワリ大嫌いとか、オマワリうざいとか、どうでもいいけど俺でノルマ稼ぎすんなボケ、ていう無為徒食の同胞諸君は↓を見てね。

http://d.hatena.ne.jp/tzetze/20090207/1234010040